先日、ある研究者と飲んでいて、また前原さんの話になった。京都での焦点は、この話題だよね。
その方が、前原さんのことを「安保マフィア」って呼ぶんですよ。まあ、予想されたことではあるが、いまでもそう言うかという驚きもある。それでだいぶ議論することになった。
私は、前原さんに限らず、誰かのことを表現するのに、この言葉を使ったこと自体がない。だって、マフィアって、いろいろなものに使われるようになっているが、基本は犯罪者集団のことだ。金融マフィアというような特殊な使われ方をする場合も、犯罪すれすれのことをやっている人たちを指すのだと思う。そう簡単に使っていい言葉ではない。
安保マフィアの場合、そうではないのかもしれない。せいぜいひどい使われ方をする場合も、戦争を煽ってもうけ仕事にしている人ってことだろう。アメリカでいうと、アーミテージとか。
でも、それだって、犯罪者扱いする言葉が適当だとは思わない。強い言葉を使って批判するっていっても、正確に事実をあらわさない場合、一部の特殊な人の熱狂は生んだとしても、かえって多くの人の心をつかまないと思うし。
前原さんの場合も、犯罪者扱いはおかしいし、戦争を煽って儲けているというのでもない。ただ安全保障を重視しているということで、そういう言葉を投げつけていいとは思わない。
ただ、その研究者は現在、前原さんをはじめ民進党との共闘そのものに批判的なスタンスを取っている。だから、それでも整合性はあると思うのだ。強い批判的見地を抱いている相手との共闘はできないということだから。
私が疑問に感じるのは、以前、民主党との共闘はあり得ないと主張していた人が、いま野党共闘は当然という立場に変わっていて、まあ安保法制の闘いで発展したということになっていて、それはいいのだが、かつての主張との整合性をどう考えているのか分からないことである。
たとえば、民主党とか民主党政権の政策をとりだし、経団連の要望事項などと照らして、民主党のことを財界を代表する政党みたいな言い方をしていた人もいた。それをどう総括しているのかが見えない。
そもそも、民進党に対する見方を変えたのか。それならいまは財界ではなく、何を代表する政党だと規定するのか。
見方は変えないで共闘するのか。じゃあ、財界やブルジョアジーとの共闘ということになるが、それでいいのか。多少の理論的な修正、発展はあるのか。
そういう議論がないまま、ただ枠組みとしての「野党共闘」があり、それからはずれることはダメというのでは、「野党共闘」も発展しないと思うのだ。どうなんでしょうかね。
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