生業訴訟の持つ意味・中

2017年3月27日

 生業訴訟に関わった3年前、びっくりしたのは、賠償を求める根拠を民法第709条においていることであった。原子力賠償法も根拠ではあるが、主には民法によって賠償を主張していたのである。

 いまではよく知られていることだが、原子力賠償法は、原子力事故が起きた場合、原発事業者には、事故の過失・無過失にかかわらず、賠償責任があるとしている。その事故に過失があったのかなかったのかは関係なく、賠償しなさいということだ。製造物責任法でも同じ構造であり、製造物が損害を与えた時、「(製造業者は)これによって生じた損害を賠償する責めに任ずる」とされている。過失がないからといって責任を取らないでいいようにしないという点で、意味のある規定ではあるのだ。

 しかし、そういう規定であるので、賠償を払ってしまえば責任は問われなくなる。その結果、原子力賠償法に基づいて賠償を求める裁判を起こしても、国や東電の過失(責任)は曖昧にされる可能性があるわけである。

 あれだけの大事故を起こしておきながら、国と東電の責任が断罪されないままで終わってしまうなど、許されることではない。誰も何の責任もとらず、曖昧なまま終わってしまったら、再び事故を起こさないために必要な教訓も得られなくなる。そこで、生業訴訟では、以下の民法第709条を主な根拠に持ってきた。

 「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」

 ここでいう「過失」とは、予見可能な結果について、結果を回避する義務の違反があったこととされる。だから生業訴訟では、今回の事故が予見可能であったこと、ところが国と東電が回避する義務を果たさなかったことが追及されてきたわけである。

 もちろん、他の裁判でも、この民法規定が顧みられなかったわけではない。17日の前橋地裁の判決も、国と東電の責任を認めるものとなった。しかし、これを主な根拠として闘われた生業訴訟が国と東電の責任をどのように認定するかは、今後、原発事故の責任を論じるうえで、1つの重要な基準となっていくであろう。そこが注目点である。

 もう1つ、私が生業訴訟を大事だと思っているのは、被害者を等しく扱う構造を持っていることである。被害の程度や居住地などで差別していないことである。

 通常の裁判は、一人ひとりの被害の程度を実証し、それに見合った賠償を求める。だから、判決で下される賠償額も、人によって異なるという結果になる。当然のことだ。

 それに対して、生業訴訟では、原状の回復を求めるとともに(事故前の状態に戻せということ)、それまでの間、被害者の全体救済を求めている。すなわち、事故当時に住んでいた地域がどこであれ、現在どこに住んでいるのであれ、月額5万円の慰謝料を請求しているのである。救済を求める対象は原告だけでなく、まさに被害者の全体である。なぜこれが大事だと思うか、それは明日に。(続)

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