安彦良和『原点』で思ったこと・3

2017年5月22日

 「人はわかり合えない。しかしだからこそ、わかり合う努力が必要だ」。これが安彦さんの考え方で、「ガンダム」にもその思想が貫かれているという。

 わかり合う努力ということを一般化せず、安彦さんや私に即して論じるとすると、トロツキストと共産党はわかり合えるのかという問題が浮上する。そこを抜きにすると抽象的な問題になってしまう。

 私が大学に入学した1973年というのは、学生運動自体が退潮に向かっていたが、とりわけトロツキストは壊滅的な状態だった。浅間山荘事件その他、凄惨な内ゲバに明け暮れているわけだから、もう対話の相手というものではなかった。私がいた一橋大学でも数名の反帝学評(青トロと呼ばれていた)がデモをする程度で、私も私の友だちもそれに惹かれるようなこともなく、議論の相手として認識することはなかった。

 ただ、トロツキストが誕生した50年代末のことを考えると、しっかりとした総括が必要だと感じる。戦後すぐ、共産主義の思想が少なくない学生の心を捉えていたが、いわゆるスターリン批判が56年に行われ、ソ連の驚くような実態が明るみになった。単純化することになるが、スターリニズムに犯された社会主義には未来がないとして、共産党員だった学生たちが58年に「共産主義者同盟(ブント)」をつくり、全学連指導部で多数を占めるようになる(なお、60年安保闘争において国会前で亡くなった樺美智子さんは、私と同じ神戸高校の先輩である)。それとは別に「日本トロツキスト連盟(57年)」から「革命的共産主義者同盟」に至る系譜がある。

 共産党はこれら全体を「トロツキスト集団」として批判することになる。しかし、現在の到達から見ると、当時のトロツキストには道理があったと思う。あれだけのスターリン批判が行われ、「こんな国は社会主義の名に値しない」と学生が感じたのは、当然のことだったろう。当時学生で共産党員としてがんばった私の大先輩も、学生がその方向に動くのはいかんともしがたかったと語っている。

 ところが共産党は、トロツキストの考え方に同調しなかった。それどころか、スターリン批判をきっかけに起こったハンガリー民衆の蜂起をソ連が軍事介入して鎮圧したとき(56年)、それを理解する態度をとった(後に訂正)。その学生たちを「トロツキスト」と名づけていたのも、スターリンによるトロツキー評価を前提にしたものであった。要するに、トロツキーはスターリンが言うように革命の裏切り者だが、スターリンは革命の枠内にあるというか、腐っても社会主義という評価だったわけだ。その後、自主独立の立場を確立し、ソ連とも激しい論争をくり広げ、国際会議の場で闘うわけだが、ソ連が社会主義の枠内にあるという評価は変えなかった。

 ところが91年にソ連が崩壊すると、こんどは共産党自体が、「ソ連は社会主義ではなかった」と断定することになる。そして大事なことは、その論拠としてあげられたものは、基本的にすべて56年のスターリン批判の際に明らかになったものだったことである。つまり、56年の時に学生たちが感じたことは、たいへん先駆的で鋭かったということでもある。それなのに、共産党の側はそれを評価できず、深刻な対立を生み出したということだ。

 もう60年も前のことで、存命の人もほとんどいないのだろうが、少なくとも当時、わかり合うための努力が必要ではなかったのだろうか。トロツキストというと、多くの人にとっては大学紛争前後のことを思い浮かべるのだが、その時代のことではない。その前のトロツキスト誕生の頃のことは、議論されてしかるべき問題だと感じる。(続)

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