「政治主導」と「官僚主導」

2017年8月31日

 昨日から東京。本日は先ほどまで筑波方面に行っていた。夜は来年のマルクス200年ツアーの相談だ。

 筑波は、元経済企画事務次官の方のお家へ。この方に書いていただいている本には、膨大な数の本、報告書類からの引用があるので、元のものを貸してもらわなければならないのだ。引用が間違ってはいけないし。それと、本のタイトルをどうするか、率直にご相談してきた。

 それが終わって、ちょっと雑談。以前から関心があったのだが、民主党政権が廃止したとされる事務次官会議って、どんなものだったか教えてもらった。事務次官会議で決まったことが、そのまま直後の閣議で決まるというやり方だったのか。本当にそうだったということだ。

 それだけじゃなくて、そもそも事務次官会議が開かれたときは、すべて根回しが終わっていて、議題が読み上げられるだけで、誰も発言しないそうだ。発言するときは、その議題に異論を提起するときだけで、その場合、全会一致が原則なので、その議題は通らなくなる。他の省庁の議題にそんなことをして恨まれるのはイヤなので、誰もそんなことはしない。食事を摂りながら会議をするそうだが、ただ黙々と食べているという会議だったそうだ。

 もちろん、そうなるのは一面では、事前に相当な議論がやられているからということもあろう。いま進行中の本を見ても、消費税の導入をめぐって、大蔵省と経済企画庁との間には、相当大きな意見の違いがあったようだし。

 それを民主党政権は、「政治主導」の名のもとに廃止した。しかし、主導できるほどの政治の力量を持っていたわけではなかったので、官僚にはそっぽを向かれ、自分たちで魅力的な政策を考え、遂行できるほどの力もなく、あえなく潰えさった。

 けれども、その「政治主導」というのは、皮肉なことに、民主党政権を打倒した自民党の安倍政権で実現しているように見える。官僚がみんな安倍政権に奉仕しているわけだからね。事務次官会議は、名前をかえて復活しているようだけど。

 「政治主導」自体はいいことで、安倍さんが主導している中身が悪いということなのか。それとも、官僚の役割がもっと大事であって、「政治主導」自体がもっと否定的に捉えられるべきなのか。その辺りは難しいように感じる。

 野党共闘で何らかの政権ができたとして、「政治主導」でないと、何かを変えることはできないと思う。国民世論をバックに政権交代があったとして、政治主導は国民主権の発露ということになろうし。だけど、官僚は反旗を翻したら、そもそも行政がスムーズに動かなくなるわけだし。

 鳩山友起夫さんと柳澤協二さんの対談本である『抑止力のことを学び抜いたら、究極の正解は「最低でも国外」』では、政治主導に失敗した鳩山さんの間違いがどこにあったかを、官僚であった柳澤さんが深く分析していておもしろい。安全保障のことに関心がなくても、意味のある政権交代を成功させようと願う人には必読である。

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