習近平報告を読む・4

2017年11月4日

 今回の報告を読んでみてびっくりするのは、驚くほど「社会主義」という言葉が多用されていることだ。それも「中国の特色のある社会主義」である。

 それほど、この間の「前進」に自信を持っていることのあらわれかもしれない。けれども、じゃあその「社会主義」とはどんなものなのか、そこが必ずしも明らかではないように思える。

 いや、中国共産党的には、明確なのだろう。たとえば、「社会主義現代化強国」を2段階で建設するというが、それは以下のようなものだ。

 2020年から35年までは、すでに実現した「小康社会」を土台に、「社会主義現代化」を成し遂げる。「人民の生活がより豊かになり」、「発展の格差や住民の生活水準の格差」が「著しく縮小する」。すなわち、豊かにはなるが、問題は解決しきらない段階というイメージだ。

 他方、2035年から49年まで努力すると、「社会主義現代化強国」になる。各種の「文明が全面的に向上し」、「トップレベルの総合国力と国際的影響力を有する国となり」、「全人民の共同富裕が基本的に実現し」、「中華民族はますます溌剌として世界の諸民族の中にそびえ立つ」そうだ(そんなに「溌剌」としてほしくないけどね)。

 さらに、「新時代の中国の特色のある社会主義」は8つで構成されるそうだだが、5つまでは経済分野で、それ以外、6つめは「人民軍隊」が「世界一流の軍隊」になるというもの。7つめは外交で、最後に8つめが「中国の特色ある社会主義制度の最大の優位性は中国共産党の指導」であるというものだ。

 前者の2段階規定は、マルクス以来の共産主義の2段階論を援用したものだろう。「労働に応じて配分される」段階と「必要に応じて配分される」段階だ。

 しかし、社会主義というものをこうして捉えると、かなりおかしいことにならないか。世界的に社会主義の運動で理解されていたものとはかなり異なる。

 だって、私にとって共産主義が発達した時点での最大の特徴は、「国家の死滅」である。「国家が次第に眠り込む」というものだ。社会主義の低い段階ではまだ国家権力が配分を取り仕切らないといけない程度の生産力にとどまるが、やがてはそれも不要になり、まさにみんなで支え合う共同社会ができてくるイメージである(別の議論になるけれど、「ともに支え合う社会」は立憲民主党の公約で、前原さんのall for allだって同じ意味で、3.11直後の公明党も「支え合う社会」と言っていた。これってCommune(共同)ということで、それが共産党と訳されたんだよね。共産主義と訳すと毛嫌いされるけれど、そのめざすところは多くの政党にとって、共通のものになるのかもしれない)。

 だから、共産主義社会では、いっさいの暴力がこの世から消えていく。暴力装置が不要になる。ということは軍隊も不要になる。権力が不要になるということは、共産党だって不要になるということだ。

 ところが中国式の社会主義、共産主義論というのは、発展すればするほど、軍隊は強大化して、一党独裁は強化されるのだ。つまり、これまで理解されてきた社会主義と違うどころではなく、その反対物になってしまっている。多少でもマルクス、エンゲルスをかじっていたら、恥ずかしくてこんな報告できないでしょ。ジョークとしか思えない。そんな社会主義像を描いて、人々が付いてくるのか。

 こうして、中国共産党が「社会主義」を強調することで、しかも、世界の社会主義運動のなかで通用してきたものとはまったく異なる「社会主義」を強調することで、社会主義はこれまでの社会主義のイメージからかけ離れた別のものとして理解されていくわけである。

 そんな中国流社会主義像を批判しぬくことなしに、他の国で社会主義を掲げる勢力が維持されることはない。そんなことを思わせる習近平報告であった。次回は最後に安全保障問題へ。(続)

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