時代は変わったなあ

2018年8月21日

  昨日、卒論のことを書いた。「現代社会主義の到達点と構造」というのがタイトルで、目次は画像をご覧あれ。

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 いやいや、現在、社会主義論を卒論のテーマにする人なんて、一人もいないだろうね。批判の対象にもならないというか、そもそも学問の対象ではないというのが、いまの風潮であると思われる。

 しかも、目次の後半を見ていただきたい。結論部分は、「わが国の革命にかかわる諸問題」となっている。しかもしかも、この卒論の出だしは、こうなっているのだ。

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 「周知のように、日本共産党第一四回大会は、『現在、社会主義派世界史的にはまだ生成期に」あると規定し、今日の到達点から『人類の社会主義的、共産主義的未来がもつ壮大で……」云々。

 これって、私がこの程度のことしか書く能力がなかったこともあるのだが(大学の社会学部2年生の夏から卒業する6回生の終わりまで、また経済学部に学士入学して退学するまで、授業は1回も出なかった。年度末の試験のときに教室に始めて入り、始めて先生のお顔を拝むという恥ずかしい学生生活だった)、それだけではない。当時、学問の世界においても、共産党が何を主張しているかが、それなりに注目され、価値あるものと思われていた事情が存在する。

 だって、まだ社会主義国は存在していて、それなりの存在感があった。ところが、資本主義国にあって社会主義を掲げる勢力というのは、その多くが、ソ連や中国や北朝鮮や、どこかの社会主義にべったりだった。昨日書いた社会主義がどこまで到達しているかについても、それをオウム返しに言っていたに過ぎない。いずれにせよ、現実の社会主義国を賛美するばかりだった。

 その中にあって、日本の共産党は、社会主義は「生成期」だ、生まれたばかりで未熟だという見解を打ち出したのである。「社会主義は立派だ」と主張していたソ連などからは、はげしい批判が寄せられる。

 当時、共産党のなかでこの主張の中心にいた聽濤弘さんに伺ったところ、「ソ連など現在の国は社会主義ではないと言った方がいい」という人もいたそうだ。リアルな見方をする人が共産党の中にいて、だから学問の世界で主張されても違和感がなかったというか、卒論の冒頭に引用しても、内容的にそれに反対だという先生はいただろうけれど、引用することそのものが学問の基準から外れると考える先生はいなかったのだと思う。上田耕一郎さんなんかが、私の大学(一橋大学)で講師として迎えられたりもしていたしね。共産党幹部の理論は学問の対象だったのである。

 でも、いま、冒頭に共産党の大会決議を引用するような卒論を書いたら、ただ批判されるという程度のことではないだろうね。「お前、学問をバカにしているのか」と言われるかもしれない。時代は変わったなあという感想だけれど、再び学問の世界で相手にされる時代は来ることがあるのだろうか。

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