懐かしいなあ

2018年8月20日

 『北朝鮮というジレンマ』を書いているが、その途中、70年代初頭にソ連、中国、北朝鮮の間で起きた社会主義論争に言及する必要性が生まれた。そこで恥ずかしながら、私の大学の卒業論文を取り出してみた(画像)。

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 まだワープロなど存在しない時代。よく4万字も書いたよね。

 当時、社会主義はどこまで到達したのかをめぐって、いろんな論争があったのだ。社会主義が崩壊した現在となっては、どれだけ意味があったのかと思っちゃうけどね。

 ソ連は、すでに資本主義から社会主義への過渡期を終え、社会主義に到達したと高らかに宣言していた。階級対立はなくなり、「全人民国家」が出現したというのだ。

 一方、中国は、過渡期→社会主義→共産主義という、当時の社会主義の段階的発展説そのものを疑って、共産主義になるまでは過渡期だという考えを打ち出していた。過渡期なのだから激しい対立があるのは当然ということで、文化大革命を正当化する理論的な基礎であった。

 さらに北朝鮮は、自国が過渡期を終え、社会主義段階にあるという説をとっていた。しかし、社会主義になっても矛盾が起きるので、プロレタリア独裁が必要だとして、金一族の支配を正当化していた。

 私の卒業論文は、マルクス、エンゲルス、レーニンの社会主義論をまず眺めて、さらにそういう論争を批判して、いまの社会主義がどこまで到達しているかを論じるものであった。読み返すと、真面目に論じているよ。

 もちろん、社会主義というのはまだまだ生まれたてで、どこにいくかわからないものという位置づけで書いていた。しかし、そうはいっても、ソ連も中国も北朝鮮もみんな社会主義には違いないという前提で論じているわけだから、いまから見れば恥ずかしい限りだね。

 でも、これを書くために、まだ第一巻までしか読んでいなかった『資本論』を読了したり、「全集」にもだいぶ目を通したし、偏ってはいたけれど、勉強だけはした。学生運動に没頭していたけれど、卒論を書く3か月は、学生運動もお休みしたしね。

 率直に言って、幅広い知識を得るようなことはできなかったわけで、それは悔いの対象ではある。しかし、一つの学説を徹底的に勉強したという点では、その後の勉強をする姿勢を確立するには役だったかなと思う。

 いずれにせよ、懐かしい思い出。いやな思い出ではない。

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