自衛と侵略・下

2013年5月31日

 戦後の世界政治というのは、「自衛」をかかげた侵略の歴史でもあった。一方、だからこそなのであるが、自衛と侵略をどう区別するかという議論の歴史でもあった。

 自衛権というのは、国際法上、三つの要件が必要とされる。第一は違法性の要件であって、武力攻撃をうけたということだ。第二は必要性の要件であって、武力で反撃する必要があるというか、外交手段では解決しないというものだ。第三は均衡性の要件であって、相手の侵略の規模に均衡する程度の反撃にとどめなければならないというものだ。

 戦後の世界で戦争しようとする国は、この要件を満たしたといって、戦争をしかけてきたわけだ。そして、本当に満たしているのかどうかが、国連の安保理とか総会で議論されてきた。

 たとえば、イスラエルはたびたび、アラブゲリラに襲撃されたことを問題にし、その襲撃が「武力攻撃」に匹敵すると言って、エジプトとかレバノンを攻撃した。だけど、この要件で想定されているケースの基本は、国家による武力攻撃である。レバノンなどがイスラエルを攻撃したわけではないということで、安保理や総会でイスラエル批判の決議が採択される。その後、そうはいっても、テロリストを居住させている国の責任はどういう場合に問われるのだという議論があり、国家がテロリストを派遣するような場合は、その国家の責任だということが合意されていく。

 あるいは第二、第三要件として印象に残る議論は、86年のアメリカのリビア爆撃である。あのときアメリカは、リビアによる次のテロが計画されているので(外交で阻止できる状況ではないので自衛権の必要性がある)、リビアの軍事施設だけ(均衡性がある)を攻撃したと説明した。総会では、誰がどんなテロを計画していたのか説明すべきだと発言する国があった。また、テロが計画されているならば、テロリストが潜んでいる施設を爆撃すべきだが、アメリカが破壊したのはその施設なのかという質問もあった。しかし、アメリカはこれらに答えることはできず、総会はアメリカ批判の決議を採択した。

 これら無数の議論を通じて、74年の国連総会の「侵略の定義」決議が採択され、ローマ条約でも侵略の罪を裁くことになる。要するに、国家が自衛という言葉を濫用するのは事実であるが、それを峻別できる状況に到達しているというのが、国際社会の認識なのである。こういう到達があるから、日本が侵略したことについて、安倍さんその他の特殊な人をのぞき、国際的な常識になっているのである。

 もちろん、市民レベルの平和運動が、そういう区別はできないとして、どんな戦争にも反対することはあってもいい。ただ、そうはいっても、世界がどこまで到達しているのかについては、できるだけ正確な認識をもちたいものだと考える。

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