自衛と侵略・上

2013年5月30日

 「戦争は自衛の名の下に始まった。自衛と侵略を区別することなどできない。だから、自衛権は当然という考え方は誤りだ」という見方がある。平和運動の側にたつ方からよく出される。

 これは、物事の一側面をあらわす考え方ではある。日本の侵略も「自存自衛」で始まったのは事実だ。最近、集団的自衛権を論じたところで書いたが、戦後、集団的「自衛権」が行使された実例は、ほとんどが無法な侵略の代名詞であった。個別的「自衛権」の発動にも、同様の問題があった例は少なくない。

 しかし、まず挑発的なものの言い方で申し訳ないが、これって、最近の安倍さんの侵略発言と通じる要素がある。何が侵略かは学問的にいろいろな考え方があって、同じ戦争を論じても国によって見方が異なるという、あの発言である。

 そう、侵略と自衛に区別がつきにくいというのは、侵略の責任をあいまいにする側の人からもちだされている考え方なのだ。その考えに乗っかってしまうと、日本の侵略を侵略ということもできなくなる。果たしてそれでいいのか。

 あるいはベトナム戦争。アメリカはトンキン湾で米艦船が攻撃されたとして「自衛権」を発動した。それ以外の局面では、南ベトナムが侵略されたので集団的「自衛権」を行使して南ベトナムを助けると説明していた。だから、たしかにベトナム戦争も国によって見方が異なるとはいえるのだが、果たして平和運動をすすめる側の人が、ベトナム戦争を論じる際に、自衛も侵略も区別はできないんですよね、という文脈で語っていいのか。

 そうじゃないだろう。実際には、日本の侵略戦争は問題だった、アメリカのベトナム侵略は許されない戦争だった。平和運動に参加している方々は、そういう文脈で語るのである。

 いや、そうではないかもしれない。最近では、ベトナム反戦運動に加わった人びとのなかで、日本において九条が焦点になっているからでもあるが、アメリカに武力で対抗したベトナムを支援したのは、九条をもつ日本国民としては誤りだったという考え方も生まれている。

 ただこれは、侵略と自衛が区別がつかないというものとは、少し異なる。区別がつくかつかないかは別にして、たとえ自衛のためであれ、武力は絶対に使ってはならないという考え方である。

 あの湾岸戦争でも、イラクは侵略者で、クウェートが自衛権を発動する立場にあり、最後は国連決議による武力行使になったが、日本の平和運動は二分された。開始されたからにはイラクを追いだした時点で早期に終了すべきだという立場と、侵略者を追いだすためであっても戦争はダメだという立場とにである。

 これらの問題をどう考えるべきだろうか。(続)

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