『集団的自衛権の深層』・3

2013年8月14日

 本日の京都新聞は、一面トップで、集団的自衛権を取り上げている。「集団的自衛権 米以外も」というタイトルで、秋に発表される安保法制懇の報告が、アメリカだけでなくオーストラリアやフィリピン、インドなども集団的自衛権の対象に含むことになりそうだという記事であった。日本の安全保障にとって大事な国なら、まもる範囲を拡大するという趣旨である。

 みなさん、そういう記事をみて、どう思うのだろうか。アメリカをまもるというだけでも問題なのに、それ以外の国をまもるなんて問題外、という感じなのだろうか。

 私はまったく別の感想をもつ。なぜ、まもる国をそんなに限定しなければならないのだろうか、と感じるのである。

 だって、この問題の出発点は、どこかの国が侵略されたとして、その事態に対して日本はそう対処するかにある。国連憲章第51条は、「国連加盟国に対して武力攻撃が発生した」ときに、集団的自衛権を行使できると書かれている。侵略があるなら、同盟国かどうかは別にして、みんなで助けようというのが、この51条の建前である。

 私は、この規定は、きわめて常識的だと考える。だって、どこかの国が侵略されたとしたら、その国が同盟国かどうかにかかわらず、助けたいと思うのが、自然な感情なのではないのだろうか。憲法があるので助けられないというのでは、あまりにも恥ずかしいのではないのだろうか。もちろん、助ける行為の形態が、武力の行使かどうかは別なのだけれども。

 ところが日本政府は、集団的自衛権というのは、同盟国だけを助けるものだという立場をとってきた。だからこれまで、憲法9条によって集団的自衛権を行使できないことになっているという制約を打ち破り、なんとかアメリカだけは助けられるようにしようともがいてきたわけである。

 私は、こんどの本で、こういう日本政府の思考方法を、「二国平和主義」と位置づけた。自民党は、現在の憲法9条の立場を「一国平和主義」として批判してきたが、自分たちだって、まもるのは日本とアメリカだけという、「二国平和主義」なのである。

 いま求められるのは、もっとグローバルな平和主義である。安保法制懇が主張するように、安全保障環境は大きく変化しているが、その変化は、政治的な立場をこえて、平和を脅かされた国は助けようというものである。ところが自民党が考えているのは、世界を敵と味方にわけて、味方だけは助けようという、きわめて古い思考なのである。

 じゃあ、中国がどこからか侵略されたとして、自民党政府は知らん顔をするのか。そんなことをすれば、中国の日本に対する恨みはもっと深まるのではないのか。侵略された中国を助けておけば、いざというときに日本にとっていい結果をもたらすのではないのか。

 いまの安倍内閣は、そんな程度のことも考えられないのだろう。困ったことである。(続)

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