2016年5月20日

 本日、シンポジウム(「北朝鮮は脅威なのか どう対応すべきか」)を開催します。午後5時より、参議院議員会館です。事前予約が必要ですので、いまからでもホームページから申し込んでください。

 その後の予定についてお知らせします。変動する可能性はありますが。

 選挙もあり、「会」内部の事情もあり、大がかりな取り組みは年末になります。12月24日(土)に、「自衛隊は尖閣を守れるか」をテーマにして、朝から晩までシンポジウムをやる予定です。陸海空自衛官総出演ということで。日比谷図書文化館大ホールです。お楽しみに。

 「会」では昨年、ご承知のように「提言」を出しました。「変貌する安全保障環境における「専守防衛」と自衛隊の役割」ですね。

 これは、タイトルにもあるように、「専守防衛」が大きなテーマになっています。日本防衛を考える上で不可欠な日米安保についても触れてはいますが、少しだけです。ここを徹底的に深めることが必要だと考えており、アメリカの大統領選挙の結果が出る11月末に、その場を設けます。ただし、これは非公開でして、何らかの形で文書にして、来年春頃には問題提起できるようにしたいと思います。これができれば、沖縄問題など具体的な問題でも突っ込んだ提起ができるようになるでしょう。

 4月のシンポジウムのテーマだった「戦場における自衛官の法的地位」の問題。これは軍法会議なしでやっているドイツの事情が詳しく分かれば、4月に議論した日本の問題点をあわせて、何らかの形で秋に公開できるようにしたいと考えています。

 この間、「新安保法制の予想される発動事例の検証」をやってきました。南シナ海(中国)、南スーダン、そして本日の北朝鮮です。これらの結果は、南スーダンでの駆けつけ警護が予想される11月を前に、弊社で本として出版することになると思います。

 以上、年末まで一般の方が参加する取り組みがない可能性がありますが、サボっているわけではなく、一生懸命やっているからだということをご理解ください。年末の時は、ちゃんと忘年会もやるつもりです。

 ご意見、ご希望がありましたら、「会」のホームページからでも、あるいは私宛でも、お寄せいただけると幸いです。では、今後ともよろしくお願いします。

2016年5月19日

 6月8日、上のタイトルで議論の場が設けられることは紹介した。伊勢﨑賢治さん、井上達夫さん、長谷川三千子さん、そして私の4人の議論だ。

 この企画の狙いについては、主催者が書いている。「憲法9条の「議論」を阻むものは何か 〜「6・8公開熟議」を企画したわけ〜」

 また、資金力のない主催者なので、ここで支援を呼びかけている。19日お昼現在、目標の34%程度だって。私からもご協力をお願いしたい。

 そこを見ていただければ出てくるのだが、この熟議に向けて、4人がメッセージを出した。私の分は、ここでも掲載しておくので、どちらかでご覧くださるとうれしい。

(以下、メッセージ)
 私が生きてきた狭い世界の話だし、もう賞味期限切れの昔の話でもある。だが、私のスタンスを理解していただくため、あえて書いておく。

 大学を卒業し(学生運動を続けるという目的だけのため社会学部を卒業したあと経済学部に学士入学までした)、1980年代、いわゆる共産党の青年組織である民青同盟の国際部長として活動していた頃のことだ。当時、すでに社会党と共産党の関係は壊れていて、共闘など問題外のことだった。しかし、青年運動の分野だけは、それ以前の遺産があって、国際関係の一部で共闘が存在していたのである。総評青年部とか社会主義青年同盟(向坂派)の代表と、時として会議をもって議論することがあった。

 とはいっても、親にあたる政党がケンカをしているわけだから、子どもが無事にいるのは簡単ではない。その親からは、「オマエが議論している相手は分裂を企んでいるのだから油断するな」という「指導」があったりもする。顔をつきあわせても、前提に不信感があるものだから、声を張り上げて批判をしあう場面が少なくなかった。

 ある時のことだ。不信感を前提にするのではなく、一度、相手も一緒にやることを望んでいるという見地で議論してみようと思う場面があった。具体的なことは忘れたけれど、相手の誠実さを感じたできごとがあったのだと思う。

 そうしたら、話が通じはじめた。それまで何か月かけても合意できなかった文書に、わずか数日で合意できたのだ。それ以来、少なくとも議論に応じている相手に対して、最初から不信感で接することはやめようと思った。

 今回のシンポジウムで議論する4人は、憲法観が大きく異なっている。同じだったら、わざわざ集まって3時間も議論する必要がない。異なっているからこそ議論が求められるわけである。

 けれども、憲法観は異なっていても、安全保障のことを真剣に考えるという点では、おそらく共通するものがあるのではないだろうか。その真剣さが憲法観への違いを生み出しているのだと感じる。そういう真剣さに共感できる方の発言というのは、学ぶところもあるし、真剣に聞きたいと思うし、敬意をもって議論できると考える。当日が楽しみである。(メッセージ終わり)

2016年5月18日

 本日、某経済官庁の生え抜きで、最後には事務次官まで経験した方とお会いしていた。もちろん、本を書いてもらうのである。

 まだ片鱗も明らかにできないけれど、新自由主義が幅を利かせる現在の日本政府の経済政策に対して、オルタナティブを提起するものになる。1年後かな。

 安全保障の分野では、安倍政権が進む方向に対して、対案が信頼性をもったものになっているという実感がある。だって、何と言っても「自衛隊を活かす会」は、防衛政策を立案する側にいた柳澤さんが中心になり、日本人で戦争現場を一番経験している伊勢崎さん、現代世界の焦点であるテロ問題での権威である加藤朗さんが参加している。北海道5区補選で自衛隊員の多い千歳、恵庭で優勢になるほどには到達しなかったけれど、この方向を進めていけば、なんとかなると展望できる。

 すっと悩んできたのが経済政策である。安倍政権が進む方向に対して、いろいろ対案は出されている。面白そうだなというものもある。だけど、国民がそれを選ぶのは、そう簡単ではないと感じる。だって、その対案を出している人は、これまで日本経済を運営した経験がないのである。実績がないのである。本当に任せて大丈夫なのかという不安を国民は持つのではないか。

 そりゃあ、社会保障と暮らしに関わる国家予算をどんどん増やすという政策は、誰だって「できればいいね」と思うだろう。しかし、その予算をどこから出すのか。

 民主党政権で埋蔵金があるんだと言われたけど、結局、政策に見合う分は出てこなかった。防衛費を半減すればいいのだと言う人もいるけれど、そのためには自衛官を半分にすることが必要で、十数万人の雇用を確保するなんて、公務員に転出させるなら必要な国家予算は変わらないし、民間に十数万人を雇わせるのは絵空事である。

 大金持ちやぼろもうけしている企業の負担を増やすのは、一つの道筋だ。しかし、左翼がそれをやるときは、ガチンコ対決になる時だ。大企業は、日本経済を混乱させることによって、政権の崩壊を狙ってくるだろう。それが見えているから、なかなか野党に政権を任せるという選択肢が、現実のものとなってこない。

 日本の過去の経済運営のなかでは、実際には大企業とも話し合いながら、その姿勢を変えてきた事例がある。公害対策は経済との調和が必要だとされていた法律を改正した時もそうだし、製造物責任法もそうだ。

 そういうことを実際に担ってきた人に、いまの政権の経済政策と異なる選択肢を提示してもらえれば、わりと安心してついて行けるのではないか。そういう人をずっと探していたのだけれど、ようやく巡り会えて、本を書いていただけることになった。

 さて、どうなることか。お楽しみに。

2016年5月17日

 昨日は午後1時過ぎに東京着。まずは工藤晃さんの本を出すための作業の相談である。

 本の母体となるのは、先月の東京学習会議主催の講演。まだタイトルは付けていないが、私としては『マルクスならいまの世界経済危機をどう論じるか』がお勧め。今年1月に出した聽濤弘さんの『マルクスならいまの世界をどう論じるか』のシリーズのようなものだから。これに続いて、同じく共産党の役員だった方の『マルクスなら人口問題をどう論じるか』も出す予定がある。

 工藤さんの本はその講演だけではない。3分の2は工藤さんが書きためた「研究ノート」になる予定だ。『資本論』それ自体とか、方法論とか、イスラムや中東問題とか、この間に書き留めたメモが合計で20万字分ほどあって、工藤さんの問題意識とか発想の方法とかが分かって、たいへん興味深い。先月の講演の際、本にするには講演にプラスして何かがあればうれしいと希望したところ、お家に呼ばれてこのノートを渡されたのである。これはどうしても遺しておかねばならない。

 ただ、20万字もの、それも手書きのメモだから、活字にするのが簡単ではない。それでも、さすが工藤さんであって、工藤さんのメモを見てちゃんとどういう字か分かる能力のある人が何人かいるんだね。工藤さんから学ぼうという姿勢の人で、そういう仕事を率先して引き受けて来た人たちだ。そういう人たちに集まってもらい、やり方とかスケジュールとかを相談したのが昨日だった。

 10年ほど前だろうか、共産党のある雑誌の編集者が言っていた。校了直前に原稿に穴があくことがよくあり、その場合、共産党の幹部が仕事している部屋のあるエリアを回ると、一晩で2万字程度の論文を書く人が何人もいたそうだ。私も、共産党で仕事をしていた頃、幹部でも役員でもなかったが、ある雑誌の巻頭論文を常任幹部会委員の役にある方が書かないという事態が起こって、代わりに一晩で書き上げたことがある。まあ、それがある地区委員会では全赤旗日曜版読者分を増刷して配布されるなど共感を呼んだが、幹部のなかでは大問題になって私の退職につながったんだけどね。

 いまそういうものを書ける人が何人もいるのかは知らないけれど、そういう人のうちのかなりは退職し、理論的なものを書こうとすると、出版社が見つからないというのが現状である。そこでどういういわけか、共産党と組織的な関係があるわけでもない弊社の出番になってくる。

 理論活動なのだから、特定の「正しい」理論だけが出ていくというのはあってはならないことだ。そうではなく、様々な理論が、対等平等の立場で闘わされるというのが望ましい。

 判定をつけるのは理論の中身への共感であるべきで、メディアに理論を出せる権限があるかないかで日の目を見たり見なかったりすることのないようにならないと、本当の理論活動の活性化はないだろうと思う。そういう意味でも弊社の役割を自覚して、節度をもってがんばりたい。いまから福島。

2016年5月16日

 こういうタイトルの本を知り合いの編集者に「読め!」といわれ、贈呈までしてもらったので読んだ。著者は松本創さんといって、神戸新聞記者を経て、現在はフリーライターである。

 なぜ「読め!」といわれたのか、その理由は、本日からの東京出張で聞くことになるのかもしれない。サブタイトルに「大阪都構想とメディアの迷走」とある。それに示されるように、橋下徹をつくったメディアの責任をとことん追及したのが、本書の真骨頂といえよう。

 その全体をまとめるようなことはしないが、私にとって印象的だったのは、この本に出てくる朝日論説委員の稲垣えみ子さん(当時)の言葉だ。2013年5月3日、神戸で朝日新聞労組がこの問題を主題にしてシンポジウムを開いたそうだが、そこで稲垣さんが語っている内容。別の雑誌にも同じ内容の論考を寄せているそうで、著者の松本さんがそれを整理した文章があるので、それを引用する。タイトルは、「『世の中が見えていたのは橋下氏』朝日新聞大阪社会部デスクの嘆き」。

 「橋下のことを紙面で取り上げると、「朝日は橋下の宣伝機関か」という声と「なぜ橋下さんの足を引っ張るのか」という声、両極端な苦情が読者から多数届く。従来の「お上」対「庶民」の図式に当てはまらない橋下の報道に苦慮していたある日、府立高校の国歌斉唱条例でアンケートを取った。予想に反して賛成が圧倒的多数だった。リベラル・護憲を看板に良心的な世論をリードしてきたつもりが、振り返れば誰もいなかった。朝日的リベラルを世の9割がウソっぽいと感じている。世の中が見えていたのは橋下の方だった。従来のリベラル層をも既得権益と見なして攻撃してくる橋下に負けないよう、新聞の発想も「グレート・リセット」が必要ではないか──」

 そうだと思うんです。リベラルって、世の中が見えていないところがある。国歌の斉唱を命じる条例だって、賛成が多数になるのは当たり前である。戦後すぐなら、こだわりをもった人がそれなりにいたのは事実だろう。しかし、そういう層はほとんど亡くなっていているし、サッカーとかで国歌を歌うのはあまりにも当然のことになっている。国旗・国歌法が圧倒的多数の賛成で成立してから、ずいぶん時間も立っている。そもそも当事者である教職員の労働組合だって、組合員に対して「国歌を斉唱するな」なんて方針を提起していないだろう(どうなんですか?)。

 それでも強制に反対することはあっていい。だけど、その場合はあくまで、ごく少数の権利を擁護していて、世論のなかでは孤立するという自覚が必要なんだと思う。しかもその場合も、国歌を斉唱すべきだという立場への敬意というか尊重というか、それがにじみ出なければならないと感じる。国歌斉唱は悪で斉唱しない人が善という立場で接近すると、国民多数を敵にまわすのである。

 護憲改憲問題もそうだ。改憲は悪で、改憲を願う人は戦争をしたい人なんて考えていると、多くの人を敵にまわすことになる。いませっかく、安倍さんが何をするか分からない不安があって、改憲派の人が安倍政権のもとでの改憲にちゅうちょしはじめているのに、改憲派をばっさりと切り捨てるやり方は、味方になる人を失うことになる。

 ただし、稲垣さんが提唱するように、新聞が「グレート・リセット」できるかというと、ちょっと懐疑的。最近の某新聞を見ると、一層そう感じる。メディアが情けないから世論がダメというのでは、いつまで経っても変わらない。メディアが情けなくても前進するにはどうするかという問題意識を持ちつづけたい。