2013年10月25日

 本日、仕事で使っていたインデザイン(本をつくるためのソフトです)が反乱を起こし、パニック状態に。ようやく回復したんですが、ブログを書くのを忘れてました。ということで、安直に、私の本の書評を紹介します。

 一つは「ふぇみん」に載ったもの。『憲法九条の軍事戦略』が対象です。「ふぇみん」って、いろいろ複雑な歴史的経過があるんですが、伝統ある婦人団体の機関紙です。書評の内容は以下の通りですが、私の言いたいことを正確に分かってくれています。

 九条と軍事力は矛盾すると言われるが、「九条も防衛も」というのが世論調査からみた国民多数の選択だ。「制約なき軍事への恐れ」と「完全な非武装への不安」という、ごく「常識的な」思い。
 いわゆる護憲派が軍事力を全否定するならば、「軍事による安心」を求める人々にとっての選択肢は、改憲派の日米安保強化路線しかなくなると著者は言う。純粋な護憲が、かえって改憲や安保強化を招くという力学だ。
 ひとまず矛盾を肯定し、九条の「制約」を生かした軍事戦略を打ち立てられれば、国民多数の思いを満たしつつ、日米安保に引きずられない、日本独自の立ち位置が可能になるというのが著者の狙いだ。逆にそうした段階を経ずして、対米自立も、非武装実現への道も難しいのではないか?
 日本の「専守防衛」には、「装備の最小化」と「集団的自衛権の放棄」という九条が導く特異性があるという。それらを生かした軍事戦略とは? 護憲派必読の書。(道)

 もう一つは、「通販生活」です。秋冬号に、『集団的自衛権の深層』の書評が載っています。以下の通りです。

 安倍政権が集団的自衛権の行使容認に前のめりだ。内閣官房参与の谷内正太郎氏は講演会で「国家の品格の問題だ。友人に助けられても自分は助けないというのは、国家として恥ずかしいことだ」と述べている。だが、戦後史を振り返れば、集団的自衛権は「国家の品格」に疑問を投げかけるかたちで行使されてきた。そのことを本書は教えてくれる。 
 冷戦時代のソ連によるハンガリーやチェコスロバキア、アフガニスタンへの軍事侵攻は、ソ連が各国政府から要請を受けての決定として正当化された。こうした論理は1970年代の米国のベトナム戦争でも使われた。2000年のイラク戦争もしかり。
 米ソ対立時の日本では集団的自衛権の行使に関する議論が起こらなかった。現在、それを容認するよう憲法上の解釈を変えよとの声が政府内で強まっているのは、自衛隊が集団的自衛権を行使する、すなわち海を越えて相手国に侵攻できるだけの軍事力をつけたからだと著者は指摘する。米国が攻撃されたら、共同で迎撃するという想定ではない。自分たちに敵対する国を潰すための口実として使われるというのである。モラルなき何でもありの状態。集団的自衛権の議論を対米関係に限定されたものから、グローバル平和主義へと転換せよという提言、日本の課題として重く受け止めたい。(評者/助田好人)

2013年10月24日

 本日は一日中、『加藤周一最終講義』の編集作業。来週、加藤さんの著作権継承者にお会いするため東京に行くので、それまでにゲラや表紙の案を完成させておかねばならないので。

 その作業の必要があって、2007年1月に発行された「京都・宗教論叢」の創刊号に目を通した。2006年に設立された「京都・宗教系大学院連合」による発行だ。

 この連合って、その名前の通り、同志社などのキリスト教系の大学、龍谷など仏教系大学の連合体である。その設立シンポジウムがあって、加藤さんが「異なる宗教間の対話」と題して講演され、それが掲載されているというわけである。

 加藤さんによると、日本の仏教界では、宗派が異なると対話しないのが通例になってきたそうだ。挨拶もしないそうだが、本当かな。

 そういう中で、宗教系の大学が連合体をつくるというのだから、加藤さんも注目したのだろう。そして、このテーマで講演された。

 その講演は、宗教間のことが取り上げられているが、平和運動をはじめとした社会における運動と対話にも通用するものだと感じた。加藤さん、ずっとそういう問題意識を持っておられただろうし。

 加藤さんは、このような対話が成立するには、二つの解決方法があるという。

 一つは、「いろんな点で違っても、聖なる世界の中心部分では一致する」という考え方。「宗教的に高い水準で『小異を捨てて大同につく」とも言われている。日本でもかつて神仏習合というのがあったわけで、その伝統をふまえれば、現在でも通用するのではないかということだ。

 もう一つは、「『聖』と『俗』の切断」だと言われている。宗教って、世界観を生みだすわけだが、同時に世俗的な文化も生みだす。その「俗」の世界で共闘するのだと割り切れば、対話には大きな障害はないのではないかというのが、加藤さんの提起である。そっちの方が「もっと早く有効に作用するかもしれません」ともされている。

 そうだねえ、いろいろと考えさせる問題提起である。たとえば九条護憲の運動という角度で見ると、どういうことが言えるのだろうか。

 この問題って、「俗」の世界のことである。しかし同時に、「聖」とまでは言わないが、九条を「世界観」「価値観」で捉えている人も多い。だから、共通する要素があるようにも思える。

 多くの宗教は「絶対平和」の価値観を持っているが、しかしすべてがそうなわけではない。絶対平和」という異なる部分を脇に置いて「大同につく」という場合、どんな価値観を一致すべきものとして提示することになるのだろうか。「海外派兵は許さない」という価値観ということになるのだろうか。

 一方、価値観で一致することはやめて、「俗」の部分で共闘しようというのは、護憲運動ではどういうことになるのだろうか。戦争が生み出す被害とか、それがもたらす人権侵害を重視するのかなあ。もっと別のものだろうか。

 いろいろなことを考えさせられた1日だった。というか、まだ続いていますけどね。

2013年10月23日

 「赤旗」の10月6日付を見て、とってもびっくりしたんだけど、ずっと忙しかったので、本日ようやく論評。すごい変化なんです。

 その前日、志位さんがBS朝日「激論!クロスファイア」に出演し、田原総一朗氏などの質問に答えています。テーマの一つは集団的自衛権。安倍首相は、日本近海でアメリカの艦船が攻撃されたとき、近くに自衛隊の艦船がいても助けられない、だから集団的自衛権を行使して助けられるようにしようという議論をもちだしていますが、それをめぐってやりとりがありました。

 最初、志位さんは、安倍さんは日本近海だと言うけど、実際に求められてきたのはペルシャ湾のことだとのべます。それに対して、田原さんが「近海ならいい?」と突っ込んできて、志位さんがこう答えるのです。

 「近海でもしそういう問題になったら、集団的自衛権でなく個別的自衛権の問題になります」

 これって、私がこのブログでときどき紹介する柳澤協二さん(元内閣官房副長官補)などが言っているのと同じことですよね。そしてだから集団的自衛権は必要ないのだという主張になるわけです。私自身も、その結論には賛成です。

 だけど、志位さんがこう言うのは、初めてのことです。アメリカの艦船が攻撃されているのだけれど、それは個別的自衛権の問題だということは、日本が攻撃されているのと同じだと言っているわけで、誰がみても新しい見解でしょう。

 本当は田原さん、質問を続けるべきだったと思います。「個別的自衛権の問題だということは、自衛隊が反撃する問題だというわけですね?」と。

 その突っ込みが不足しているために、少し消化不良に終わっているわけですが、個別的自衛権の問題なら、自衛権の発動は当然だということになるのが当然でしょう。そして、自衛権の発動とは、まさに自衛隊の出動だということでもあります。

 これまで志位さんは、共産党が自衛隊の活用があり得るとしているのは、民主連合政府が樹立され、安保条約を廃棄した後のことだと主張してきました。今回のインタビューで問題になっているのは、しかしまさに安保条約があって、日米が共同で軍事演習をしたりしている局面での話ですから、とっても新しい見解なのです。

 まあ、もしかしたら、個別的自衛権の問題だけど、自衛権は発動しないのだとか、自衛権は発動するけれど、自衛隊の出動は認めないとか、そういうことかもしれません。その可能性の方が高いかな。

 田原さんの追及次第では、もっと明らかになっていたのにね。そうだったら、日本にとって大事な問題が、もっと深く議論されることになったでしょう。今後に期待しましょう。

2013年10月22日

 全国商工新聞から依頼され、集団的自衛権について以下の論考を寄稿しました。近く「視点」欄に載るそうです。以下の内容です。

 つい数年前まではほとんど目にすることのなかった集団的自衛権という言葉が、いまや政治の一大焦点となっています。いうまでもなく、安倍首相が、憲法解釈を変えることにより、これまで違憲だった集団的自衛権を合憲にしようとしているからです。

 安倍首相は、世界中の国が集団的自衛権を行使する権利を持っているのに、日本だけが九条の制約があって行使できないのはおかしいと言います。しかし、冷戦期、集団的自衛権を行使すると宣言し、戦争したことがあるのは、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの四カ国だけです。冷戦後もそれに加わったのはNATO諸国のみです。世界の軍事大国が行使してきたのが、集団的自衛権なのです。それは当然でしょう。海外に軍隊を派遣して戦争するには、強大な軍事能力が必要であり、普通の国にできるようなものではないのですから。

 なぜ日本もそういう道を進むのか。二つの理由があります。

 一つはアメリカの要請です。アメリカがアジアで戦争をする際、日本が後方支援する態勢はできあがっていますが(周辺事態法)、自衛隊が最前線で戦闘行動に加われないという制約が、軍事的に見て合理的でないと考えるアメリカの関係者が存在するのです。

 他方、そのアメリカの中にも、中国を挑発するような戦略は自制すべきだという考え方が生まれています。最近、アメリカの艦船に中国の軍用機が着艦する訓練が実施されましたが、それもこうした考えの表れです。かつてのソ連は、アメリカにとって軍事的にも、経済的にも打倒すべき相手だったのですが、現在の中国はアメリカの繁栄にとって欠かせない相手であり、その現実にふさわしい戦略をとるべきだという模索があります。そういう時に、かつてアジアを侵略した日本が自衛隊を最前線に送ってしまっては、かえって混乱を招くという懸念が存在します。

 にもかかわらず、なぜ安倍政権は、集団的自衛権の行使に踏み切るのか。安倍首相は、三月一五日に開かれた自民党の会合で、自衛隊の名称を国防軍に変える理由について、「誇りを守るためだ。日本だけを守る軍隊だと言われたくない」と説明しました。明文改憲で国防軍を設置するのも、アメリカを守るため、すなわち集団的自衛権を行使するためだというのです。そして、そうしないと「誇り」を感じられないというのですから、対米従属下のナショナリズムとしか言いようがありません。安倍首相を集団自衛権へ、国防軍へと駆り立てるもう一つの理由は、ゆがんだナショナリズムなのです。

 そういう種類のものが、国民多数の支持を得られることはありません。どんな世論調査を見ても、集団的自衛権に反対する声が過半数を占めています。世論を反映して、年内に解釈改憲の閣議決定を行い、来年冒頭にそれを担保する法案を国会に提出するという当初のスケジュールは、すでに崩れています。

 しかも、政府解釈を変更するために更迭された内閣法制局長官が、追いやられた先の最高裁判事として、集団的自衛権は違憲だと明言しました。裁判官も人の子であって、圧倒的な世論の前では、その世論を無視することはできません。

 そして、だからこそ一方で、安倍首相は、最高裁が違憲の判断をした場合に備え、解釈改憲の後には明文改憲を行い、集団的自衛権を行使する国づくりを完璧なものとしようとしているのです。まさに正念場。カギを握るのは世論の多数派形成に他なりません。
 

2013年10月21日

 週末は山口県周南市に行ってきました。ここの九条の会が、「憲法九条の軍事戦略」について語ってくれということだったので。

 土曜日中に戻ってこなければならなかっったので、少し異例ですが、懇親会を前日に開いていただきました。いやあ、すごかった。

 それほど人数が多いわけではありませんでしたが、議員(県会、市会も含め)さんでいいうと、無党派から民主党、共産党までいるんですね。それだけなら他にも探せばあるかもしれませんが、それら議員の方々がみんな仲がいい。

 それに、共産党という角度からみても、党員の方もいれば、数年前に離党したという方もいれば、ずっと共産党は嫌いだという方もいました。そういう方々が、お酒が入っていることもあるでしょうが、熱心に向き合い、肩を組んで語り合い、最後はカラオケへ(このカラオケもマスターがギター一本で伴奏するという、とっても魅力的なものでした)。

 こんな九条の会があるんですね。いや、本当は、それが当然なのかもしれません。だって、目的は九条を守るということだけですから、党派は関係ないし、大事な目的のためなのだから、他にどんな見解の違いがあっても、ここの場で集う時だけは心を許しあう関係でないとダメだと思いますし。こういう会が全国に広がれば怖いものなしだよなと感じました。

 翌日の講演の方は、いつも書いていることとそう変わりませんが、そんなメンバーを意識しました。いろいろな政党に対して、九条の軍事戦略がめざす方向をどのように働きかけているか、それがどのように受け止められようとしているか、という辺りです。これは、時期が来たら活字にすることもあろうかと思います。