2018年4月3日

 この論評には当たっているところと外れているところと、両方がある。まず当たっているところから。

 私の『改憲的護憲論』がねらっている層については、まさに正解である。というか、日本会議も同じことを考えているのだろう。この論評の冒頭部分はそれをあらわしている。

 「自民党は現在、憲法九条一,二項を変えない加憲による自衛隊明記案での意見集約を進めているが、現時点では同案に賛否を決めかねている「中間派」の国民も少なくない。
 各種の世論調査を見ると、仮に加憲案が国会で発議された場合、この中間派の動向が、憲法改正の成否を左右することが予測される。それ故、われわれ改憲派は、中間派国民の説得に全力を尽くす必要があるわけだが、同じことは護憲派も考えていることはいうまでもない」

 そう。日本会議も中間派をねらっていて、私も同じなのである。

 私の立場からすると、確固とした護憲派に対して護憲の論理を提示するのは、ただの時間の無駄である。護憲への確信をさらに深めることはないよりあった方がいいけれども、確固とした護憲派は、どんな天変地異があろうとも、その信念を変えることはないのだから、仲間内を固める論理のために時間を使う必要はないのだ。焦点は中間派以外に存在しない。

 では、その中間派とはどういう人たちか。日本会議は私の本のなかから、以下のように引用しているが、これは正解である。

 「圧倒的多数の専守防衛派が改憲に向かうか、それとも護憲を選ぶかで、憲法改正をめぐる闘いの決着がつくということです。専守防衛派の心をつかめるかどうかで、この闘いの帰趨は決まるということです」

 この論評は、そのために私が提示した論理を批判するのだが、同時に、評価もしてくれている。例えば以下のような記述もある。

 「まず、松竹氏の真意はどうあれ、憲法への自衛隊明記の意義を認め、護憲派に向けて安全保障を正面から論じ、自衛隊に敬意をもつべきだと説いている点は率直に評価したい」

 ありがとうございます。最大限の褒め言葉ですね。

 これ以外は私への批判なんです。でも、ここまで褒めてくれるなら、「騙されるな」とか言わないで、もっとどこまで一致できるのか、どこが根本的に異なるのか、深く掘り下げてほしかったと思います。討論会なんかがあるのなら、私を呼んでほしいんですけれど、そのためにももっと詰めた論議を交わしておく必要があると思うんですけどね。明日以降はその問題です。(続)

IMG_0546

2018年4月2日

 日本政策研究センターをご存じだろうか。代表は伊藤哲夫さんといって、日本会議の常任理事(政策委員)を務めている。生長の家が右派的な政治活動を熱心にしていた頃からの活動家で、生長の家が政治活動を停止してからも、日本会議のなかで大事な役割を果たし続けているそうだ。

 私が伊藤さんのお名前を知ったのは、昨年5月1日に発行された同センターのブックレットを読んだ時である。『これがわれらの憲法改正提案だ──護憲派よ、それでも憲法改正に反対か?』というタイトルの本。

 その本のタイトルを見て、「ああ、あれか」と分かるこだわり派は、読者のなかにどれだけいるだろうか。護憲派の一部では、安倍さんの加憲案は日本会議が主導しているという説がまことしやかに流布しているが、その根拠になっているのは、5月1日に出版されたこの本で9条1項2項を維持したまま加憲する案が提示されていて、その翌々日に公表された安倍さんの加憲案と同じものだったことにある。日本政策研究センターが日本会議のシンクタンクと言われるゆえんでもある。

 さて、その日本政策研究センターが出している月刊誌がある。「明日への選択」(600円)という。その最新号(3月号)に、なんと私の『改憲的護憲論』に対する批判論評が掲載されている。なんと5ページも。

IMG_0546

 一般書店では売っておらず、仕方なく(といっても弊社の東京事務所の近くなので時間がかかったわけではない)同センターまで出向いて購入した。買ってからエレベーターに乗るまで、職員の方が礼をしながら見送ってくださって、恐縮である。

 さて、その中身だ。なぜ5ページもの批判をしたのかという問題意識が、その冒頭近くにある。引用してみよう。

 「後ほど明らかにするように、「改憲的護憲論」の正体は、自衛隊を圧倒的に支持する国民世論を踏まえた新種の護憲論であり、そこには国の安全を危うくする毒も含まれている。この新たな護憲論が、旧来の護憲派は中間派国民にどう受け止められ、世論にどんな影響を与えるかは現段階では分からないが、空想的平和主義に安住する旧来の護憲派よりもいささな厄介な相手にも見える』 

 ありがたい評価である。そこで、この論評の中身を、感謝を込めて論じてみたい。(続)

2018年3月30日

 さて、この火曜日、水曜日に開かれた内田樹さんと石川康宏さんの対談。ご存じのように、本来ならアメリカに行って対談する予定だったけど、壮大な破産を遂げたので、京都の禅宗のお寺である妙心寺大心院でやることになった。

 これもツアーとして実施したのだが、二日間とも何の楽しみもなく、ただただ対談を聞いて議論するというものだったのに、30人近くが参加。みなさんうたた寝をすることもなく熱心に聞き入った。

 1日目は内田さんの報告で石川さんのコメント。テーマは「アメリカとマルクス、マルクス主義」。石川さんがコメントの冒頭で言っていたけれど、「アメリカの共産主義の歴史についてこれだけまとまった話(90分)を聞いたのは初めて」という貴重品だった。

 2日目は石川さんの報告で内田さんのコメント。テーマは「マルクスとは何者だったのか」というもので、これはマルクス生誕(5月5日)200年にふさわしく、マルクスを歴史的、包括的に捉えようとするものだった。

 この二つの交錯が面白かったというのが最大の感想である。前者はアメリカの話で、後者はおもに日本の話だったのだけれど、マルクス主義というものがそれぞれの国で土着のもの自生するものになるうえで何が大事かという点で、共通の問題意識に貫かれていたからだ。

 昔のアメリカ共産党の文献には、アメリカの共産主義というのは、アメリカの歴史と伝統を受け継ぐものだという記述があるそうだ。その歴史と伝統のなかには、初代大統領ワシントンだけでなく、なんとマーク・トウェインまで含まれるという。いろんな民族で構成されるアメリカのなかで、共通してアメリカの象徴として認められるということなのだろう。

 日本の共産主義にはそれと同じようなものがあるのだろうかということであるが、それとの関連で議論になったのは、やはり「共産主義」という用語である。欧米の人びとにとっては、共産主義と言われても、それは身近に存在するコミューンのことなので、土着ものとして実感することができる。しかし、日本での「共産主義」というのは、コミューンという聞いたことのないものの訳語に過ぎない。

 昔、宮本顕治さんの「日本の風土にふさわしい社会主義への道」というインタビューが、「文化評論」という雑誌に掲載されたことがある。そこでは、そばの出前なども日本の社会主義には引き継がれるという記述があり、「へえー」と思ったものだ。

 でもそれが、「共産主義」という外来用語で表現されている限り、日本の歴史と伝統から生まれたものではなく、「舶来品」という受け止めから逃れられないのかもしれない。それで、江戸時代の村落共同体ってどう呼ばれていたのだろうかと思って調べてみたのだが、統一したいい言葉はいまのところ見つかっていない。

 共産主義が日本で土着のもの、自生しているものと受けとめられるようになるため、いったい何が必要なのか。もちろん理論の内容が日本的ということが大事なのだが、それを表現する言葉も等しく大事なように思える。これって大事なテーマなので掘り下げていきたい。

2018年3月29日

 証人喚問が終わったあとの与党の会合で、公明党の議員が「真相が解明されないで残念だ」と発言したことが報じられていた。これは本音だろうね。このままでは政権が持たないことを肌感覚で理解したのだろう。

 安倍さん的には、あるいは自民党的には、「首相が関与していないことが証明された」ということで、なんとか終わりにしたいだろう。今後の財務省内の調査でも検察の捜査でも、そういうことになる可能性が高い。

 しかし、そうなればなるほど、国民のフラストレーションが高まっていく。そこを安倍さんが分かっていないことが、安倍さんの足元をひっくり返す最大の要因になるのではないかと思う。

 だって、安倍さんが関与していないとすれば、日本の行政というのは、首相の指示もないのに、首相のお友だちを優遇したり、歴史観をともにする学校に特別に便宜を払ったりしているということになるからだ。官僚というのは、そういうことのためには法律に違反しても文書を改ざんするし、それで自分が牢屋に入れられても構わないと思って行動しているということになるからだ。日本というのは、そういう人に行政をまかせている国だということになるからだ。

 安倍さんが関与していることになれば、そこはスッキリと説明がついて、フラストレーションはなくなる。だけど安倍さんは辞めざるを得ない。

 他方、やはり安倍さんは関与していないとなれば、フラストレーションは残って、行政への信頼がないまま安倍さんは行政を進めることを余儀なくされる。そんなことが長続きするわけはなく、安倍さんはいつか辞めざるを得ない。

 そこから第三の道を見つけだすのは容易ではないだろう。「詰み」という感じなんだけれど、どうだろうか。

 第三の道があるとすると、自分は辞めて、誰かに安倍さんの改憲の野望を託す道なんだよね。私はそれを望む。

 だって、安倍さんのもとでの改憲論議というのは、安倍さんに対する憎悪と愛情の対立構図が生み出しているようなところがあって、冷静な議論になっていかないからね。改憲と護憲の双方を冷静に議論するような環境が早く生まれてほしいなあ。

 第三の道でも安倍さんは辞任だというところに、安倍さんが追い詰められている現状があらわれていると思う。安倍さんが居残る第四の道はあるのだろうか。

2018年3月28日

 マルクスについて2日連続で学び続けるという、ちょっと現在世界ではあり得ない試みを終えた。それについてはあとで書くとして、そのおかげで佐川さんの証人喚問を見ずに済んだ。見ても新しいことは聞けないだろうと思っていて、結果はその通りだったわけだから、テレビでストレスをためるより、勉強のほうがずっと幸せだったよね。

 ところで、佐川さんが証言しないことの理由に挙げた「刑事訴追される恐れがあるから」という問題である。いろいろ聞いてそれを理由に証言拒否されるより、その理由そのもののおおもとに誰か切り込んだのだろうか。

 議院証言法によって、証人喚問では嘘をついてはならないとされていて、証言を拒める唯一の理由が「刑事訴追される恐れがあるから」ということになっているのだから、証言したくない場合、誰でもそれを理由にもってくる。当然のことである。

 でも、「刑事訴追される恐れがあるから」というのは、なぜ証言拒否の理由になるのだろうか。それを追求してほしかった。

 だって、もし検察の捜査に対して何かを答えていて、それと同じことを国会でも証言するなら、証言をもとに刑事訴追されることにならない。すでに検察に対して同じことを答えているのだから、刑事訴追されるのは、検察での証言が理由になるのである。

 ということは、「刑事訴追される恐れがあるから」国会で証言を拒否するというのは、国会でウソをつかないようにしようとすると、検察に対して話しているのとは別のことを証言することになるということだ。つまり、佐川さんは検察に対して、ウソの証言をしているということなのである。

 そこには理がある。だって、検察の捜査に対してウソをついたって、そのことで罪に問われることはない。容疑者がウソをついても、そのウソをいろいろな証拠で暴いていって、ウソだったと認めさせるのが検察の仕事の醍醐味だからだ。容疑者は罪の重さで裁かれるのであって、検察に対するウソの重大さや回数は罪の重さとは関係ないのである。

 だから、佐川さんが「刑事訴追される恐れがあるから」証言を拒否すると言ったら、「検察には今のところウソをついているんですね」、「正直にしゃべると刑事訴追される可能性があるんですね」と聞いてほしかったのである。残念。