2018年3月5日

 先月、3つも試写会で映画を観て、それぞれ映画評を書きました。その記事を配給会社の方に送ったら、「女は二度決断する」の関係者からすぐにメール。あるウェブメディアに詳しい映画評を書いてくれないかということでした。

 映画は好きだったんですよね。小学校の頃、学校で観に行った映画でタイトルを覚えているのは、「黒部の太陽」とかかな。タイトルを覚えていない映画のほうが自分に与えた影響は大きい。悲しさを強調する映画はしらけるけど、薄幸の人が幸せになる場合は涙が止まらず、「そうか、こんな性格だったか」と思ったりもした。

 高校に入ると、ちょっと政治的になって、ちょうど山本薩夫監督の「戦争と人間」三部作が公開され、真剣になって映画館に通った。大学は社会学部を選んだのも、この映画を観て、「天皇制の政治構造を極めたい」と感じたからだ。

 だけど、大学に入って極めたのは学生運動だけで、映画なんかからは縁遠くなる。そのままずっと現在に至るというところかな。

 貧しい人生におさらばしようと、いま我が家をシアターにしようと取り組んでいる。写真にあるように我が家の壁は80インチくらいのスクリーンになるから、プロジェクターも揃えたし、アップルテレビも買ったので、iTunesストアーで映画をレンタルで観られるようにした。

 最新の世代のアップルテレビの問題は、スピーカーに直接つなげないことなんだよね。だから音の迫力が欠ける。それを克服するために導入したのが畳の上に置いているブルトゥーススピーカー。

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 これ、Harman Kardonので、それなりにお高い。だけど、ただのスピーカーではなく、いま話題のスマートスピーカー。アマゾンのアレクサが動くんだよね。「アレクサ、ジャズをかけて」と言うと、本当にジャズが流れ出てくる。「ベートーベンがいいな」というと忠実に変更してくれる。

 ただ、さすがに「演歌を」と話しかけると混乱して何もできなくなる。そのあたりはこれから学習していくんだろうね。

 され、これで本格的に我が家は映画スタジオです。あとは映画を観る時間の確保だけれど、これが一番難しいかも。できるようになったら、映画評論家デビューかな。さてさて、あすわかの仕事のため、いまから大阪です。

2018年3月2日

 英語で言うと、Raqqa is Being Slaughtered Silently。渋谷のアップリンクで観たのだが、その紹介文はここにあるので、関心があったらどうぞ。

 ラッカというのは、言わずと知れたシリアの町である。2014年にISが進攻してきて支配者となり、町は恐怖に包まれた。公開処刑や虐殺が横行したのである。覚えている方も少なくないだろう。

 なぜ我々がその事実を当時から知っていたのか。報道されたからなのだが、別にマスコミがラッカに入って取材していたわけではない。この映画で初めて知ったのだが、ラッカの市民たちがみずから記者となり、ある人はラッカに残って取材し、ある人はトルコに出て中継局の役目を務め、ある人はドイツから世界に広げていたのである。

 その市民記者たちの組織名が、Raqqa is Being Slaughtered Silently。縮めるとRBSSということになる。RBSSは、映画の中でも紹介されるが、ラッカで起きたことを正確に伝えたことを評価され、2015年にアメリカの何かの賞を受けたりもしている。

 いや、そんな大事なこと、全然知らなかった。ISがやっていることが報道されるのは当然だと考え、誰がそれを伝えているかなんて、想像もしなかった。

 当然、命がけである。ISは事実を知られることをもっとも忌み嫌い、RBSSのメンバーを特定し、海外にいても殺しにやってくる。ラッカ市内ではなおのことだ。その使命感、あるいは恐怖、迷いなどがリアルに伝わってくる秀作だと言えるだろう。

 しかも驚くべきことに、この映画は、ISに関してRBSSが世界に広げた事実を伝えているだけではない。それを伝えるRBSSの活動そのものを伝えているのだ。つまり、RBSSは、ISに関する事実を映像に収めているだけではなく、それを収める自分たちを映像に残してきたというわけだ。

 いつの日か、自分たちのやっていることを、この映画のようにして知ってもらう時が来るという確信がないと、こんなことは出来ないだろうね。偉い。

 それにしても、映画を観て一番グサッときたのは、別のことである。こうやってラッカの市民がISのテロと戦っていたとき、自分は何をやっていたのだろうと考えさせてくれることだ。

 2014年から15年にかけて、日本では集団的自衛権に関する閣議決定があり、新安保法制が成立する過程であった。ISの実態が報ぜられる中で、日本は何をすべきかが議論されていた。自衛隊の任務を拡大するのかどうかが、その議論の中心だった。

 でも、ISと闘うというなら、このラッカの市民記者たちとどう連帯するのか、その活動をどう支援していくのかが大事な課題だったはずだ。そういうことがすっぽりと抜け落ちたまま、賛成するにせよ反対するにせよ、新安保法制の議論に明け暮れていた。テロの現場から遊離した議論だった。

 すごく反省。その反省をこれからの憲法論議のなかでは生かしていかねばならない。

2018年3月1日

 ようやく本日、京都に戻れます。夕方になってからだけど。疲れた。

 だけど今回の出張では、映画の予告編も観ちゃいました。今月のはじめ、池田香代子さんに誘われて「マルクス・エンゲルス」を観たんですが、先週は「女は二度決断する」で、今度は「ラッカは静かに虐殺されている」でした。どれも良かったです。忙しくて気の重い出張を楽しく過ごせました。池田さん、ありがとうございました。

 ということで、「マルクス・エンゲルス」に続いて映画評を。本日はまず「女は二度決断する」。ゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞で、近日公開である。

 主題はテロ。主役はドイツ人の女性。クルドの難民の男性と所帯を持って子どももいるのだが、ネオナチによる爆弾テロで二人を失う。その落とし前を付けるためどんな決断をするのかがテーマだ。

 本日公開のクリント・イーストウッド監督の映画に「15時17分、パリ行き」がある。先日、メトロポリタンオペラ「トスカ」を映画で観たときに予告編を流していたが、これは列車のなかで無差別テロに直面した3人の幼なじみの物語である。実話だという。

 そしてこの「女は二度決断する」。そうなのだ。欧米ではもう、移民、移民排斥、憎悪、テロというものが日常となっている。その現実がまず存在し、だからそれが映画になっているというわけだ。それがもう目を背けることのできない現実になっているということに、何よりも圧倒される。

 そして、タイトルともなっている「女の決断」「二度の決断」。ドイツ語の原題はAus dem Nichtsとなっていて、「無から」とか「どこからともなく」となるそうだが、日本語タイトルを支持する。欧米の人にとっては扱っているテーマがリアリティのあることなので、そこから何物かを感じ取ることができるだろうが、日本人にとっては難しい。夫と子どもをテロで失った女性がどんな決断をするのかということが分かったほうが、自分に引き寄せて映画を観ることができるように思える。

 どんな決断かはここでは言えない。ネタバレでもあるし、そのネタそのものが映画の主題となっているわけだから。

 でも、一度目の決断を躊躇して放棄したところで安心したけど、二度目の決断が実行に移されて衝撃だったことは言っておきたい。救いようのない最後の決断だけれど、ここにはテロが日常になっている世界での避けられない現実が反映している。テロに対して暴力で立ち向かうのはいけない、あくまで平和的な手段を求めるという声があるけれど、そういう抽象的な思考を許さない現実である。

 しかし、映画を観てから2週間経ち、この最後の決断は案外「憎しみの連鎖」を断ちきる一つの手段なのかと感じることもある。間違っているかもしれないけれどね。

2018年2月28日

 本日は朝からずっと外に出てきました。もうすぐ東京事務所まで戻ります。記事を書く余裕がないので、本日のメルマガに書いた内容をアップします(以下)

 もうすぐ7年目の3.11がめぐってきます。みなさんはその日、どう過ごされる予定でしょうか?

 私はこれまでと同様、その日は南相馬市にいて、午後2時46分、市役所の追悼式でお祈りを捧げてから、あわてて東京経由で京都まで戻ってきます。9日から福島に入り、私が関わっている生業訴訟の第二次提訴行動に参加し、原告団長と「あまちゃん」の音楽で有名な大友良英さんの対談を聞き、翌日は弊社の福島本にも関係するイベントをやった上で、飯舘村を経由して浜通りに入って、いろんな場所を見てきます。全国からのツアー客といっしょにです。

 3.11が起きた2011年、当然、他の出版社も同じですが、福島関連の本をたくさん出しました。しかし、それでは飽き足らない気持ちになり、秋頃になって、「自分は1年目の3.11をどう過ごしているのだろう?」と考えるようになりました。その時、3.11はどうしても福島で、福島の人と一緒に過ごすんだという気持ちになったのです。

 そこで、浜通りで講演と音楽のイベントをする計画を立てました。そのため、弊社の著者でもあるお二人に声をかけたのです。

 一人は蓮池透さん。福島第一原発の三号機、四号機の保守管理もされたことがあって、弊社から『私が愛した東京電力』という本も出されており、福島の人びとを前に謝罪の心を伝えたいということでした。

 もう一人は伊勢崎賢治さん。世界の紛争現場で活躍する方で、3.11の直後に原発から数キロの場所に一人で入り込んで調査し、危険だからとして誰も支援に行かない福島に国際紛争に関わるNGOを派遣していました。プロのジャズトランペッターでもあるので、浜通りの人びとに音楽の癒やしをと考えたのです。

 出版につながらない企画なので、会社に負担をかけるわけにはいきません。そこで旅行社と相談して全国からツアーを組織し、自前でやることにしました。

 それからずっと、3.11は同じように過ごしてきました。時として本になる企画も伴うようになったので、最近は、私の旅行費用は会社持ちになっています(ありがたい)。

 もう7年目なんですね。3年目頃までは、3.11の前になると、いろんな出版社が関連本を山のように出していました。書店も独自のコーナーをつくりました。でも3年目頃からは、書店のコーナーは西日本ではなくなり、次第に東日本でもなくなりました。いまでは福島だけでしょう。それにつれて、出版社も関連本を出さなくなりました。当然でしょうね。もうからないわけですから。

 そのなかで、弊社だけは、ずっと福島の本を出し続けています。10日の福島市で開催するイベントで並べる新刊本は二つです。

 一つは、『しあわせになるための「福島差別」論』。著者が14人もいるので紹介できませんが、当日は、そのなかから清水修二さん(元福島大学副学長)と池田香代子さん(ドイツ文学翻訳家)が参加します。そういえば池田さんは、このツアーに2年目からずっと参加しています。

 この本の特徴はどこにあるのか。それは、福島から避難している子どもたちが「放射能がうつる」などといじめられていることに象徴されるように、7年経ってもなお存在する福島に対する差別と分断は、いったいどうしたら乗り越えられるのかという問題意識で編まれたことです。

 そのために本書は、第一に「それぞれの判断と選択をお互いに尊重する」こと、第二に「科学的な議論の土俵を共有する」ことを提唱しています。そして、何よりも福島の人びとがしあわせになることを基準にして、どうすればいいのかを考えようと主張しています。

 これは言葉にするのは容易いことですが、実際にはそう簡単ではありません。私も毎年の福島ツアーのなかで、福島にとどまっている人たちと、福島から避難している人たちとを、どうやって同じ場についてもらい、議論してわかり合えるかという企画を模索してきましたが、これまで一度も実現しませんでした。

 しかし、京都で開かれたこの本の出版記念講演会(主催は市民社会フォーラム)には、弊社から『母子避難』という本を出してくださっている森松明希子さん(郡山から大阪に避難)が参加し、いっしょに議論をすることができました。もちろん、お互いが理解し合ったということではありませんが、貴重な一歩になったとは思います。

 もう一冊は、まだ書店に並んでいませんが、『広島の被爆と福島の被曝──両者は本質的に同じものか似て非なるものか』です。著者は斎藤紀さん(医師)。10日のイベントにも参加されます。

 齋藤さんには、1年目のツアーを実施する準備で秋に福島に行った時、偶然知り合いました。それから6年余、ずっと本を書いていただきたいと懇願してきましたが、ようやく現実のものとなりました。

 齋藤さんは医師になってすぐ広島に行き、被爆者の研究と治療に携わってきました。被爆者を原爆症に認定させるための各種の原爆訴訟でも中心をにない、40年間の人生をそれに捧げてきたわけです。10年前、余生を過ごすために福島に来て、7年前、3.11に遭遇することになります。それ以降はずっと、原爆集団訴訟に関わりながら、福島の被災に向き合ってきました。

 そうなんです。広島の被爆と福島の被曝をもっとも深く知っているのが齋藤さんなんです。深く知っているだけに、問題が単純ではないことも経験で知っているわけです。たとえば、どちらにも共通するのが、線量で被害者を分断する思想。広島で被爆者に向き合っていると、ついつい「もう少し線量が高ければ原爆症に認定されたのに」と思ってしまう心の倒錯。だから、必要なことだと自覚しつつも、これまで筆がとれなかったわけです。

 そんな理不尽さと闘い抜いてきた著者でしか書けない本です。帯に「生涯をかけて被ばく問題に挑んできた著者だからこそ論じられる両者の関連と区別」とあります。是非、ご一読を。

 ということで、長くなりました。弊社は引き続き、福島問題と深く関わっていきます。『福島が日本を超える日』というのは、生業訴訟のなかで誕生した2年前の本のタイトルですが、苦しみのなかで成長する福島の人びとこそが、日本を変えていける力を蓄えているというのが私の実感です。是非、その道のりを読者のみなさんとともに歩んでいきたいと思います。

2018年2月27日

 以前、こういう企画をするんだと宣言しましたよね。山尾志桜里VS伊藤真VS伊勢崎賢治VS松竹伸幸の対決企画です。そして、主催者を募りました。その結果、毎日新聞社のメディアカフェが主催してくれることになりました。そのサイトにある告知文を紹介します。定員200名がもう半分ほど埋まっていますので、参加ご希望の方は早めに以下のサイトで申し込んでくださいね。

http://mainichimediacafe.jp/eventcal/?p=4016

 自民党は3月25日に党大会を開き、憲法改正に向けた党としての案を決めようとしています。その一つが、安倍晋三首相が昨年打ち出した、九条の1項も2項もそのままにして、そのあとに自衛隊の存在を明記しようという案です。加憲案とも呼ばれます。

 これに対して、伝統的な護憲派からはもちろん、さまざまな立場から対抗軸が打ち出されています。このシンポジウムでは、立場の異なる4人の方々が、公開討論をします。護憲団体・九条の会の世話人で、一貫して「九条を守る」立場の弁護士・伊藤真さん、「立憲的改憲」を主張する衆議院議員の山尾志桜里さん、紛争現場を熟知し「護憲的改憲」を唱える東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さん、最近、『改憲的護憲論』を著した編集者・ジャーナリストの松竹伸幸さんです。安倍加憲論へのバラエティー豊かな対抗軸が議論されるでしょう。

 事前に質問を受け付けます。質問対象者を明記して、200字以内で、下記にメールで送って下さい。
info@mainichimediacafe.jp
 このシンポジウムはかもがわ出版、市民社会フォーラムが企画しました。

 今回のイベントは、「出張メディアカフェ」で、通常とは開催場所が異なり、千代田区立日比谷図書文化館大ホール(東京都千代田区日比谷公園1−4)で開かれます。

 入場には資料代1,000円が必要です。当日、受付でお支払いください。(領収書対応可)
■開催概要
開場 13:30 開演 14:00
終演 16:40 定員:200名

登壇者

伊藤真(いとう・まこと)
伊藤塾(法律資格の受験指導校塾長、弁護士、法学館法律事務所所長、法学館憲法研究所所長、日弁連憲法問題対策本部副本部長。
2009年7月、「一人一票実現国民会議」の発起人となる。14年、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対する「国民安保法制懇」、15年、「安保法制違憲訴訟の会」に参加。16年9月、「九条の会・世話人」に就任。
一貫して憲法九条を守る立場を堅持してきた。

伊勢崎賢治(いせざき・けんじ)
東京外国語大学総合国際学研究院(国際社会部門・国際研究系)教授。
2000年から国連東チモール暫定行政機構で上級民政官としてコバリマ県で知事、01年から国連シエラレオネ派遣団で武装解除部長、03年からはアフガニスタンで日本政府を代表して軍閥の武装解除を指揮した。これらの経験をふまえ、世界各地の紛争問題で発言し、行動している。「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人。
憲法九条問題では「護憲的改憲」を主張。

山尾志桜里(やまお・しおり)
衆議院議員(立憲民主党)。
憲法改正原案及び日本国憲法にかかわる改正の発議または国民投票に関する法律案を提出する権限を有する衆議院憲法審査会において委員を務める。立憲民主党憲法調査会では役員。自身は国家権力を統制する立場から自衛権の統制・憲法裁判所の創設などを柱とする「立憲的改憲」を主張する。
初代「アニー」。東大法学部卒、検察官を経て、09年の衆議院選挙で初当選(現在3期目。愛知7区選出)。

松竹伸幸(まつたけ・のぶゆき)
編集者・ジャーナリスト、日本平和学会会員(専門は外交、安全保障)。
2014年、現行憲法下での防衛政策のあり方を提言するために結成された「自衛隊を活かす会」(代表・柳澤協二、正式名称は「自衛隊を活かす:21世紀の憲法と防衛を考える会」)で事務局長を務める。
自身も、『憲法九条の軍事戦略』『対米従属の謎』(以上、平凡社新書)、『改憲的護憲論』(集英社新書)などで憲法と防衛政策について発言してきた。

申込は以下です。

http://mainichimediacafe.jp/eventcal/?p=4016

宣伝用のポスターです。

20180331_安倍加憲論への対抗軸