「限定容認」のまやかしと意義

2014年6月20日

 昨夜は某新聞社の幹部と意見交換。集団的自衛権をめぐる問題とか、日韓関係をどう打開するのかとか、そんな話題だった。

 その時に思ったのだが、たしかに「限定容認」はまやかしなのだが(突然、集団安全保障に参加して武力を行使する問題が浮上するのもそのひとつ)、それだけとも言えない。闘う上での意味も生まれている。

 最大のものは、与党合意にもとづいて、秋に法案が出されるということだ。「限定容認」でなければ、そうならなかっただろうと思う。どういうことか。

 よく言われることだが、外国では、軍隊がやってはいけないことがリスト化されていて、そこで禁止されていないことは何でもやれる。一方の日本では、やっていいことを明確にし、それを法律にする。法律になったこと以外、やってはいけない。この間、PKOへの参加とか、インド洋の給油とかイラク派兵とか、そういうことで立法化されてきた。

 これには自民党内でも焦りがあった。だって、目の前で事態が進行し、アメリカからせっつかれるのに、政府が立法作業をやって、それを国会に出して可決しないと、自衛隊は出動できないからだ。外国のように、さっと出せるようになりたいというのが、自民党の願望でもあった。

 なぜ日本ではそんなことになったのかといえば、集団的自衛権は憲法違反だというしばりがあったからである。自衛隊を海外に出すというのに、その自衛隊の行動が憲法に違反してはダメだということで、個別の事例ごとに、集団的自衛権の行使にならないような歯止めが求められたわけである。

 つまり、今回、集団的自衛権が無制限に容認されるなら、いま予定されている立法作業は不要になるものだったと思う。一応建前は「限定」なので、自衛隊の行動がその範囲に収まっているかどうか、法律で定める必要が出てきているわけだ。

 ということで、閣議決定されたからといって、集団的自衛権をめぐる闘争が終わるわけではない。それどころか、19人の閣議では済まずに、国会における攻防が大事になってくるわけである。それを通じて、集団的自衛権を認めない国会の力関係をどうつくるのかという議論を、もっと旺盛になっていく必要性が生まれていくのだと思う。

 だからといって、「限定容認」の土俵をつくってくれた公明党に感謝するつもりはないけれど、闘うことは意味のある成果を生みだすのだということは確認しておきたい。いまの安倍さんの勢いをみていると、もう立法作業はいらないとか言いだしそうなものも感じるけどね。

 明日は午前中、なんとデモクラTVに出演。午後は「自衛隊を活かす会」の呼びかけ人・事務局会議です。
 

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