法的責任、政治的責任、道徳的責任、形而上的責任

2014年11月25日

 ずっと慰安婦問題を考えながら日々を過ごしている。その中でも私の頭を捉えて放さないのは、法的責任と政治的道義的責任の問題である。

 この問題では、韓国や市民運動の側が日本政府に対し、法的責任を果たせと要求してきた。それに対して、日本政府の側は、法的な責任はない、あるいは法的には決着済みであって、政治的道義的責任なら認められるとしてきた。

 こういう経緯があるものだから、法的責任は高い水準のもので、政治的道義的責任は軽いものだと捉えられてきた。実際、日本政府が口にする政治的道義的責任というのは、法的責任を回避するための口実のようなものだったので、本当に軽いのである。

 しかし、本当にそうなのだろうか。あるいは、被害者の側は、法的責任が認められれば、本当に満足するのだろうか。

 法的責任というのは、いうまでもなく法律に反したということである。その結果として罪に服したり、生じさせた被害に対して補償義務が生まれたりする。

 だけど、法的責任というのは、自分が犯した罪を悔い改めることとは別に果たされるものだ。反省しようが反省しまいが、法律に規定に則って罰されるのだ。反省すれば情状が加味されるだろうけど、有罪が無罪になるようなものではない。

 被害者が加害者に求めているのは、「心からの反省」のはずである。法的責任を果たすことと心からの反省は合致するわけではないのに、ただただ法的責任を求める運動というのは、被害者の心を反映しているとはいえないのではないか。

 たとえば、安倍さんがいかにも侮蔑的な表情で、「わかったよ、法的責任を果たしますよ。税金からお金を渡せばいいんでしょ」と言ったとして、被害者の心は少しでも癒やされるだろうか。そんなことはあり得ない。

 そうではなく、河野談話のように、政治的道義的責任であったとしても、心が伝わってくるようなものが望ましいのではないだろうか。渡すお金だって、謝罪を表したいという国民のカンパの方が、そういうものとは無縁に出される税金より、ずっと心を伝えることってあるのではないだろうか。

 カール・ヤスパースは、ナチスドイツの戦争犯罪を扱った『戦争の罪を問う』のなかで、罪を四つに分類している。刑法上の罪、政治上の罪、道徳上の罪、形而上的な罪である。そして、後ろに行くほどに、要求される倫理上のハードルは高くなるとのべている。

 そのあたりをどう整理するかは、来春に出そうと思っている本の中心命題のひとつだ。さてどうなることか。

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