森友問題は安倍政治型の事件・上

2017年3月23日

 生業訴訟のことを書く予定でしたが、本日は籠池さんのことしか話題にならないでしょうから、その問題です。これまで何も書いていませんでしたが、何をどう問題にするべきなのか、考えあぐねていたのです。

 通常、こういう事件が起きると、我々の思考は、これまでの同種の事件に引きずられがちです。大企業や大金持ちがおカネを政治家に渡して、それで政治家が役所を動かし、政治がゆがめられるという、贈収賄型の事件です。今回も鴻池さんの証言があって(小池晃さんの追及もあり)、籠池さんがおカネで政治を動かそうとした事実が明らかになったので、その延長線上で事件を眺めてしまっているのではないでしょうか。

 確かに、昔の自民党政治というのは、そういうものでした。首相になろうというような実力者には、配下の議員や候補者に配るモチ代が必要で、献金を集めることが(その見返りに便宜を図ることも)不可欠だったわけです。でも、この「モチ代」が、かな漢字変換で出てこないほど過去のものになっています。よく言われるように、小選挙区制になって、首相の力の源泉は候補者を公認する権限があることから生まれる構造になっています。おカネも政党に集中するようになっています。おカネがなくても首相が絶大な権力を行使できるようになっているわけです。まあ安倍さんの場合、元からお金持ちなので、疑わしいおカネには見向きもしないこともあるでしょう。

 こうした時代には、何かの目的を達成しようとすると、政権のトップにどう取り入るかということが大事になってきます。籠池さんが首相の名前を冠した学校をつくろうとしたのも、そうした意図があったからでしょう。

 また官僚についてみても、昔なら、ある派閥から別の派閥に権力が移動するということが日常茶飯事だったので、特定派閥とだけ親密にするようなことはしなかったでしょう。だけど現在の権力構造のもとでは、派閥に対して等距離である必要はない。首相による働きかけがあろうがなかろうが、首相の意向に沿った行政ができるかどうかが、官僚の腕の発揮のしどころということになっているように思えます。

 そいうことで、今回の事件は、現在の政治構造が生み出したのだと思います。その意味で「安倍政治型」と名づけました。

 こういう構造で行政がゆがめられたとき、それを法的に裁けるのかというと、なかなか難しいように思えます。たとえ安倍首相から、「学校の認可に便宜を図ってくれ」という働きかけがあり、官僚が強引に認可にもっていったとしても(そこまで証人喚問等で明らかになっても)、安倍さんが「いや、学校の認可なんだから、法令にもとづいてやるのが当然だ。首相が法令を無視してやれと言うはずはない」と開き直ったら、法的責任という問題にはならない。

 我々は、小選挙区制とともに、こういう政治構造を生み出したのだと思います。ただ、この政治構造は、民主党がいったん政権をとったことでも明白なように、政権政党を追い詰めるだけの野党が存在するなら、変化を生み出すことができます。政治的、社会的、道義的な問題として追及し続けることは、その意味で大事です。官僚も、自民党内の派閥争いに気を遣わなくなっても、本来、野党の動きには目配りが必要とされるわけです。あれだけのダンピングを平気でやったのは、政権交代はないという見込みをしているからでしょう。それを覆すだけのものを野党が手に入れられるかが大事です。

 今回の事件を「安倍政治型」と名づけたのは、もう1つの理由があります。それはイデオロギーがからんでいることです。(続)

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