信頼されない防衛大臣の進退・1

2017年3月31日

 某メディアから、出処進退が問われている稲田朋美さんを主題にして書いてくれといわれて、寄稿した。まず「はじめに」の部分だけ。

 私事から始めて恐縮だが、日本共産党中央委員会に勤めていた頃、もし共産党が政権に入るようなことがあり、その時に私が国会議員をしているなら(参議院比例区で立候補したこともあるので夢物語ではなかった。政権入りのほうは別にして)、防衛大臣をやりたいと願っていた。防衛という仕事が大事だという使命感からだが、同時に、他の人には任せられないという気持ちも強かった。なぜなら、私の周りにいたのは、自衛隊に嫌悪感を持っている人がほとんどだったからだ。そういう人がトップに立つことになったら、自衛官の士気の低下は避けられず、防衛の仕事にも悪影響を及ぼすことを懸念したからであった。

 そのような経緯があるので、防衛大臣にどんな人物がなるのか、いつも関心を持って見守っている。とりわけ、昨年夏の内閣改造は、集団的自衛権の行使を可能にする新安保法制が成立し、南スーダンの自衛隊に駆けつけ警護の任務が付与されることが確実視される状況下だっただけに、注目度は大であった。

 そういう局面で防衛大臣になった稲田朋美氏であるが、現在、強い逆風のなかにいる。南スーダンでの「戦闘」を「武力衝突」だと強弁したこと、その同じ南スーダンの「日報」隠ぺい問題、さらにいま話題の森友学園との親密な関係などへの批判をはじめ、枚挙にいとまがないほどの逆風だ。

 これらのうち、「戦闘」問題について言うと、私は多少は稲田氏に同情的である。なぜかと言えば、この種の答弁は歴代政権がずっと続けてきた虚構の延長線上のものであって、稲田氏だけを責めて済む問題ではないからだ。

 「自衛隊が派遣されている場所が非戦闘地域」という小泉純一郎元首相の答弁は記憶に新しい。国際法の世界では、非戦闘地域で後方支援に徹しても、その行為は「武力の行使」とみなされる。戦争のための基地を外国に提供しただけで、自分も参戦国だということになる。それなのに、そういう常識と憲法9条が矛盾するので、常識のほうを優先させ、それに合うように9条の解釈をゆがめてきたのが歴代政権なのである。(続)

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