安彦良和『原点』で思ったこと・6

2017年5月26日

 さすが私が愛する「赤旗」。さっそく訂正記事を出してくれました。「24日付、「核兵器禁止条約を公表」の見出しと記事で「『核の傘』の提供禁止」とした部分は不正確な内容でしたので、削除します」。ということで、連載に戻ります。

 「日のあたらないところにいたから、好きなことをやってこれた。国家とは、個人とは、ナショナリズムとは……。そもそも、そういうテーマを抜きにしたら、私にとってマンガを描く根拠がなくなってしまう。私は芸術家じゃない。だからこそ、自分が描いているものが社会的にどういう意味があるのか、それがいつも、ひっかかるところです」

 本書で安彦さんが語っている言葉だ。自分流に書き直すと、次のようになるだろうか。

 「日のあたらないところにいたから、好きなことをやってこれた。自衛隊と九条を対立させるだけのやり方でいいのか、植民地支配したからといって支配された国の間違った議論にも反論してはならないのか、中国・北朝鮮脅威論に染まる人とも多少は心が通じ合わないと次の段階の対話にも進めないではないか……。そもそも、そういうテーマを抜きにしたら、私にとって本を書いたり出版したりする根拠がなくなってしまう。私は真の意味での編集者じゃない。だからこそ、自分が書いているものが社会的にどういう意味があるのか、それがいつも、ひっかかるところです」

 安彦さんは、世界で通用する日本のマンガとアニメのおもしろさについて、以下のように述べている。

 「はっきりいえるのはテクニックではないということ。……ただ一ついえることがあるとしたら、それはやりたいことをやり、自分がつくりたいものをつくるということではないか。それが日本のものづくりの生命線であり、世界に通用する作品をつくる原点ではないのか」

 まあ、私の場合、世界に通用するどころか、日本でも通用していない。でも、「やりたいことをやり、自分がつくりたいものをつくる」という点では、こころざしは同じである。自分で確信できないことを人前でしゃべったり、本にしたりはできない。もし、かもがわ出版が社会のなかでそれなりに意味のあることをできているとしたら、つくりたい本をつくってきたからだ。だから、このやり方を貫くことによって、通用するようになっていきたい。

 ただ、安彦さんは、次のようにも書いている。

 「普遍的価値も、オリジナリティーも、矜持も、無くていい。受けて、食わなくてはならない。が、あくまで創作者であり続けなければ、その世界に棲み続けることも、いつかは出来なくなってしまう」

 そうだよな。「受けて、食わなくてはならない」というのも同じだ。いまのやり方で食ってはいけてるけど、新しい挑戦、冒険がないと、この「世界に棲み続けることも、いつかは出来なくなってしまう」だろう。頑張らなくちゃ。

 この本の本文は、以下の言葉で締めくくられている。

 「サブカルチャーとして、あくまでサブカルチャーとして」

 そう、私も、メインの支配的な言説に違和感を感じ、別の選択肢を提示するサブカルであり続けたい。メインを鍛えるためにも、そうでありたい。

 連載の最後は、安彦さんと私が異なる点について。昨日、予定外の記事を書いたので、来週になりますけど。(続)

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