『歩兵の本領』

2017年10月27日

 習近平報告を読了。PDFファイルをアクロバットでテキストに変換したら、5万字以上もあった。報告するほうも聞くほうも、ご苦労なことだね。来週から連載します。

 本日は安易な書評。浅田次郎の本は、おそらく全部読んでいると思うし、名作としてオススメするものは多いのですが(本ブログでも『終わらざる夏』を評したことがある)、今回はこれです。

 浅田さんが若い頃、自衛隊に入っていたことは誰もが知っていると思います。本書は、浅田さんがいた70年代初頭の自衛隊を舞台にして、歩兵科(自衛隊用語で言えば普通科)の隊員の姿を描いたものです。

 推測も入りますが、この頃の自衛隊と現在の自衛隊は、だいぶ違っていると思います。何というか、入ってくる隊員の事情とか、そんなところはです。

 70年代初頭は、自衛隊員は肩身が狭かったんですね。高度成長が続いていて、就職は他にいろんな可能性が拓けていて、自衛隊を選ぶのはよほどの事情がある場合が少なくありませんでした。

 しかも、まだ旧軍の記憶が国民の脳裏に残っている上に(70年代初頭にはまだ旧軍出身者が自衛隊にいて、本書にも描かれています)、憲法違反であることがことさら問題になっていた。自衛官が成人式に出るのでも、護憲派が取り囲んで妨害したり、隊員を募集するのを妨害したり、音楽パレードなんかに自衛隊の音楽隊が出るのも、いろいろな理由をつけて反対したり。自分でやったわけではないけれど、思い出す度に恥ずかしいし、申し訳なかったという気持ちになります。話がそれますが、そういう気持ちだったので、十数年前(21世紀になってですが)共産党の参議院比例の候補者をやっていたとき、ある県の女性団体が募集反対の申し入れをやるので同行してほしいと要請され、お断りしたこともあります(嫌われただろうな)。 

 本書で描かれるのは、そういう事情のもとでの自衛隊員の姿です。浅田さんが自衛隊にいたとき、自衛官が極左暴力集団に殺害される事件もあって(「朝日ジャーナル」の記者がそれに関わっていて、記事を独占で書いたり、証拠隠滅をしたりしていた時代です)、この本にもその記述が出てきたりします。基地の外に出た時、自衛官だとさとられてはいけないと気をつけていた時代だったんです。

 そういう時代の雰囲気のなかで、日夜、厳しい訓練に明け暮れ、つかの間の休暇を過ごす隊員たち。軍隊としての非合理性に悩みつつ、軍隊はそれでないといけないと納得したり、そうなのに自衛隊は軍隊ではないという非合理性にも悩まされながら、それぞれの隊員が生きていく姿です。

 そういう現実があったから、自衛隊は本当に気を遣って運用されてきて、国民の支持される現在の自衛隊につながっているんですね。「専守防衛」の考え方だって、長沼訴訟で違憲判決が出ることによって、ようやく中身を伴ってでてくるわけです。統合幕僚長が安倍さんの加憲案を支持しましたが、争いのある問題で一方に荷担することは、自衛隊はかつては避けてきたのです。

 その自衛隊を憲法に明記されることが焦点になる時代です。自衛隊というものを抽象的にしか捉えていない護憲派には、是非、読んでほしいと思います。

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