虚構の集団的自衛権・1

2013年5月20日

 という本を書いていることは、すでにお知らせした。頭のなかは、そのことがかなりの部分を占めている。だから、記事もその点について。

 タイトルはまだ仮のものだが、集団的自衛権の本には「虚構」をつけるのがふさわしいと感じる。この問題をいま議論しているのは、安倍首相がつくった「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」という、長い名前の「懇談会」だが、それが5年前に出した「報告書」を見ても、「虚構」だらけである。

 たとえば、「報告書」は、一国のみで平和を考えるのは時代遅れだと強調する。それはそうだろう。だけど、それに対して、複数の国で対処するとか、国連で対処するとか、共同の対処が広がっていると書いているのは、ちょっと考えものだ。安全保障の考え方についての大きな虚構がある。

 こんなことを書くと、一国でやるのか、複数(あるいは国連)でやるのかというのが、安全保障の対立軸であるかのような印象になる。事実、「懇談会」は、そういうイメージをつくろうとしているのだと思う。

 だけどね、政治学の世界では、安全保障というのは大きくいって2つに分かれるのだが、これとは異なる。個別的安全保障か集団安全保障かというのが、大きな分類なのである。

 なんだ、同じじゃないかと思われるかもしれない。ぜんぜん違うのだ。

 ここでいう「集団安全保障」というのは、まさに国連でやるというものだ。どこに特徴があるかというと、政治的に対立している国同士がひとつの安全保障機構に入り、対話をする。そういう対話を踏みにじって侵略するような国が出てくれば、国連として共同対処するということになる。

 一方、「個別的安全保障」というのは、すべての国で機構をつくるのでない。一国でやるか、同盟をつくるかだ。集団安全保障と異なり、どこかの国を「敵」だと想定し、特定の国だけで対処するのである。

 そう、だから、日米同盟でやるというのと、国連でやるというのは、逆方向なのである。それなのに、「懇談会」は、日米同盟と国連PKOなどをごちゃまぜにして、結論を導こうとしている。

 似通った兄弟のようなものだと印象づけた方が、世論の受けがいいと考えているのかもしれないけど、ウソはだめですよ。「虚構」のうえに憲法解釈を変えるのは、正しくない。(続)

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