護憲とは社会を変革する立場・2

2013年6月27日

では、ご要望に応えて(笑)、続きを。

「契約自由」というのは資本主義の原理だから、日本だけに特有のものではなかった。もともと日本の民法は、ドイツやフランスなどの影響下につくられたものだったし、世界資本主義にとって共通のものだったのだ。

だから、この原理にメスを入れるというのは、世界的にみても簡単な事業ではなかった。ILO(国際労働機関)の歴史をみてもそれはわかる。

よく知られているように、1919年に結成されたILOが最初につくった条約(第1号条約)は、一日8時間週48時間労働条約であり、その次(同じ年の同じ会議でだが)は、失業に関する条約だった(第2号条約)。これは、労働時間とともに、雇用・失業という問題が、働く人々にとって焦点となっていた事情を反映している。

第1号条約の方は、実質的な意味のある条約だった。資本にとっては同じ競争条件をつくるという必要があって生まれたものであり、労働者の願いの実現というだけのものではないが、それでも意味はあった。なお、この会議で日本は自国の後進性、特殊性を強調し、日本だけは週57時間労働の特例を認められたのは有名な話である。

一方、第2号条約の方で決まったのは、わずかに失業に関する統計をとることと、無料の職業紹介所をつくることだけだった。解雇の制限にはまったく踏み込まなかったのだ。それだけ「契約自由」の原則は、牢固としたものだったのである。

その後、ヨーロッパでは、労働者の闘争のなかで70年代、解雇を制限する法律がつくられていく。そして、ILOがようやく解雇の制限にふみこんだのが、1892年の「雇用終了条約」である(第158号条約)。ここでは、労働者の能力や行為に関する妥当な理由、企業運営上の妥当な理由がなければ、労働者を解雇することができないことが定められた。とくに、組合活動への参加、婚姻関係、妊娠、その他で解雇することは明確に禁止されることになる。

これは、契約自由、解雇も自由という資本主義の原理に風穴をあけるものであった。労働者の闘いのなかで、資本主義国の政府がそういう措置を余儀なくされたのだ。

ところが日本では、欧州並みの解雇制限法はずっと実現しなかった。ILO158号条約も批准しなかった。それだけ日本資本主義というのは、その原理をまもることに汲々としていたのである。なお、日本が最初に批准したのが第2号条約だったのは、この条約が資本にとって痛くもかゆくもなかったことを証明している。

そういう日本で、資本主義の原理にメスを入れたのは、裁判所である。解雇された労働者がそれを不当だとして訴え、争ったわけである。最初は、前回の記事のように、解雇は自由だという判決がつづく。だから、進歩的な弁護士のなかにも、裁判を続けることへのあきらめもあったそうだ。しかし、70年代になって、ようやく、最高裁判所で以下のような判決がくだされる。

「使用者の解雇権の行使も、それが客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当として是認することができない場合には、権利の濫用として無効になる」(日本食塩製造事件)

なぜ裁判所はそういう判断にいたったかといえば、それが憲法の存在である。そこがヨーロッパと異なるところである。(続)

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