必要なのは候補者一本化ではなく共同のための論争

2014年2月4日

 都知事選挙、最後の週だということで、ますます盛り上がっている。舛添さんの独走らしいから、脱原発派は必死だよね。

 昨日、鎌田慧さんらが記者会見し、宇都宮さんと細川さんの両陣営に一本化を呼びかけたという。敗北した上に、二人あわせて舛添さんを上回る得票数だったら悲劇だと主張したらしい。

 まあ、気持ちは分からないではない。だけど、私の見方は異なる。

 今回の都知事選挙は、ずっと言っているように、脱原発のためには、左翼政党と市民運動の枠を越えて、まじめな保守との協力が必要だという自覚が生まれれば、大きな意味がある。そういう成熟がない段階で一本化をよびかけることは、それをめぐって批判の応酬があることが予想され、さらに溝が深まるだけのような気がするなあ。

 現在の局面は、昨年からすると一歩前進なのである。昨年までは、脱原発は国民世論の多数を占めていたが、左翼や市民運動派に政治をゆだねることへの拒否反応も強く、脱原発派は政治の舞台では少数にとどまっていた。しかし、その国民世論の前進のなかで、保守のなかにも矛盾が生まれ、脱原発をかかげる保守というものが生まれてきた。協力が深められれば、国民世論の多数派から政治の舞台の多数派へと向かえる局面が、ようやく目の前にあるのである。

 そういう保守とどう協力し合うのかというのは、新しい問題である。これまで保守陣営にいた人たちだから、市民運動派からみれば許せない実績とかもあるだろう。だから、いまの局面にふさわしく、新しい探究と模索が必要とされているのだ。脱原発のためには過去の問題は留保するのか、いや留保するくらいなら脱原発が実現しなくてもいいのかなど、真剣に考えなければならない。

 論争の中身についても、共同のための論争とは何かを深めることが大事だ。敵を追い詰めるための論争をするのか、仲間として協力し合うための論争をするのかで、論争の中身も態度も変わってくると思うのだ。

 そういう論争は、何よりもまず、どんなに批判するにしても、「脱原発では協力し合いたい」ということを明確にのべるものでなければならない。選挙では論争し合うけれども、選挙後は気持ちよく手を組もうと主張することが大事である。

 言葉遣いも大事である。実際につきあいがあるわけではない相手を批判すると、ついついきつい言葉が飛び交うことがある。だけど、その相手と明日は顔をつきあわせて協力し合うのだと思えば、言葉も選ぶことになる。協力するか敵対するかで、そういうことも変わってくるのだ。

 選挙だから、誰が当選するかということは大事である。だけど、今回の都知事選は、脱原発とか護憲とかの課題を、保守も含めていっしょにやっていけるきっかけとなるかどうかに、最大の試金石があると感じる。

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