2015年8月26日

 今度の日曜日の午後2時より、神戸・三宮です。お近くの方は、是非、ご参加下さい。

第12回中島淳のアジト談義・松竹伸幸docx

 参加して下さる武田肇記者は、この春まで大阪本社にいて慰安婦問題を担当し、昨年の検証記事にもかかわってこられました。現在は、東京本社で、外務省を担当しています。最近も、戦後70年の安倍談話問題で、署名記事をいくつか見かけました。

 『慰安婦問題をこれで終わらせる。』を刊行してすでに4カ月。いろいろ努力してきたつもりです。

 小林よしのりさんに本をお送りし、「週刊東洋経済」での対談とか、「ゴー宣道場」への出演につながったのは、すでに書きました。「ゴー宣道場」は、次の回も出演予定でして、引き続きその方面ではがんばりたいと思います。

 「慰安婦問題はすでに終わった」と思っている右派の方々を、どうやって河野談話の線まで戻ってもらうのか。それが今回の本を出したひとつの動機でした。一カ月ほど前、「自衛隊を活かす会」のシンポジウムで司会をしていたら、非常に名前の売れている右派雑誌の編集者の方が近づいてきて、「慰安婦問題で左右が一致できるなんて、この本を見るまで想像もしていませんでした。感動しました」といわれたので、「それなら右の人との対談か何かを企画して下さいよ」とお願いしました。どうなることやら。

 ただ、いずれにせよ、慰安婦問題をなんとかしようという熱気というか、活気というか、それ自体が極度に衰えているような気がします。夏って、いろいろな団体の集会があって、弊社の社員が総出で本を売りに行くのですが、昨年は、慰安婦関連の本が飛ぶように売れたのに、今回はさっぱりだったという報告を聞きました。左派系の人びとの集まりでも、朝日新聞問題以降、この問題への意欲は壊滅状態なのかもしれません。

 生きておられる慰安婦の方は、すでに約50名。これらの方々の生あるうちに何らかの解決がされないと、「解決を見ることなく全員が亡くなった」という記憶が残ることになり、問題はいよいよ複雑になると思います。

 何とかこじ開けたいと模索していますが、どうなるでしょうか。日曜日の企画でも、なんらかのものを見つけたいなと思います。

2015年8月25日

 先週、週刊文春が安倍さんの「吐血」を報道して、その健康状態をめぐる議論があった。首相の健康状態というのは、ジャーナリズムにとって「おいしい」話だから、根拠が確かだろうが薄弱だろうが、それに飛びつくのは宿命とも言えるのだろう。

 だから、それ自体はどうでもいいのだが、びっくりしたのは安倍さんと対決して運動している側にも、その報道に飛びつく人がいたことだ。病気に「期待」するかのような露骨なものから、病気が「心配だから」というものまであったけど、病気を理由に安倍さんに首相を辞めてほしいというのは共通していた。

 それって、どうなんだろう。安倍さんに辞めてほしいというのは同じ気持ちだけれど、そこに「病気」をからませるって、まず直感的に、人の病気が悪化することを望むみたいで、いい気持ちがしない。

 本当に首相の仕事ができないほどの病気なんだったら、辞めるのは当然である。だけど、そもそも戦後70年談話の記者会見でも見たように、元気たっぷりのようだ。仕事の中身は評価しないけれど、仕事はしているわけである。

 安倍さんがかかっている潰瘍性大腸炎って、いい薬ができたそうで、もう難病とはいえなくなったという話もある。仕事をこなしている姿を見て、同じ病気をもっている人は、本当に安心しているだろう。自分も大丈夫だと。それが、やはり仕事ができないとなったら、どんなにがっかりするだろう。病気辞任を期待する人には、是非、そんな患者さんの気持ちをくんでほしいと思っている。

 それよりも大事なことは、たとえ安倍さんがいま辞めたところで、安倍さん的なものはそのまま残ることである。90年代半ばから自虐史観批判をはじめた安倍さんたちのグループが、20年をへて社会の主流になり、安倍さんを首相にまで登り詰めさせることになった。この間、いろいろな批判を浴びつつ、3回もの国政選挙でも安倍さんが勝利するというのは、その世論構図があることを意味している。

 その安倍さん的なものを乗り越えるだけの思想と運動をつくりだすことによって、安倍さんを首相の座から引きずり下ろすのでない限り、安倍さん的なものは残る。そして、いつでも顔を出す。

 病気で辞任することになったら、そのことが見えにくくなってしまうだろう。だから、そういう思想をつくりだして撃破したんだと言えるようになるまで、安倍さんにはがんばってもらわなければならない。

2015年8月24日

 こんなタイトルで、昨日、労働組合幹部を前にして講演しました。レジメは以下の通りです。安倍さんのおじいさんが進めた1960年の安保条約改定に反対する闘争の後、70年代前半にかけて、革新自治体が誕生し、社会保障をはじめ多くの成果が獲得できました。それだけの成果が生まれたのは、安保改定反対闘争から「革新共闘」が大切だという教訓を導き、実践したからです。安倍さんが進める新安保法制に反対する闘争から、われわれは何を教訓として導くべきか。「革新共闘」の大切さではない何を導くのか。そのなかで労働組合はどんな役割があるのか。それが講演のテーマでした。

はじめに
 「成功の一つの要素を労働者はもちあわせている──人数である。だが、人数は、団結によって結合され、知識によってみちびかれる場合にだけ、ものをいう」(マルクス「国際労働者協会創立宣言」より)

一、力は現実の運動の中で生まれる
1、60年安保闘争と革新共闘
2、社公合意と革新懇運動
3、一点共闘と戦争法案反対闘争

二、戦争法案反対闘争の新しい意味
1、安保条約への賛否を超えて
2、改憲か護憲かの枠組みを超えて
3、自衛隊肯定論と否定論の枠組さえも
4、自覚的な努力が支えている

三、現実が労働組合に問いかけるもの
1、「かっこよさ」と労働組合
2、「仕事への誇り」と労働組合
3、一点共闘と労働組合

おわりに

2015年8月21日

 本日から東京。『歴史認識をめぐる40章』を短時日に仕上げるためには、印刷所のある東京にいることが欠かせません。宅急便でやりとりしていると、合計で2日はロスになるからね。それと本の執筆者とお会いしたり、その他その他。

 明日は、変わったイベントに参加します。出版記念トーク『父島が西荻にやってくる』といって、北尾トロさん、瀬戸山玄さんと私の座談会。午後2時から、場所は東京・杉並の信愛書店というところです(西荻窪の駅を南に3分ほど)。1ドリンク付きで1500円とか。

 北尾さんは、なんと猟師。これを仕事にしている人って、まだ一度もあったことがありません。ていうか、仕事として成り立つんですか。最近、『猟師になりたい』(信濃毎日新聞社)という本を出されました。

 瀬戸山さんは、ドキュメンタリスト。最近、『狙撃手、前へ!』(岩波書店)を出したばかり。小笠原で生まれ、「戦争で本当に人を殺した者にしか、命の有り難みは分からない」と語る横山丈夫を通して、矛盾に満ちた戦争の姿を語るという趣旨が、アマゾンにあります。

 そこになぜ、私が入るのか、分かりませんよね。信愛書店さんの説明によると、3人は「銃」で共通しているんですって。「自衛隊を活かす会」ということで。

 でも、「銃」って、テレビで見たことがあるという程度で、実物は触ったことも見たこともないんですよね。どんな座談会になるのか、さっぱり分かりません。

 それでも興味のある方は、まだ席が空いているそうなので、どうぞ。書店のホームページに申込み方法が書いてます。

 このイベント、夜までつづくんですが、何とかして京都まで帰ります。だって、日曜日は、朝の9時50分から労働組合の幹部相手に講演しなければなりません。テーマは、まだ決め切れていないのだけど、「政治を変える力をどうやってつくるか」にしようかな。

2015年8月20日

 さっき、『安倍談話の裏表』を印刷所に入れた。趣旨が伝わりやすいから、ずっとこのタイトルということにしていたけれど、少し前、いろいろ考えて、サブタイトルとメインタイトルを入れ替えた。だから、正式には、『歴史認識をめぐる40章──「安倍談話」の裏表』となる(表紙画像)。

さよなら安倍/安倍談話・表紙(帯あり)

 先月、『歴史認識とは何か』(新潮選書)、『「歴史認識」とは何か』(中公新書)と、偶然にもほぼ同じタイトルの本が出ている。前者は著者が細谷雄一さんでもう6刷り、後者は著者が大沼保昭さん(聞き手は江川紹子さん)で、発売と同時に増刷が決まったという。私の本のタイトル変更理由を、そのタイトルに則していうと、表(建前)は、中身に即したタイトルにするということで、裏(本音)は、売れている「歴史認識」本に割って入りたいということかな。

 昨日、職場を休んで、最後の仕上げをしたのだが(自社の本を書くのに休暇というのも変な感じ)、映画「日本のいちばん長い日」も観に行った。仕上げに際して、何か刺激になるようなものがあるかなあと、少し期待して。

 それにしても多数の人が観に来ていた。昼間、高槻の映画館にいったら、「もう満席です」といわれたので、ネットで予約した上で、夕方、茨木の映画館へ。そこも満席にはなっていなかったけど、たくさん入っていた。みんな、「歴史認識」を考えているんだろうなあ。勉強したいと思わせたのだったら、安倍談話にも効果があったということか。

 映画は、ドラマとして面白かった。主役の役所広司がなかなかで、そうだよな、ああいう終戦を迎える上では、陸軍大臣の役割が大事であって、求められるものを演じきったという感想。昭和天皇の玉音放送を阻止しようとした反乱将校役の松阪桃李もいい役者だなと思わせてくれたが、映画を成り立たたせるため実際の反乱より大きく描いているので、そこのリアリティが気になった。

 それよりも、冒頭に、終戦の「聖断」を決断するに到る過程が描かれるのだが、東京をはじめ各地への空襲、ソ連の参戦、原爆投下とつづくけれど、「沖縄戦」はどこにも出てこない。「本土決戦だ」「本土決戦だ」と、出てくるのは「本土」ばかり。

 これは原作者の半藤さんの責任ではなくて、実際、半藤さんが関係者にいろいろ取材しても、その関係者の口から、「沖縄」のことは出てこなかったのだろうな。沖縄県民がどんなに命を失っても、そのことが日本の戦前の指導層に何の影響も与えなかったことは悲しい。

 そういう感覚を、いまの指導層も受け継いでいるんだよね。そのことが映画の最初に気になったため、最後まで気持ちを投入できなかった。残念。