2014年7月1日

 いよいよ閣議決定だ。なぜこれだけの世論があるのに、安倍さんを追い詰めるまでにならないのか。いろんな議論があったよね。

 先日の毎日新聞に、『永続敗戦論』の白井聡さんが出ていた。そこで、自衛隊を認めたのも解釈改憲なので、いまさら解釈改憲反対と言っても、同じ手法じゃないかということになり、反対論には説得力がないのだと指摘していた。

 まあ、そう感じる人もいるだろうとは思う。だけど、個別的自衛権と集団的自衛権の解釈改憲論には、本質的な違いがある。

 個別的自衛権というのは、まさに近代国家の成立以来、ずっと常識だった。だから、憲法が明文で自衛権を否定していない以上、日本も自衛権があるのだという論理は、国民のなかにすっと入ってきたわけである。

 一方、集団的自衛権というのは、国連憲章ではじめて「権利」とされたものだ。しかも、武力攻撃された国を助けるという点では、それなりに常識的なものであるが、その実態は、このブログで何回も論じてきたように、ソ連のチェコ、アフガン侵略、アメリカのベトナム、ニカラグア侵略にあたって集団的自衛権が発動されたことに見られるように、「自衛」とは関係なく発動されてきた。非常識な権利というのが実態なのである。

 与党協議がはじまって、世論の目は、いわゆる15事例に惹きつけられてしまい、集団的自衛権の本質的な部分の議論がなおざりにされた。与党協議がはじまる前は、国会の予算委員会で、そういう実態が提示され、議論される短い期間があった。

 岸田外相は、集団的自衛権が侵略のために使われたことについて、「自分は有権解釈できない」と逃げた。安倍さんは、「安保法制懇では、ベトナム侵略とかアフガン侵略のことは議論されていない」と、堂々と?答弁した。

 だけど、集団的自衛権が実際に発動された14事例が、ほとんど侵略と同義語であって、すべて世界の平和にとって有害だったことが大事なのである。そういう実態面での違いがあるから、そこを広く知らせていけばいいのだと思う。世論というのは、実態によって形成されるものであって、いくら政府与党が世論をミスリードしようとしても、実態が侵略であるならば、それを「自衛」だと思い込ませることはできないのだから。

 ということで、はい、これからが本番です。がんばります。

 

2014年6月30日

 と思いませんか? さっぱり分からない。

 これまで北朝鮮は、核実験とかミサイル発射のときは、それを誇示してきた。自分はそういう能力があるんだということを示すことで、国際社会のなかで存在感を獲得しようとしてきたわけである。

 ところが今回、事前の通告はなかった。アメリカや韓国がどこまでその予兆をつかんでいたかどうか分からないが、そういう事前報道もなかった。おそらくこれまでは、やるぞやるぞと匂わせることが多かったので、事前につかむことも可能だったのだろうけど、今回、本当に不意打ちでやったのだと思う。

 これって、危険な行為だ。ミサイルって、事前にどの空域をどんな高度で飛ぶかを知らせないと、そこを飛行する航空機とかに影響が出かねないわけだから。

 なぜそんなことをやったのか。それをどう見るのか。どう見たら、合理的だと考えられるのか。

 おそらくだけど、今回の発射は、軍部の暴走なのではないだろうか。これまでは、政府によるプレーという政治的行為だったので、事前に知らせないと意味がなかったわけだが、今回、事前通告しなかったということは、軍だけの独自判断だとしか考えられない。

 それが分かっているから、日本政府も、拉致問題の日朝協議(7月1日)を打ち切らないのだと思う。これまでなら、もしミサイル発射なんかがあったら、すべての交渉をストップしていたでしょ。北朝鮮政府から、あれは政府の意向ではないと、日本政府に説明があったのかもしれない。

 だけど、そうだとすると、北朝鮮国内は、微妙な情勢かもね。軍部が政府に歯向かうということだから。

 いや、軍部だけではないかもしれない。ちょっと前に書いたけど、北朝鮮政府は、拉致問題を実行した特殊機関にも手をつけると表明しているわけで、これまで権力の中枢だったところを敵にまわすかもしれないのだ。注意深く見ておかないといけないね。

 明日の閣議決定を前に、東京に来ています。何かできることがあるわけじゃないど、目の前で体験して、それを次につなげたいと思います。

2014年6月27日

 さて、個人的な体験を長々とお聞かせして、大変申し訳ありません。でも、この体験は、私がこの本を書く動機と直結しているのです。

 いま、従軍慰安婦問題をはじめとする韓国との関係の問題について、右翼的立場が圧倒的に幅を利かせており、左翼的立場への共感は薄れています。書店を歩けば「反韓・嫌韓・呆韓」本ばかりが並んでいて、週刊誌も売上を増やしたければ「反韓・嫌韓」の特集を組み、居酒屋談義でも韓国への反感が肴にされているのが現状です。

 おそらく、韓国を忌み嫌い、左翼を批判する人の多くには、左翼というのは韓国の要求を一〇〇%丸呑みする輩だという認識があるのではないでしょうか。しかし、これまで紹介してきたことからもご理解いただけるでしょうが、宮本さんの立場は、それとはかなり異なっていたのです(もちろん共通する部分も多かったでしょうが)。

 先日、ある大新聞者の編集幹部の方と飲む機会があり、「提言」にまつわる宮本さんの話を紹介したところ、彼の感想は、「宮本さんって、常識的な人だったんですね」というものでした。私もそう思うのです。もちろん、宮本さんも、基本的立場は確固とした左翼でしたが(私のような左翼の末席を汚すものが言うのも変ですが)、共産党の場合、市民運動派などに属する他の左翼とはまったく異なるところがあります。政権の獲得をめざす左翼だというところです。そして、政権を獲得するためには、右翼も含む国民多数の支持を得なければならないので、理念とか原理にのみこだわるという態度はとれなくなるのです。

 私は事情があって、短期間で共産党の仕事を退職し、ジャーナリズムの世界に身を置くことになります。だから、その当時のように、政権をとる見地でものを考えるようなことはしなくてもいいのです。ただただ理念を大切にする人生を送ることも可能なのです。しかし、当時のような思考方法が習い性になってしまい、なかなかそこから抜けだすことができません。

 とりわけ、私が在籍した政策委員会という部署は、外部の方には分かりにくいかもしれませんが、特定の考え方をもつ団体との関係がないところに特徴があるのです。労働組合部だったら労働組合との関係があり、平和運動部だったら平和団体との関係があり、それらとの良好な関係を維持することが求められます。しかし、政策委員会にはそんな団体がありません。なぜそうなっているかについて、先輩から、「政党の政策というものは、特定の団体の圧力を受けてつくるのものではなく、国民全体のことを考えながらつくるものだ」と教えられてきました。このときの体験が染みこんでいるからでしょうか、何かあるとすぐ、「どうやったら右から左まで支持が得られるだろう」と考える癖がついてしまいました。もちろん、右から左といっても、原理主義的な考えをもつ方に支持してもらうのは左右ともに無理でしょうから、リベラル保守からリアリスト左翼までということになるかもしれません。

 そういう私の体験をふまえ、従軍慰安婦や植民地支配の問題について、どうやったら右から左まで一致できるのだろうかという見地から、私なりに考察をくわえたのが本書です。私は、植民地支配したのは間違っていたし、慰安婦問題についても謝罪は必要だという立場ですが、韓国側の要求には多くの問題があると思います。たとえば、請求権問題について当事者である慰安婦が声をあげるのは当然でしょうが、外交交渉を通じて何回も「これで決着させよう」と合意した韓国政府までが、「まだ決着していない」と批判の矛先を日本に向けるのは、問題の解決を難しくしています。そして、当初は慰安婦の主張にある程度は共感していた国民が、そういう韓国の姿に接することによって、「何回謝れば済むのだ」「なぜ日本だけが責められるのだ」という気持ちになり、韓国に同調する日本の左翼に対して批判的になる理由も理解できます。

 とはいえ私は、韓国とのこじれた関係を何とかするうえでは、左翼的な立場からのアプローチが不可欠だと思います。たとえば現在、いろいろな問題で韓国政府が理不尽な態度をとっても、日本政府が何か批判すると、すぐに植民地支配の過去と結びつけられ、韓国の世論は硬直化してしまいます。しかし、日本側の批判の主体が、植民地支配と命を賭して闘った実績のある左翼なら、韓国世論も単純な反発はできないはずです。日本の左翼は、韓国世論を宥め、納得させるうえで、大事なポジションにいるのです。この点では、本書のタイトルは、『嫌韓流』をもじったものではなく、『「しつこい韓国」を納得させる』というのがふさわしいかもしれません。

 ということで、この本、これまでの左翼的な本とはかなり趣が違って見えるでしょう。しかしそれは、私が特異な主張をしているからではなく、左翼にしては常識的な主張だからにすぎません。関心のある方は、本論へと読み進めていただけると幸いです。(了)

2014年6月26日

 では、もうひとつ、政治的にできないことって何でしょう。これにもびっくりしました、同時に宮本さんならではというか、考え込んでしまいました。

 要するに、こういうことです。政権をとったら、国家と国家の関係は、それを評価するにせよしないにせよ、国家同士がで結んだ条約が基本となるのであって、そこを飛び越えてはいけないということでした(そういう内容だったということであって、こんな言葉を遣いを宮本さんがしたわけではないと思いますが)。

 これって、具体的にいえば、韓国との関係では、1965年の日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)が基本になるということです。慰安婦に対する補償ということを考えると、同時に結ばれた日韓請求権並びに経済協力協定(財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定)が基本だということでもあります。

 本書を読むような方には釈迦に説法でしょうが、日韓基本条約って、日本の植民地支配について「もはや無効だ」と書いているものです。この「もはや」がくせ者で、いまは無効になったが、植民地支配した当時は無効ではなかったぞ、合法だったぞと、日本政府が説明してきたものです。請求権協定についていえば、韓国の国民の日本に対する請求権が「完全かつ最終的に解決された」として、こんご「請求権……に関しては、いかなる主張もすることができない」とまで言い切ったものです。

 自民党政権がこの条約を基本としていることは当然でしょうが、宮本さんの指示は、日本共産党が政権についたとしても、それは変わらないということです。共産党は戦前、朝鮮半島を植民地にするなと命がけで闘った政党です。日韓条約についても、先ほどのような問題点を指摘し、反対闘争をリードしてきました。その共産党がこの条約を基本とするというのですから、驚かない方がおかしいでしょう。

 しかし、よくよく考えて、その通りだなと思いました。どんな条約であっても、国と国が公式に結んだものです。とりわけ、平和条約とか基本条約といえば、国と国のあり方の根幹を定めたものです。平和条約を破棄するなんてことを言いだせば、「再び戦争するのか」と思われるようなものです。だから共産党も、戦後日本の出発点になったサンフランシスコ条約の重大な問題点をきびしく指摘しつつも、この条約を破棄するという立場はとっていませんでした。唯一、この条約の千島放棄条項についてのみ破棄すると表明したことがありますが、現在はそれも取り下げています。日韓基本条約についても、それを破棄するとか改正するとか、そういうことは求めてきませんでした(締結直後の時期までは調べていませんが)。なお、廃棄条項がある日米安保条約については、また別の問題です。

 しかも大事なことは、植民地支配に反対してきた実績が誰よりも鮮明な共産党が、そう言うことに重みがあるということです。自民党が同じことをいえば、やはり植民地支配のことは反省していないのだなと思われるでしょうが、共産党にはその心配がありません。宮本さんは、みずから命がけで闘ったわけですから、誰からも後ろ指を指されることはないと自信をもっておられたのでしょう。

 こうして、発表された「提言」は、法的に新しい措置をとるという態度はとりませんでした。まず、あの戦争が侵略戦争であったことを国会決議で示し、国家の責任を明確にするべきだとして、いわば政治的な解決を打ち出しました。慰安婦に対する補償についても、「国際法上、個人の補償請求権の問題は、国家間で解決することがこれまで通例となってきた」として、65年の請求権協定の立場を否定するようなことはしませんでした。そして、そういうやり方が通例ではあっても、国際法の考え方の発展その他をふまえ、例外的に認める場合もあるのではないかとして、慰安婦に対する補償はおこなうべきだと指摘したのでした。(続)

2014年6月25日

 前回の記事のタイトル、はじめにの「上」としましたが、とっても「上中下」の3回では終わらないと判断したので、このようにしました。

 政治的にも経済的にもできないことって何のことか。もう少し、詳しく書きましょう。

 経済的なことは、すごく簡単でした。国内外から出されている補償の求めに全部応えるとすると、すごい金額になることが予想されていましたが、それでいいのかということです。

 何しろ、当時盛り上がっていた補償要求のなかでは、慰安婦のことはごく一部にすぎません。国内的にいえば、原爆被爆者が国家補償を求めて闘っていましたし、空襲の被害者も同様です。シベリア抑留者や治安維持法の犠牲者などもいました。国外では、中国人や韓国人の強制連行、強制労働の問題があり、台湾の元日本兵への補償とか、日本で原爆に被爆し、韓国に戻った方々の問題も存在していました。

 もちろん、被害者の方々の要求を第一に考えれば、それらすべてで満足する補償をということになるのでしょう。しかし、日本が大戦中に犯した罪が大規模だっただけに、要求される補償額も巨大なものでした。そして、それだけのものを補償しようとすれば、国民全体のために社会保障や暮らしを充実させる政府予算を組もうと思っても、それが難しくなるのではないかというのが、宮本さんの指示の核心でした。じつは当時の政府も、個人補償に応じない理由のひとつとして、いったん補償に応じれば他の問題にも波及し、補償規模が数十兆円にもなって国の財政が破綻することをあげていました。これは、補償に応じない口実という要素が大きかったと思いますが、同時に、お金をばらまくことで国民多数の支持を集め、政権を維持してきたという「実績」がなせる技でもあったと思います。予算の少なくない部分を補償に充ててしまえば財源が不足し、政権維持に必要な国民の支持が得られないと踏んだのでしょう。

 結局、発表された共産党の「提言」(「侵略戦争の反省のうえにたち、戦後補償問題のすみやかな解決を」九月六日付)は、以下のような考え方を採用ました。

 国内の補償問題では、被爆者の要求にのみ特別の位置づけを与えました。政府は、一般の被災者とのバランス上、被爆者だけに補償をすることはできないという立場でしたが、「提言」は、核兵器は特別の残虐性をもった兵器であって、一般被災者と同列においてはいけないという立場を表明しました。これは逆の面からとらえると、一般被災者への補償については、被爆者のように重視はしないということでもありました。

 国外からの補償要求については、「あらゆる補償要求にたいして、すべて無制限でこたえよともとめているのでなく、それぞれのケースごとに、その性格、国際法上の問題等を慎重に検討すべきことはいうまでもない」と明確にしました。そして、従軍慰安婦の事例をあげて、「国家による人道的な犯罪にかかわる問題は、すみやかに必要な賠償をすべき」だと主張しました。これは、人道上の問題では補償をするが、経済的な損害等の問題では補償しないという意味合いをもっていました。もちろん、両者を画然と区別することは簡単ではないでしょうが、そういう考え方をしたということです。

 「提言」が公表されたあと、補償問題に取り組んでいたある団体から、「なぜわれわれの補償要求について触れられていないのか」という抗議が寄せられました。「提言」は、ただ基準となる考え方を示しただけであって、個別の案件について「これは補償するがこれはしない」と判断したものではなかったのですが、共産党はすべての要求に応えてくれると思っていた方々には、それなりの衝撃だったのだと思います。(続)