2014年5月2日

 昨日、『民主主義教育21』の第8巻が届いた。「現代政治と立憲主義」というタイトルがついていて、「憲法教育の実践へ」という呼びかけもある。

 私がこれに寄稿したから届けられたのだが、いや、びっくりである。樋口陽一先生、金子勝先生(憲法学者のではなく経済学者の)と並んで、表紙に私の名前が出てる。恥ずかしい。

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 これを見た口の悪い社員がこう言った。「原則的な人と、原則がない人と、原則があるかないか分からない人が出てる」。誰がどれだよ、おい。

 正月に東京まで行って、全国民主主義教育研究会でお話をしたのだ。「集団的自衛権を拒否し、、憲法九条の軍事戦略で平和を構想する」というテーマだった。それに加筆、整理したのが、この本ということになる。

 それなりに受けとめてもらえたとは思うのだが、私が考え込んでしまったのは、この質問が出たときである。「その問題を子どもたちにはどう教えたらいいのでしょうか?」

 そうだろうね。学校の先生だし、崇高な理念をもって教えておられるのだから、軍事力はいっさいダメだとか、自衛隊は絶対に憲法違反の存在だとか、一生懸命教えておられるのだと思う。私の話のようなことを教えていいのか、教えるとしてもどうすればいいのか、悩んでしまったのだろう。

 私も、子どもに学校教育で教えるという角度でものを考えたことがなかった。だから、その質問に考え込まざるをえなかったのだ。

 結局、私が言ったのは、この問題の複雑なところを、複雑なままに教えるしかないだろうということだった。もちろん、崇高な理念のことも教える。だけど同時に、アジアの安全保障環境の現実だとか、国民世論の現状だとか。そのまま読めば自衛隊は憲法違反ということになるだろうが、国民多数はそうは思っていないこととか。

 って、これまではそうは言っても人ごとだったのだが、こんど、うちの会社で、学校図書館向けの憲法の本をつくることになった。そのなかでは、まるまる1巻をって、平和主義を教える。自分でその回答を責任をもってつくらなければならなくなった。よおく考えますね。

 この本、アマゾンで注文もできます。発売は連休明けの表示になっていますけど。他の先生方の寄稿を読むだけでもお得だと思いますので、推薦します。

2014年5月1日

 『集団的自衛権に関する「安保法制懇」報告 50の論点』のプレゼントの件ですが、昨日で締め切りました。「激戦?」を勝ち抜いて当選された10名の方には、住所をお尋ねするメールを差し上げました。いまメールが届いていないと落選ということです。夏には『13歳からの領土問題』のプレゼントを実施しますので、懲りずに応募してください。

 さて、昨日の『超・嫌韓流』のことです。そういうことを考えるにいたった私の原点というものがあります。

 私は、1994年からしばらくの間、共産党中央委員会の政策委員会というところに勤めていました。担当は外交や安全保障です。生まれて初めてそういう分野の仕事をすることになったのですが、着任してみると、その分野の直接の担当は私ひとりでした。まあ、ゆっくり勉強しながら仕事を覚えていこうと思ったのですが、低空飛行する米軍機の墜落事故とか、沖縄の少女暴行事件とか、次から次へと起きる問題で、大変な日々が続くことになります。

 その私が最初に起案を命じられたのが戦後補償問題に関する共産党の見解でした。戦後50年を翌年に控え、原爆被害者への国家補償とか、その3年ほど前に裁判が開始された従軍慰安婦問題をはじめ、戦後補償をどうするかが焦点になっていたのです。

 最終的に、94年9月6日、「侵略戦争の反省のうえにたち、戦後補償問題のすみやかな解決を」という提言が発表されました。最初の仕事ですから、思い出深いです。

 当時、共産党の議長は宮本顕治さんです。これを起案するにあたって、宮本さんからふたつの指示がありました。もちろん、私が直接指示を受けたのではなく、政策委員長(聽濤さんといいました)からの間接的なものです。

 ひとつは、補償する基準、補償しない基準を明確にせよというものです。当時、いろいろな補償要求が出されていて、日本の犯した誤りが大きいだけに、すべての要求に応えようとすると、すごい金額になることが予想されていました。宮本さんは、共産党が政権をとったときのことを考えれば、これらすべてに応えようとするとあまりにも膨大な予算が必要となり、国民全体の暮らしと福祉を圧迫しかねないので、バランスをとった考え方が必要だというのでした。

 もうひとつは、これは慰安婦問題にかかわることですが、国家間条約が基本だという線を外さないようにというものでした。いまでも議論されることですが、韓国とのこの種の問題は、1965年の日韓条約その他で解決済みであると明記されています。条約で解決したと明記されているのに、いや解決していないというのなら、条約を結ぶ意味がないということになりかねません。市民団体がそういう要求をするのは当然としても、政権をとったら条約に責任をもつことになる共産党が、それではいけないというものでした。

 発表された提言は、そういう趣旨をふまえたものです。大まかにいえば、補償問題では、人道的な犯罪の被害は補償するが、経済的な被害は補償しないという基準を立てました。従軍慰安婦問題では、国家間の条約で決着するのが原則としつつ、慰安婦問題をその例外とする考え方はどうしたら可能かという点を探ったものでした。

 市民運動には、それぞれ明確な目標があって、それを100%追及します。当然のことです。しかし、それらすべてを100%実現することが、国民全体の利益の見地から見ると難しい場合があります。あるいは、国家間外交の原則からずれる場合もあります。

 市民運動はそれでいいけれど、政権を担うことを展望し、国民全体のことを考える政党は、それではいけない。これが宮本さんの教えだったわけです。

 私など、着任したばかりで張り切っていて、市民運動の要求に応えるのが政党だと思い込んでいました。実際、要求のすべてを支持しないと、つながりのある市民団体から批判されることもあるわけですから、何でも支持するのが楽だということになりがちなんです。だけど、それではダメだということを突きつけられて、かなり衝撃を受けたんです。

 でも、考えてみると、出版の仕事も似ていますよね。市民運動というか、ある種の世界のなかで通用する本だってつくります。しかし、売れる本をつくろうとすれば、他の世界にも通用する論理の本でないと、難しいですから。

 だから、20年前の教えは、いまでも大切にしているんです。私の考え方の原点のひとつですが、ご理解いただけましたか。

2014年4月30日

 いま、集団的自衛権の本を書いていて、5月末発行。7月末には『13歳からの領土問題』が出来上がる。

 それに続いて、今年中に書き上げたい本があるのだが、それがこの記事のタイトルのような感じの本だ。サブタイトルをつけるとすると、「原理主義は左も右もダメ」という感じだろうか。 

 「超」で何をあらわしたいのか。私がこれを使う場合は、それ以下に続く言葉を乗り越えたいという気持ちと、それへのある種の共感と、両方がある。

 「超左翼」も同じだ。左翼への共感とともに、このままの左翼ではダメだという気持ちがある。

 ではなぜ、『超・嫌韓流』なのか。『嫌韓流』を乗り越えるというなら分かるが、まさか『嫌韓流』に共感する部分もあるというのか。

 『嫌韓流』は、本屋に並んだときに買った。「どう反論したらいいのか? 書いてあることが事実だとしたら、弁解できない」と、いろんな人から問い合わせがあったからだ。いま、本屋に入ると、第二の『嫌韓』ブームの様相を呈しているよね。何とかしなければという気持ちが強い。

 私はもちろん、『嫌韓流』に代表されるこの種の本の内容には共感しない。だけれども、これに惹きつけられる若者の気持ちは理解できるような気がする。

 多くの国民は、日本がやった戦争とか植民地支配とか、あるいは慰安婦問題でも、程度はさまざまであっても、申し訳ないなという気持ちを持っていたと思う。世論調査を見ても、戦後直後はあの戦争への肯定的イメージが優っていたが、だんだん否定的イメージが増えてきて、優勢になっていった。

 それを背景にして、過去を反省しない日本政府への批判が次第に強まっていく。「侵略的事実」や「侵略行為」があったことを自民党の首相が認め、自民党から変わった細川さんが「侵略戦争」だと認め、それらが自社さ政権の「村山談話」になっていく。慰安婦問題では、その直前に「河野談話」が発表される。

 「村山談話」が自社さ政権で出されたことに象徴されるのだが、この談話の水準は、国民の平均的な気持ちをあらわしていたと思う。「河野談話」とその水準でつくられたアジア女性基金も同じだ。

 ところが、左翼のなかでも理想主義的な立場の人は、アジア女性基金を否定した。日本の総理大臣が慰安婦に手紙を出し、「おわびの気持ち」を伝え、つぐない金を渡したのだが、それをまやかしだと批判した。

 韓国のなかでも、当初、政府はこれを受け容れようとした。しかし、左翼市民運動の反発が広がるなかで、政府も否定する側に回る。

 一方、日本の側では、原理主義的な右翼が、これらの談話を否定する。それに政治家がのっかかるものだから、日本や韓国の市民運動は、そしてそれをバックにした韓国政府は、「結局、日本政府は誤りを認めていない。謝罪も補償もしていない」と反発を強める。

 だけど、国民の多くは、これらの談話で日本が謝罪したことを知っている。慰安婦につぐないのためのお金を渡したことも知っている。それなのに「謝罪も補償もしていない」と批判されるものだから、「いったい何回謝ったらいいのか。いつまで謝罪を続けるのか」という気持ちが強まってくるのだ。

 だから、『嫌韓流』を支える読者の多くは、植民地支配や慰安婦問題で、もともとは韓国に謝罪すべきだと考えていた層だと思う。だから、これだけの広がりがあるのだ。

 そういう人々、若者に届く言葉で本を書きたい。可能だろうか。

 植民地支配の問題でいえば、先輩格である欧米諸国はどこも謝罪していない。村山談話で日本が謝罪したことは、原理主義的な立場からみれば不十分だろうが、国際的な政治の水準からみれば最高なのだ。

 侵略戦争の問題も、ことは簡単ではない。あれだけの規模でベトナムを侵略したアメリカは、一度も謝罪していない。ベトナムも謝罪を求めていない。

 学問や市民運動の原理というものと、政治や外交の現実というものと、どこかで折り合わないとダメだと思うのだ。原理をそのまま政治に求めてはいけない。もちろん、奴隷制がいまでは許されないように、何世紀かあとには原理が受け容れられることにはなるわけだけれど。

 そういう本、どこか興味のある出版社、ありませんか。あったら声をかけてくださいね。

2014年4月28日

 先週末から東京に来ている。本日までで終わるけど。

 メインの仕事は教育科学研究会のみなさんとの話し合い。毎月の雑誌「教育」を出していて、いまはそこの『講座』5巻を出し終え、別巻を残すだけになっているのだが、いろいろ乗り越えるべき問題も山積している。

 それ以外にも、夏に出したい本について、著者と打合せ。非常に大きな問題提起の本になるので、間違いのないよう慎重に準備しなければならない。

 そんなことをやりながら、九条の会で講演したり、マスコミから取材を受けたりしている。まだ発足していない「自衛隊を活かす会」への期待の高まりを感じる日々だ。

 昨日も鹿児島の国政選挙の補選とか、沖縄市長選挙とか、安倍さんが勝利した。追い詰められているとか、国民との矛盾がかつてなく広がっているとかいっても、その安倍さんを倒そうとする主体が形成されないと、言葉だけの展望になる。

 「自衛隊を活かす会」が憲法九条の下での説得力ある防衛政策を示すことができれば、集団的自衛権と国防軍へと走る安倍路線への対抗軸となる。その内容は、リベラル保守からリアリスト左翼までを結集できるはずである。実際、党派をこえて、「自衛隊を活かす会」に関心が寄せられはじめているのだ。

 安倍さんに対抗する主体を形成するうえで、非常に難しいのは防衛政策だと思う。TPPに反対するとかブラック企業をなくすだとか、そういう課題は一致しやすいが(課題ではなく経済構造をどうするかまで議論すると不一致が表面化すると思う)、保守から革新まで一致できる防衛政策って、これまで誰も関心を払ってこなかった。

 難しい問題に入り込まないで、国防軍と集団的自衛権に反対という課題で一致するというやり方もあるだろう。だけど、それはうまくいかなと思う。安倍さんは、そういう共闘に対して、「一致する防衛政策がないじゃないか。自衛隊違憲と自衛隊合憲の政党が一緒になっても国民は不安なだけ」と攻撃してくるだろう。だから、憲法九条下の自衛隊活用策、防衛政策はどうしても必要になる。

 これができれば、「一致しているのだから、そういう政治勢力で協力しあうべきだ」という声も高まると思う。それが選挙での協力に結びつく可能性もある。

 もちろん、そうならないかもしれない。保守の側の問題でいえば、「自衛隊違憲政党の排除」という論理も働く。革新の側の問題でいえば、「安保廃棄の基本政策で一致しない政党との協力はあり得ない」という根強い論理がある。

 そういう論理が優先されれば、何も変わらない。だけどそれでは、安倍路線が続くことになるので、憲法九条が変わり、集団的自衛権が行使され、日本が再び戦争し、大きな被害を生みだすことになるだろう。

 その時になって、「戦争になったけれども、一貫して正しい路線を歩んだ」ということが誇りになるのか。協力しあわなかったということが悔恨となるのか。よくよく考えないといけないよね。

2014年4月25日

 アメリカは、尖閣や集団的自衛権で日本の望む通りにすれば、TPP問題も押し切れると思っていたはずである。ところがそうはならなかった。ここにも日米関係が転換しようとしている兆しがある。

 戦後、いろんな経済交渉が行われてきたが、すごく日本にとって不利な問題でも、最後はアメリカが強圧的に日本をねじふせてきた。私は長い間、いくら従属的な立場にあるとはいえ、なぜこんな大事な国益が守れないのか、不思議に思ってきた。

 安保条約の第2条に経済条項があって、「国際経済政策におけるくい違いを除く」ということになっており、それで経済も従属するのだという説明が、平和運動の世界ではされることがある。だけど、その同じ条項はNATO条約にも存在するのであって、ヨーロッパ諸国が日本のようには経済問題で譲ることのない現実をみれば、説得力ある説明とはいえない。

 その疑問を解き明かしてくれたのが、日米通商交渉に長く携わったことのある坂本吉弘さん(通産省審議官)である。退官後、その舞台裏を本にしたのだ(『目を世界に心を祖国に』)。そこにこういう一節がある。

 「戦後に行われた日米間の経済交渉は、その大小を問わず、交渉の最終局面における政治判断において、日米の双方が冷戦と日米同盟関係の存在を考慮に入れずに行われたことはまずありません」
 「日米通商協議の難しさは、軍事同盟から生ずる政治的プレッシャーに常にさらされることにあります。その時々の政治案件と経済案件が米国のホワイトハウスと日本の官邸においてどのように絡み合い、どのように優先度がつけられるか、その軽重を判断しておかねばなりません。」

 そうなのだ。要するに、経済交渉なのに最後は日米安保の問題になる。つまり、アメリカから、「オレの言うことを聞かないと、もう日本を守ってやらないぞ」という脅しがきて、それで経済交渉担当者の頭越しに官邸が決着に回るという構図だったのだ。

 今回、そういう構図にならなかった。それも、大統領が日本にやってきているのに、恥をかかせた形になった。

 そこにはいろいろな要因があるだろうが、根底にあるのは、「もう日本を守ってやらないぞ」という構図が薄れたからだと思う。尖閣や集団的自衛権で日本の望む通りになったと政府は騒ぐが、実は、尖閣で何かがあったからといって、アメリカは参戦するつもりはない。だから経済問題で強気に出ることができない。日本政府の側だって、アメリカが日本の側にたって参戦してくれるとは、本音では思っていない。だから、経済問題で強気になれる。

 そうなのだ。日米安保が最優先になってきた日米関係が、いま変わろうとしているように思う。そういう時代だから、やはり、日本独自の防衛戦略というものが、ますます大事になっていると思う。毎日書いていることだけれど、「自衛隊を活かす会」の出番なのだ。