2013年8月27日

 シリアで化学兵器が使われ、何百人もの死者が出ている問題で、国連の調査団が入ったが、最初から銃撃されたりして前途多難のようだ。欧米の世論は政府軍による使用だということで沸騰しているようだが、シリア政府は反政府勢力の手によるものだと反論していて、調査団の真価が問われていると思う。

 先日東京に行った際、この地域の問題に日本でいちばん詳しい方の話を聞いて、問題のむずかしさを知った。これは容易ではないぞ。

 問題の発端は、9.11とそれをきっかけにしたアメリカの戦争である。NATOが集団的自衛権を発動して支援した戦争である。

 あれから12年も経つのに、アフガン問題はどんどん泥沼化している。アメリカは、何の解決もみないまま撤退することを余儀なくされるだろう。その結果、内戦が拡大し、タリバンが政権に復帰することは確実である。

 要するに、この戦争は、多大の犠牲をもたらしただけで、結果はもとに戻るのである。いった何のための戦争だったのか。いや、もとに戻るのではない。イスラムと西側の間に解決しようのない亀裂をもたらした点で、歴史を何十年もおくらせた。惨憺たる結末だ。

 しかも、日本では報道されていないが、アフガニスタンのタリバンは国内重視でまだまともであるが、この間、米軍の拠点となったパキスタンで国民世論が反米化し、それを背景にタリバンが先鋭化しているらしい。つい一年前まで諜報機関の長官をしていたような人物までが、いまや穏健派として付け狙われ、ドバイに亡命したのだとか。タリバンはアルカイダと一体になっていろいろ策動し、カシミール問題もさらに深刻化しているという。

 そして、そのパキスタン・タリバンが、シリアにも手を出しているのだということだ。だから、反政府勢力だから化学兵器を使うことはないだろうというのは、希望的観測に過ぎなくなっているというわけである。今回の化学兵器使用問題は、第二次大戦で連合国の亀裂を生んだカティンの森事件のように、アサド独裁政権に対する国際的な連携を崩すものになることだってあり得るだろう。

 ところで、冷戦後はじめて国連が集団的自衛権をオーソライズしたのは、湾岸戦争であった。しかしそのとき、最後は国連安保理決議が採択され、多国籍軍が組織されたため、集団的自衛権は発動されず、いろいろ問題はあるが国連がオーソライズする戦争になった。そういう戦争だったので、イスラム諸国の要求と無縁に遂行することはできず、多国籍軍はイラク軍をクウェートから追いだした時点で戦争を終了させた。その結果、イスラムと西側の亀裂は深まらなかった。

 ところが、対テロ戦争では、同じように国連安保理が個別的・集団的自衛権をオーソライズしたが、湾岸戦争と異なり、法による裁きを追及した安保理の努力を踏みにじる形で、本当に個別的・集団的自衛権の戦争になってしまった。国連安保理は関与しなかったので、イスラム諸国の同意を得る努力もされなかった。

 その結果が、現在のアフガン、パキスタン、シリアである。そういう結果を生みだしたことが目の前の事態で分かっているのに、安倍さんは、日本までが集団的自衛権を行使できるようにするため、着々と準備を進めているのである。この程度のことを安倍さんに理解できるように話せる人って、政府・与党のなかには誰もいないのか。

 さて本日夕方6時30分より、名古屋駅前のウィンク愛知(906号室)で、『憲法九条の軍事戦略』についてお話しします。主催者(平和委員会、安保破棄実行委員会)の求めがあるので、日米安保条約との関連とか、政府構想との関連とか、いくつか突っ込んでお話しすることになりそうです。関心のある方はぞうぞ。

2013年8月26日

 週末の東京出張は意義深かったなあ。というか、東京に行くことが出張になるという、その変化をまず実感。短い間に、いろいろな用件を詰め込むため、事前にいろいろなメールやら約束やら、しなければならないし。それがちゃんとやれるかどうかで、出張の正否は決まるんですよね。

 今回、まずは「安倍新政権の論点」シリーズの具体化です。衆参で多数を占めたわけで、本格的な対決が求められていますからね。他にも準備しているものはありますが、東京でご相談したのは、雇用にかかわる規制改革に関するもの。限定正社員とかホワイトカラーエグゼンプションとか言われているものですね。

 この分野の本は、いまあげたものだけでも分かるとおり、言葉が一般的ではない。それをどう日常用語で本にして、ふつうの感覚で分かる論理にしあげるのかが、最大の課題です。もちろん、新しい手法で攻めてくるわけですから、その分析と対抗する論理の構築も欠かせませんけどね。それにふさわしい著者にお願いしました。

 イラストもたっぷり使います。イラストを見るだけでも理解できて、本文を読めば深く理解できるという、そんな感じです。乞うご期待。

 もうひとつの仕事は、タイトルにあるものです。そのキーマンとなるお二人にお会いしてきました。全面的にご協力いただけるということです。

 実際に人の目にふれるようなかたちで出てくるのは、来年だと思います。しっかりとした準備が必要ですし、この秋から冬は、集団的自衛権の方で騒ぎになるでしょうからね。

 でも、予定通り、うまくいけば制服組(もちろん元職ですが)にも参加してもらえそう。それも、○○方面総監というクラスの方です。もっとすごい人の名前も飛び出したんですが、それは来年のお楽しみということで。

 開催するシンポジウムは、一般には公開せず、マスコミと自衛官(元職の方も)と政党の政策審議会メンバー限定になるかな。みっちりと議論したいので。

 前にも書きましたけど、お手伝いしたいという方は、メールください。東京開催になるので、その周辺の方だとうれしいです。

2013年8月23日

 『終わらざる夏』の最後は、占守島に残された女子挺身隊員400名をどう助けるかということになってくる。ソ連軍が来るなら、何とか北海道まで逃がさなければならない、辱めを受けることになるのだからということだ。

 そして、日本軍が戦う理由のひとつも、彼女らが北海道まで到着するまでの間の時間稼ぎである。だから、着いたという知らせを聞いて、みんな歓声を上げるわけだ。美談として胸を打つ仕掛けになっている。

 同時に、それが美談にとどまっていないところに、この本の大事な特徴があると思う。当時の日本政治の大問題がセットで問われるのだ。

 女子挺身隊が占守島に来ているのは政府の命令によってである。彼女らを逃がすに当たって、それと同様の方法でやっては同じ過ちをくり返すということで、彼女たちに考えさせ、決めさせるという手法がとられるわけだ。

 その伏線として、疎開先から逃げ出す小学生も描かれる。自分の頭で考え、親に会うという決断をして、逃げ出す。そういう生徒を生みだした教師と教育のあり方の大事さというものを、全体を通じて考えさせる仕掛けになっている。

 これは、本書の随所で見られるように、戦争それ自体への批判と一体のものである。戦争も、国民の意見を聞かずに政府が勝手に開始し、国民に命令して遂行してきた。戦争を起こしたのは、そういう日本の政治のありようだという、著者の強烈な批判が伝わってくるのである。

 そういう点で、本書は、戦争の一部を描いているようでいて、実際は、あの戦争の本質、性格を非常に性格に言い当てるものとなっているわけだ。個人の心の動きとヒダをたんねんに描き、非常に個人的なものを提示しつつ、そのことを通じて普遍的なものへと接近しているような気がする。

 私がこの本を読んだのは、特別な理由がある。近くつくりたい「憲法九条下の自衛隊活用を考える会」には、象徴的な人が必要だと思ているからだ。

 そういう会だから、違法な侵略に際しては反撃するということが明確な人じゃないと困る。この本のなかでは、軍隊を憎む人が登場しているが、それに対して、軍隊が悪いのではなく戦争を起こす政治が悪いのだという言い方で説得する場面が出てきたりする。それもこの会の性格にふさわしい。

 同時に、この本の大半は、戦争の性格という問題をこえて、戦争そのものの悲惨さを訴えるものだから、多数の人びとの気持ちと合致するかもしれない。浅田さんは陸上自衛隊出身だし、やはりこの人しかいないかも。お願いしてみようかなあ。

2013年8月22日

 ある戦争を小説で取り上げる際、その戦争の性格をどう描くかというのは、そう簡単なことではない。いや、書くだけなら簡単かもしれないが、それが芸術作品として人の心を揺さぶるまでに仕上げるのは難しいと思う。

 この作品も、日本の戦争を侵略だという言葉で表現しているわけでもないし、そのような自覚をもった人びとが登場しているわけでもない。実際、共産党が弾圧され、壊滅状態になってから10年以上もたっている終戦直前のこの時期に、しかも戦争の現場を描いているのに、そういう人物を登場させたりしたら、それこそリアリティのない小説になってしまうだろう。

 それに、侵略の側に立っているか、その侵略を受けて防衛の立場に立っているかで、兵士や家族の心情を完璧に書き分けられるのか、そういう手法が正しいのかも、難しい。防衛の立場なら家族は喜んで夫を送り出せるが、侵略の立場なら反対するという簡単な構図は成立しないだろう。残された家族が生活その他で苦しむのも、共通の要素がある。

 だから、戦争の性格を書き分けなくても、一般的な戦争小説が反戦意識を高めるという場合がある。戦争下で暮らす人びとをリアルに描けばそうなるわけだ。『終わらざる夏』もそういう要素がある。というか、浅田次郎は、戦火の下にあるいろいろな人びとを登場させ、その心情を描きだすことには特別の才能があると思う。

 だけど、この小説のすごいところは、別の手法でこの問題に挑戦していることだ。侵略と非侵略を描き分けていることだ。

 ひとつはソ連の兵士の描写である。スターリンの悪行を心底から憎んでいるコサック出身の兵士が、対ドイツの戦争ではそれでも崇高な気持ちで戦えたが、戦争が終了し、祖国に帰れると思ったのに、日本の領土である千島攻撃に動員される。こんな道理のない戦争には参加したくないという強い思いが描かれることによって、戦争にも性格の違いがあるのだということが伝わってくる。

 それは日本側からみても同じである。中国戦線で多大な功績をおさめ、天皇陛下から勲章をもらった一兵士が、自分の勲章がどんなに意味のないものであるかを語る。その一方で、占守島攻防戦にだけは、自分の全生涯をかけて戦うべき戦争だという位置づけを与え、死んでいくわけである。

 圧倒的な部分は戦争それ自体の生みだす悲惨を描き、物語の中核部分でだけ、そうやって戦争の性格を区別して描きだしている。そこに、リアリティというものと歴史観というものが融合しているように感じる。(続)

2013年8月21日

 今年は目立って多かったですよね。映画だけでも、「少年H」とか「風立ちぬ」とか。話題になっていたので、私もしばらくぶりに観に行きました。戦後68年もたつというのに盛況だというのは、国民のなかの平和への意識が少しずつ自覚的になっていることの反映なのだと思います。安倍さんも大変ですね。

 さて、作品の評価がいろいろ話題になっているけれど、私にとっては、観た方の反戦意識、平和への意識が少しでも高まるなら、それはいい作品です。上記の映画2作品も、そういうものであると思います。

 ただ、小説も含め、この夏のベストは何かというと、映画ではありませんでした。浅田次郎の『終わらざる夏』が良かった。理由はいろいろあります。

 まずテーマ。占守(しゅむしゅ)島の攻防をめぐる最後の戦いをクライマックスに、それに向かう過程を描いたものです。

 占守って、ワープロのかな漢字変換では出てきませんね。そういう場所になっているんだなあ。千島列島の最北端、カムチャッカ半島の目と鼻の先です。第二次大戦までは日本人が暮らし、営業していた場所です。

 これをテーマにすること自体が難しい。日本が戦った太平洋戦争の中では「異質」なものだからです。過去の国会での議論を思い出します。

 昔、国会で、日本の戦争は侵略戦争だったかどうかが、ずいぶん議論されました。細川さんが総理大臣になるまでは、侵略戦争だと答弁する首相はいなかったわけです。羽田さんが「侵略行為はあった」と認めたりしましたけど。

 そのなかでも記憶に残るのは橋本龍太郎さん。日本の戦争といっても、いろいろな種類があるではないか、対中国戦争は侵略だと認めるよ、だが対米戦争はどうなのか、とりわけソ連との戦争はどうだと反論してきました。日ソ中立条約をやぶり、ソ連の側から戦争をしかけてきたのだから、侵略したのはソ連の方だと答弁したわけです。

 あの戦争のなかから、対ソ戦争だけをとりだせば、それはまぎれもない事実です。だから、そういう戦争を主題にすれば、当然のこととして、ソ連の「非道」が強調されます。日本の侵略は主題にはならない。

 それが分かっていて、これを主題にしたことに、浅田次郎の決意のようなものを感じました。主題がそうであっても立派な反戦小説にするのだぞというような。

 大戦終盤のソ連の参戦は、どういう意味でも非道なものでした。終戦直前の満州への侵攻もそうですが、千島への攻撃は、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終わってから1週間ほどあとになって開始されましたので、どうやっても言い訳ができない。

 たとえ日本がおこなった戦争全体の性格が侵略であっても、個々の部分について相手側に違法性があれば、当然のこととしてそれを糾弾しなければなりません。だから原爆投下とか東京大空襲とかを、左翼陣営もずっと批判しているわけです。

 個々の問題であっても違法は違法だと位置づけ、批判することは、戦争全体の違法性をあいまいにすることはありません。かえって、違法性批判の道理をつよめると思います。

 ところが、千島占領の非道というものは、領土問題とかかわって理論的には明らかにされましたが、小説のような形で出ることはなかった。それに挑戦したということが、まず大事だと思います。(続)