2013年7月30日
政府・自民党のなかで、いろいろな議論が出てきていて、それをどう考えるかが求められている。いや、政府・自民党がどうあろうと、現実に中国が海と空の両方から軍事的に挑発しているわけだから、ちゃんとした回答が必要な問題ではある。
この問題では、軍事的に対抗するのではなく、外交で対処せよという考え方がある。たいへん大事な考え方だと思う。
ただ、その外交が、そう簡単ではなさそうだと、多くの人は思っている。外交交渉の場で尖閣をめぐる中国の主張には理がないことを解き明かしても、中国が納得するとは思えないし、いっそうかたくなになるだけだろう。一方、単純にこの海域を平和と共同の海にと言っても、通用しないことが多い。少し前、台湾との間で尖閣周辺を共同漁業水域にする話が出たが、沖縄の漁民が猛反対していたことを思い出す。当事者にとっては、平和より実益、という感覚になるのは自然かもしれない。私自身の回答は『これならわかる日本の領土紛争』とか『憲法九条の軍事戦略』のなかで書いたつもりなので、ここでは書かない。
ここで書きたいのは、その先のことである。いま、自民党が持ちだしているのは、そうやって外交で対処しようとしても、それを押し切って中国が尖閣を軍事占領しようとする事態なのである。こういう想定の場合、ふつうの人が思い浮かべるのは、尖閣諸島を防衛する海上保安庁などが中国軍隊から集中砲火されているというようなものだ。
そういうことが頭のなかにあるのに、「とにかく外交で」と言っても、「それは中国に言ってくれ」ということにしかならない。「尖閣のような無人島のために軍事力を使うべきでない。それぐらいなら放棄せよ」という方もいるが、それは国民的な規模では通じないだろう。
だが、まず問題にしたいのは、政府・自民党の議論にはズレがあることである。いわゆる「自衛隊にも海兵隊的な機能を」という議論である。少し前、海外で離島防衛訓練をやっていたが、それも同じである。
海兵隊的機能をと言った場合、想定されているのは、上陸作戦である。水陸両用のコンパクトな機能を使い、自力で上陸するのが、海兵隊の主要な役割である。
しかし、これだけを言っても分かると思うが、ここで議論されている前提は、すでに尖閣が奪われてしまった後のことである。奪われた尖閣を取り戻すために、敵の攻撃を跳ね返しながら上陸作戦を敢行することが不可欠なので、海兵隊的な機能が必要だと言っているわけだ。
ということで、この議論は、尖閣が奪われようとするのを防ぐためにどういう機能が必要かというものとは無縁である。政府・自民党の議論は、尖閣がいったん奪われるのは仕方がない、という考え方が前提にあるわけだ。
実際、中国の大軍が押し寄せてきたとして、海兵隊には、中国の戦闘機と渡り合えるような装備はない。制海権を奪い合う戦争も、海兵隊にはできない。もちろん、ないよりはあるほうが役に立つかもしれないが、尖閣防衛のことを考えると、その程度のことなのである。
だから、海兵隊的な機能がほしいのは、じつは尖閣防衛のためではないのではないか、他の場所に上陸作戦をするためではないのか、という議論が出てくる。当然のことであろう。(続)
2013年7月29日
前回の記事で、中国の平和市民団体が国際会議に出てくるなら、日本に抗議するだけでなく、自国の軍拡路線や尖閣をめぐる挑発に抗議をしてほしいと書いた。だけど、それは、現状ではかなり絶望的なことである。
だって、いま国際的な市民運動の会議に出てくる中国の代表って、市民代表というより、政府代表のようなものだからね。ふつうなら、非政府組織(Non-Govermental Organization=NGO)が国際会議に出てくるのだが、中国の場合、同じく非政府組織をなのっていても、ゴンゴ(GONGO=Govermental NGO=政府系非政府組織)だと蔑称される所以である。
社会主義なのだから、人民と政府の立場は一致していて、矛盾はないのだというのが、中国政府の立場なのだろう。だけど、中国市民の立場はそうではないだろうし(詳しく書かないが、レーニンだってそうではなかった)、ましてや中国の平和運動と関係をもつ日本の平和運動が、そういう中国政府と同じ立場に立ってはならないと思う。たとえ困難はあっても、自国の軍拡路線とか、尖閣問題での軍事挑発を批判する運動に着目し、交流を深めることをめざすべきだろう。
そういえば、人権問題なら、政府の人権侵害と闘う個人は中国に存在するわけだよね。だから、そういう人びとと連絡をつけるのは、中国政府による妨害はあるけれども、不可能なことではない。
だけど、平和問題って、どうなんだろう。自国の軍拡路線に反対する平和運動とか個人って、中国には存在するのだろうか。聞いたことがないなあ。
きっと、人権問題って、まさに自分の人権に直接にかかわることだから、命をかけてでも政府に対峙しなければならないという要素があるのだろう。だけど、平和問題になると、軍事的にも弱小な時期に、まず欧州の列強に主権を侵害され、さらに日本に侵略されたということで、自国の軍備拡張を問題にしないという世論が強固なのかもしれないね。
だけど、だからこそ、中国のなかにそういう世論や運動が生まれることを期待したい。日本と中国の双方で、日本と中国の双方の軍拡を批判する平和市民運動が広がり、その双方の連帯が生まれたとき、両国の軍事的な緊張を打開する道が開けてくるのかもしれない。前途遼遠なのだろうか、それとも近くにまで来ているのだろうか。
2013年7月26日
6年ほど前だったと思うが、「九条世界会議」というのが千葉の幕張で開催された。ノーベル平和賞受賞者などをお呼びして、九条が世界から評価されていることを明らかにする取り組みであった。ちょうど第1次安倍政権ができて、危機感が高まったときだったので、とてもタイムリーな取り組みだったと思う。
私も当時、九条が世界的にどういう意味をもつかに関心があった。いわゆる「一国平和主義」批判が幅を利かせていた頃なので、九条が日本だけのものでなく、国際的に普遍的なものだということを示したかったのだ。
だから、まだ出版社につとめていなかった8年前、「九条が世界を変える」という本を出させてもらった。その直後にこの出版社に再就職して、九条世界会議にあわせて、「5大陸20人が語り尽くす憲法9条」という本をつくったのである。
この10月に、「九条世界会議」が大阪で開かれる。いうまでもなく、6年前の会議の継続である。出版社の一員として、その会議にはブースを出して、本を売りにいくつもりである。
しかし、6年前とは、憲法九条をめぐる情勢は様変わりしている。衆参で改憲勢力がこれほどの議席を獲得し、国民投票が現実のものとなるということは、当時から考えないではなかったが、いよいよかという感じだ。そういう、まさに日本国内の問題が焦点になっている局面で、大事なことの第一番目に九条の世界的な評価を高めることが来るかというと、そういうふうには思えないが、大事な取り組みであることは変わらない。
でも、この会議が大事なことの第一番目に来る場合が、ひとつだけあると思う。それは、尖閣問題をふくめ、日中の軍事的な対立の解決策を打開する道を示せたときだろう。
世界会議なのだから、もしかしたら中国からも代表がくるかもしれない。その場合、中国代表は、当然のこととして、日本が九条を守ってほしいという要望を出すだろうと思う。日本軍国主義に侵略された過去のある国として、当然のことだ。
しかし、もしそれにとどまるなら、否定的な役割を果たすことになるかもしれない。だって、過去のことはつねに自省が必要なことであるが、いま焦点になっているのは、現在の日中関係だからである。
中国がこれだけの軍拡を進めて、尖閣をめぐって軍事的な挑発をつよめているときなのだから、中国の平和市民団体に求められるのは、日本の右傾化の動きを批判するのと同様、自国の動きについても抗議し、異議申し立てをすることだろう。そういうときに、ただただ日本の動きだけを批判するというものになるなら、日本の世論から乖離したものとならざるをえないし、問題の平和的、外交的な解決につながるものにもならない。(続)
2013年7月25日
というタイトルで、先日(23日)、読売新聞の報道があった。とても心温まる記事だった。
「福島県訪問中の天皇、皇后両陛下は23日、前日の大雨により県内で避難者が出たことなどの被害に配慮して日程を取りやめ、この日訪問予定だった同県桑折町の桃農家の人たちと福島市内のホテルで懇談、収穫された桃を食べられた。
同町の農家では、原発事故による風評被害に苦しみ、冬の間、桃の木1本1本を除染するなど、出荷に備えてきた。両陛下は、「今年はまたおいしいですね」「今後もおいしい桃を作るためがんばってください」などと話されたという。」
福島の農家の方は本当に努力している。この記事では1本ずつ除染するという話だが、それ以外にも、放射線が土のどの部分にたまりやすいので、どういうふうに根を張るものだったらつくれるのだとかという工夫もあるそうだ。しかも、つくった農作物は検査され、安全なものが出荷される。
ところが、そうやって農家の方々が努力して出荷しているのに、農業をめぐっては、いろいろな種類の報道があふれている。危険なものを出荷しているかのように言われたりする。ちょっと私には活字にできないようなことを、平気で発言する参議院選挙の候補者なんかもいた。農家の子どもたちは、自分の親が人を病気にするような危険なものを出荷しているみたいに言われて、どんな気持ちで成長していくのだろうか。
そういうなかでの今回の記事だった。「今年はまたおいしいですね」ということは、昨年も味わったということに違いない。そうやって激励された農家の人びとは、どんなに励まされたことだろう。自分は人からおいしいと言われるものをつくっているという誇りは、農業をやっていく上で不可欠だろう。子どもにも、自分の親はそういうものをつくっているのだということを、是非、伝えていくようにしたい。
戦後の象徴天皇制が国民に支持され、定着してきたことの秘訣が、ここからは見えてくると思う。苦しみのなかで努力している国民に寄り添っているということが分かるように、いろいろな行動が決まり、報道がされていくのだろう。
これが象徴ではなく元首ということになるとどうなるのだろうか。自民党の改憲案では、引き続き「国政に関する権能を有しない」とされ、国事行為も限定されているようだが、現憲法が「国事行為のみ」を行うとされているのを、改憲案は「のみ」をとっているので、こんご、拡大する余地が残っているように思える。
佐藤優さんなんかが心配しているのは、集団的自衛権とかを行使可能になってきて、戦争することが増えてきた場合、宣戦布告はだれの名前でするのかということだ。戦後ずっと心配する必要のなかったことが、九条改訂で現実のものとなっていく。佐藤さんは、天皇の名前で宣戦布告することになれば、天皇制そのものが崩壊することを心配しているわけである。
そういう角度での護憲論なんてのも、必要になってくるかもしれない。ここしばらくの間、憲法問題でどんな本を出すべきか、真剣に検討しなければならない。
2013年7月24日
選挙が終わって、安倍首相、やりたいことに手をつけはじめましたね。来月にも「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を開催し、秋には集団的自衛権の行使が合憲だとする「新報告書」を提出させるそうです。ということで、それにあわせて『集団的自衛権の深層』(仮)という本を出します。先日、その本の「おわりに」を書きましたので、以下、ご紹介しておきます。
この「おわりに」を執筆している時点で、安倍首相の「懇談会」による「新報告書」が最終的にどういうものになるか、確定してはいない。以前の「報告書」作成時とメンバーが同じで、「出来レース」と呼ばれているほどのものなので、ほとんど同内容のものになると思われるが、報道によれば、一点だけ質的に新しい問題が議論になるようだ。それは、サイバー攻撃に対して集団的自衛権を発動するかどうかというものである。
ネット上の操作を通じて相手国に大きな打撃をあたえるサイバー攻撃の問題は、マスコミでも大きな話題になっている。アメリカは、2011年5月に発表した「サーバー空間のための国際戦略」のなかで、サイバー攻撃に対する「自衛権」を確認した。そして、サイバー空間における安全は単一の国家によっては達成できないとして、集団的自衛の手段を進展させることまで明言したのである。
しかし、本書を読んでいただいた読者にとっては、これが集団的自衛権の行使対象としてふさわしいかどうかは、容易に判断していただけるだろう。自衛権の三要件から考えればいいのである。
サイバー攻撃を「侵略」や「武力攻撃」とみなせるかどうかは難しい。それによって生じる被害の規模は、コンピューターシステムに外形的な攻撃がくわえられる場合よりも、もっと甚大なものとなる可能性はある。けれども、それが相手国の先制的な攻撃かどうかは、判断することが不可能だろう。エドワード・スノーデン容疑者の暴露にみられるように、アメリカ政府も中国に対するハッキングを日常茶飯事にやっているのであり、中国が「アメリカの攻撃に対する自衛措置だ」と言い張れば、世界の世論の判定は「五十歩百歩」というものでしかないと思われる。
一番問題になるのは第三要件、均衡性の原則である。集団的自衛権の行使を検討するというからには、想定されているのは武力の行使である。おそらく、サイバー攻撃の拠点とみられる相手国の施設などを爆撃するなどの措置が検討されているのだろうが、その場所の特定は難しいと思われる。特定できたとしても、相手国は武力を行使していないのに、日本は武力を行使するというのでは、あきらかに均衡を欠くものとなり、自衛権とはいいがたいものとなろう。また、本当に特定できるほどの能力があるのなら、その能力を駆使して防御することも可能となり、そもそも武力行使など不要になるに違いない。
日本とアジア、世界の平和と安全にとって、いま考えるべきことは山積みしている。中国との関係にしても、尖閣諸島をめぐる問題をどう解決するかが、いまもっとも大事なことである。それなのに、自民党政権がやっていることは、中国への外交的アプローチを放り投げ、ただただ中国と戦争になった場合にアメリカをどう助けるかの検討だけなのだ。集団的自衛権の行使が可能となれば、それは検討にとどまらず、現実のものとなっていく。本書が、その愚かしさへの理解をひろげる一助となれば、筆者としては幸いである。
前著である『憲法九条の軍事戦略』は日本が侵略される事態を想定し、自民党の路線に対する別の選択肢を提示したものだが、本書は国際貢献の分野における自民党路線への対案としての意味をもつ。戦後日本の骨格ともいうべき憲法が変わるかどうかの岐路にあるいま、このふたつの分野における議論がさらに豊かなものになることを願う。