2017年2月2日
「安保と自衛隊に関する独自の立場は野党共闘に持ち込まない」。またまた引用する。大会の決定なので、この文言が変わることもないだろう。しかし、「持ち込まない」という点では同じであっても、安保と自衛隊それぞれに対する共産党の立場は全然違うのだということは常に明確にした上でのことでないと、きっとうまくいかなくなるだろう。
いや、野党共闘は、うまくいくかもしれない。だって、そこには持ち込まないのだから。だけど、野党共闘において、侵略には自衛隊で対処するという考え方にもとづく政策が合意したとして、それを国民がどう受けとめるかが問題だ。「持ち込まない」ことだけが強調されると、侵略に自衛隊で対処しない!のが共産党の基本政策なのに、その立場を「持ち込まない」から合意ができたのだということにならないだろうか。
自衛隊を嫌う多くの共産党員は、それで自分を納得させるのかもしれない。「イヤイヤ合意したのだ」と。しかし、国民の多数は、その「イヤイヤ」という気分を感じ取って、侵略されても自衛措置をとらないのが共産党だという、現在のイメージをさらに強めていくことになるだろう。
日米安保をなくすのが基本政策だというのは構わないのだ。安保がなくても自衛隊があれば侵略には対処できると言うことができる。あるいは、安保がないほうが日本の平和と安全につながると強調することもできる。しかし、要するに、両方ともなくすのが基本政策だということになると、たとえ野党共闘でこの分野の政策協議が進んでも(合意ができても)、侵略への対処手段を考えない政党だというイメージだけが残るだろう。それでいいなら仕方ないけれど。
社会党が「非武装中立」というリアルではない政策を掲げていたとき、敢然と「中立自衛」政策を貫いたのが共産党である。いま「中立自衛」と言わないのは、侵略された時に「自衛」もしないという立場に転換したからではない。当時、不破さんから伺ったことだが、かつての「中立自衛」政策というのが、憲法9条を改正する(自衛組織を保有すると明記する)という立場と密接に結びついた概念だったので、9条を将来にわたって守り抜くという90年台後半に確立した立場からすると、ふさわしい言葉ではなくかったからだ。「中立自衛」というと、9条を変えるのかと誤解されると思われたからだ。中立自衛という政策自体を転換したからではなかったのだ。
そして現在、当時と異なり、共産党が9条護憲の立場だということは知れ渡ってきた。「中立自衛」が政策だと言っても、改憲派だと誤解されるおそれはない。だから、「中立自衛」が共産党のいまの基本政策だと(自衛隊がずっとあとの将来になくなったとしても「中立自衛」は基本政策であり続けるだろうし)、あらためて打ち出してもいいと感じる。
いかがでしょうか。続けるといつまでも論じることがあるので、とりあえず、明日で終わりにします。
2017年2月1日
昨日、共産党中央委員会の建物の中では、「サンデー毎日」がかなりコピーして出回ったとか。中には、コピーを配りながら、「松竹が共産党との対決姿勢に転じた」などと煽るヒマ人もいたみたいですね。そんな底の浅い人(一部だと信じますが)に支えられる中央委員会の将来って、大丈夫なんでしょうか。ま、私が心配することではないので、気にせず、連載に戻ります。
「安保と自衛隊に対する共産党の独自の立場を野党共闘に持ち込まない」。何回も引用したが、実際の場面のことを想定すると、そう簡単ではないことだ。
野党の実務者による政策協議が始まってるが、まだ安全保障政策までは行き着いていないようである。そこには、原発その他、大事な問題の協議を先行させる必要があるという事情があるのだろうと思う。それは当然だろう。
同時に、安保と自衛隊をどう協議していくのか、あまりにも横たわる違いが大きすぎて、どの野党にも見えていないこともあるのではないか。どう手をつけていいか分からないということだ。
ただ、「独自の立場を持ち込まない」とすでに宣言していることは、とっても重たい意味を持つ。安保や自衛隊に関して何かを主張すれば、「それは独自の立場ではないか」「持ち込まないと言ったではないか」と反論されるわけだから。
だからというわけでもないが、究極の選択肢としては、独自の主張をせずに(したとしてもうまくまとまらなければ引っ込めて)、民進党の政策を丸呑みすることだって考えなくてはいけない。まあ、その民進党の安全保障政策は何かが、そもそもまとまっていないから困難も増幅するのだが。
その場合、安全保障政策における自民党と野党共闘の違いは何かという問題が大事になる。「違う」ものを提示しないかぎり、選挙にならないからね。
おそらく、自民党の政策は、新安保法制に代表されるように集団的自衛権の方向だという位置づけになる。そして、野党共闘の安全保障政策は、新安保法制を廃止し、それ以前の自民党の政策水準に戻すという位置づけになる。
これはこれで、大事な対決点になると感じる。自民党から「野合」批判があっても、「あなたがたの何十年にわたる政策と同じだ。どこが問題なのだ」と開き直ることができる。
そうやって、うまくいけば、新安保法制をどうするかということ以外では、安全保障政策の対立点をなくすわけだ。そして、選挙の争点を経済と貧困・格差にシフトさせるわけだ。
その上で、野党間で、安全保障政策をどうするのか、ちゃんと腰を据えて議論すればいいのではないだろうか。まあ、一つの選択肢に過ぎないが。
2017年1月31日
明日まで東京でお仕事。本日発売の「サンデー毎日」をご覧ください。「サンデー時評」で「トランプ時代の対米従属解消論 日本は「核の傘」から抜け出せ! 元日本共産党安保外交部長が語る自衛隊の活かし方」ですって。
この倉重篤郎さんの連載、先々週が石破茂さんで、先週が鳩山由紀夫さんだったんです。4ページも使って堂々とご主張を展開されていました。私も取材を受けて、今週だと言われていたんですが、きっと私の回は4人くらいの方が登場するんだろうと思っていたら、私一人でした。いや、びっくり。ある通信社の方が、タカとハトの次に出る松竹さんは何の鳥でしょう?と言っておられました。
で、「サンデー時評」ですが、半分は近著『対米従属の謎』の紹介で、ありがたいことです。まとめ方、うまいよな。
残り半分は、私が共産党を退職し、自衛隊をどう活かしていくかが大事だと考え、出版を通じて知り合った柳澤協二さんなどとともに「自衛隊を活かす会」をつくっていく経過などがまとまって書かれています。共産党内の個人名も出して退職理由を語ったのは初めてですが、まあ、10年たったことだし、「時効」ということで。それに現在、共産党も国民連合政府で自衛隊を活用(日米安保までも)という方針になったので、食い違いはないので、何を言っても批判にもなりませんしね。
本日、その柳澤さんと一緒に、昨日は福島でご一緒した鳩山さんの事務所をお訪ねします。この夏までに、あの「抑止力を学べば学ぶほど県内」という発言を根底から批判的に総括する本ができるはずです。「そんな本ができるなら講演にお呼びしたい」という9条の会もあるんですが、それをお伝えしたら、鳩山さんはOKだということでした。北海道の九条の会などとは個人的にも関係があるそうですよ。それに、3年ほど前に亡くなったお母様は、最後は共産党しかないと常々発言し、選挙でも共産党に投票しておられたと伺いました。
昨日の福島生業訴訟での鳩山さんの講演も感動的でしたよ。原告団の方々が涙にむせびながら感想を述べ、終了後もツーショットを取りたいという方々があふれかえっていました。この鳩山さん、もう保守層からは見向きもされないでしょうが、中道から左派の方々には受け入れられる状況をつくれればと思います。
では、明日から、「政党間協力と政権協力」の連載を再開します。
2017年1月30日
本日、東京から福島へ。2か月に1度、生業訴訟の裁判のたびに開かれる講演会ですが、本日は鳩山由紀夫さんをお連れします。さて、どんな反応でしょうか。連載はあさってから再開です。産経新聞デジタルiRONNNAから「しんぶん赤旗の研究というテーマで特集を組むので何か書いてほしい」という依頼があり、以下の論評を書きました。私がつけたタイトルはこの記事にあるように前向きだったのに、iRONNNAがつけたタイトルは後ろ向きっぽいですね。ま、立場の違いがあるから、仕方ないか。どうぞご覧ください。
大学1年生で「赤旗」の購読を開始し、すでに43年。その間、忙しい時も病気の時も、1号も欠かさず読んできた(最近はあとでまとめ読みすることも増えたが)。読者としていろいろ注文はあるけれど、ここでは1つだけ述べておきたい。野党共闘の時代における「赤旗」は、共産党のなかに存在する多様な個性を映し出すものになるのが望ましく、そうでないと共闘も本格的には実らないのではないかということである。
「共産党には個性がない」とよく言われる。それは、ある意味では正しく、別の意味では正しくない。
個性のなさを指摘する人の多くは、「赤旗」を見たり、議員や候補者の演説を聞いてそう感じるのだろう。それなら当然だ。「赤旗」は共産党の見解を伝えるものであって(議員や候補者の演説も同じだ)、共産党の見解が特定の問題について2つも3つも存在するなんてあり得ないからだ。
ただし、個々の共産党員の見解が、常に共産党と一致しているかというと、そんなことはあり得ない。30万人もいるのだから、これも当然だろう。
ただ数が多いからというだけではない。党員の多くは団塊の世代に属する。若い頃は学生運動で、その後は労働運動などにおいて、自分の頭で考え、行動してきた世代である。新しい問題が生じたとして、共産党が見解を発表するまでは自分で考えないということはあり得ず、その結果、いろいろな問題で独自の認識に達するのは自然なのだ。それが結果として共産党とは異なる見解になることもあり得る。だから自由な意見交換ができる共産党の集まりに参加すると、それぞれの個性が豊かなことには、誰もが驚かされるだろう。若い党員だって、過去のいきさつに縛られない分、自由で豊かな発想をしている。
例えば中国に対する評価などは、30万人が一致するなどということから、もっとも遠いところに位置する。共産党の綱領は中国を「社会主義をめざす国」と規定しているが、研究者を含む党員のなかでは、中国を社会主義だとみなす人もいれば、資本主義だと疑わない人もいて、激しい論争がある。また、党員の少なくない部分は、綱領の規定にもかかわらず、中国を社会主義だと国民に説明することに躊躇する傾向がある。そう説明してしまうと、日本の共産党が最後にめざしているのも社会主義だから、中国のような社会をめざしているのかと国民から思われるのは避けらないからだ(違うと説明しても避けられない)。そういう難しさがあるので、共産党のそれなりの地位にいる人が、「「めざす国」ということは現在はまだ社会主義ではないという意味だから、国民に対して中国は社会主義ではないと堂々と説明していいのだ」として、党員を励ましたりすることもある。
個々の党員だけではない。例えば不破哲三氏なども、個人の著作では大胆な見解を表明することがある。『激動の世界はどこに向かうか』(2009年)という著作では、共産党が存在しない国でも社会を変える動きがあることについて問われ、マルクスが高く評価したパリ・コミューン(1871年)にはマルクス主義者がほとんどいなかったことを指摘しつつ、「マルクス主義者やその党が指導しないかぎり、革命はありえないとか、社会主義への意義ある前進は起こらないなどといった独断的な前提は、(マルクスには)みじんも見られません」と述べている。それだけだったら事実の紹介に過ぎないが、その上で、現在においても、「共産党がいないところでも新しい革命が生まれうるし、科学的社会主義の知識がなくても、自分の実際の体験と世界の動きのなかから、さまざまな人びとが新しい社会の探究にのりだしうる」と一般化しているのだ。日本で共産党が退潮し、消滅しても革命が起きるのだろうかと、戸惑いを感じた党員もいたことだと思う。こうした見解が「赤旗」に掲載されるのは難しいのではないか。
中国問題に戻るが、中国が本当に社会主義をめざすと言えるのかについて、実は共産党だって慎重な見方をしている。すでに3年前の大会で、「(中国に)覇権主義や大国主義が再現される危険もありうるだろう。そうした大きな誤りを犯すなら、社会主義への道から決定的に踏み外す危険すらある」と指摘していたのだ。
そういう見方を提示したとはいえ、「赤旗」の立場は最近まで、「中国は社会主義をめざす国」というものだった。そして、社会主義は共産党のめざすのと同じものだから、中国を批判するような報道も、ほとんど見られなかった(中国の覇権主義と真正面から闘っていた20世紀後半は別だが)。「赤旗」が党の見解を述べるものであり続ける限り、それは避けられないことなのだ。
しかし、この1年ほど前から、少しずつ変化が見られるようになる。例えば核問題について言うと、それまでは中国は核廃絶を実現する立場に立っていると評価してきたが、この間、核廃絶の「妨害者」になっているという論評もあらわれた。そして今年1月の党大会では、「少なくとも核兵器問題については、中国はもはや平和・進歩勢力の側にあるとはいえない」と断言するに至る。南シナ海、東シナ海の問題でも、「力による現状変更をあからさまにすすめている」として、「国際社会で決して許されるものではない」と批判した。
さらに、この党大会では、「中国に、大国主義・覇権主義の誤りがあらわれている」と規定した。3年前の大会の見地からすると、「社会主義の道から決定的に踏み外す危険」があらわれているということになる。実際、この党大会では、それが「現実のものになりかねない」と、中国に向かって「警告」しているのだ。
要するに、中国に対する否定的な見方が、共産党全体のものになりつつあるということである。これまでも個々の党員のなかではそういう見解が多かったわけだが、それが共通の認識になっているということだ。
問題は、こうした共産党の変化は、共産党を外から見ている人たちにとっては、つまり主に「赤旗」を通じて共産党を見る人たちにとっては、ある日突然訪れるということである。そしてその人たちの目には、ある時期までは共産党は一致してこう言っていたのに、ある日を境に一致して別のことを言うようになったと映ることである。これがまた、「一枚岩だ」「共産党の見解が180度変わると、上から下まで一挙に変わる」として、ある種の不気味さを持って受けとめられることになる。
モノトーンの考え方だと見られることは、政党にとっては不利なことである。今度の大会決議で、共産党は自民党を次のように批判している。
「安倍政権のもとで自民党は、かつての自民党が持っていた保守政党としてのある種の寛容さ、多様性、自己抑制、党内外の批判を吸収・調整する力を失い、灰色のモノクロ政党=単色政党へと変質した」
多様性がない単色政党は批判されるべき対象なのだ。だったら共産党も多様性を見せることに力を入れるべきだろう。
私が「赤旗」に期待するのは、1ページでいいから自由投稿欄を設けることである。その他のページは共産党の公式見解を述べるものであっていいから、自由投稿欄だけは公式見解に左右されないものを掲載することである。
そのことによって、多くの人は、共産党のなかにも多様な見解が存在していること、共産党がモノクロ政党でないことを知ることになるだろう。同時に、そういう多様性にもかかわらず、幹部がばらばらに行動するような無責任な政党ではなく、政党としてまとまった見解を持ち、一致して行動をしていることも理解するだろう。
それは共産党への支持を広げることになると感じる。共闘相手の他の野党にとっても、「自衛隊を認める党員もいるのだ」とか、「いまだに天皇制廃止論者がいるんだ」などが伝わることは、共産党も自分と同じような多様性を持つ党だという理解につながり、日常の付き合いにもいい影響を与えるはずだ。不破氏のように個人の著作を出せない共産党員にとっても、同じ意見を持つものの派閥(分派)をつくらないで意見を表明できるようになるわけで、党の活性化につながると思う。
志位和夫委員長は、1月の党大会における報告で、「「多様性」は「弱み」ではなく、「強み」とすることができる」と述べた。これは多様な考え方を持つ野党の共闘に関してのものだが、共産党自身も多様性を「赤旗」で見せることによって、みずからを強くすることができるのではないだろうか。
2017年1月27日
日米安保の問題は、またあとで論じるとして、とりあえず自衛隊の問題である。共産党が「日米安保と自衛隊に関する独自の立場は野党共闘に持ち込まない」と言っていることは何回も紹介したが、それを聞いていると、日米安保に対する立場と、自衛隊に対する立場を同列に置いているようだが、本音はどうなんだろう。
日米安保をなくすのが基本政策だというのは共産党にとってゆずれない線であることは理解できる。しかし、自衛隊解消も共産党の基本政策なのだろうか。本気でそんなことを考えているのだろうか。
今回の大会決議に、「日米安保条約、自衛隊──日本共産党の立場」という項がある。そこで「独自の立場」として言われているのは、安保がどんなに危険なものかを指摘した上で、「日米安保条約をなくしてこそ、日本はアメリカの引き起こす戦争の根拠地から抜け出すことができ、……」云々として、安保廃棄が必要だということである。これは本当に独自の立場であって、野党共闘に持ち込むことができないものである。
一方、自衛隊についてはどうか。確かに、大会決議で明確にしている自衛隊が憲法違反の存在だという認識も、将来は解消するという考え方も、野党共闘に持ち込むものではないだろう。
しかし、自衛隊がなくなるまでの期間は、「かなりの長期間」である。だって、まず安保も自衛隊も存在する第一段階がある。野党連合政権などの段階である。これだけだって、他の野党が安保廃棄で一致するまでは続くのだから、「かなりの長期間」だろう。しかも、安保廃棄で合意する政権ができる次の第二段階でも、合意は安保廃棄までであって、自衛隊は存続するのである。国民多数が自衛隊はなくしてほしいと希望するようになるまで存続するのである。
大会決議の大事なところは、安保については、平和にとって有害であるという害悪をいろいろ並べ立てて、だから廃棄すると言っているが、自衛隊については、それを将来であれ解消する理由としてあげているのは憲法9条に違反するということだけである。すなわち、安保と違って、自衛隊があると平和が守れないから解消するという立場ではないということだ。逆に、侵略されたら自衛隊に頑張ってもらうと書いているということは、平和にとって必要な存在だと認めているということだ。綱領その他で自衛隊のことを「アメリカの指揮下にあって有害」という規定があるが、日米安保が廃棄されればそういう規定も不要になるのであって、自衛隊を解消する理由とはならないのだ。
それよりも何よりも、「侵略されたら自衛隊に頑張ってもらうというのが基本政策だ」と言えないとしたら、政党としての存在意義に関わるだろう。野党共闘が成功しないだけでなく、政党としての信頼を失うということだ。
だから、理念として将来の解消があり、憲法違反という認識もあるだろうが、「かなりの長期間」にわたっては、自衛隊を保有し、侵略されたら頑張ってもらうというのが基本政策だと明確にすることが不可欠だと思う。まだ連載は続きます。(続)