2015年11月20日
昨夜、東京から京都に戻る途中でブログ記事を書こうと思いましたが、さすがに疲れて断念。疲労から来るのか歯茎もはれちゃって最悪でした。本日も午前中はお休みしました。やっぱり、岩手、福島、東京、京都と4日間で仕事で回るなんて、もうできるような年じゃないよな。
それでも昨日は、久しぶりに慰安婦問題をまとまって2時間ほどしゃべる機会がありました。日韓首脳会談で慰安婦問題を妥結に導くことが合意されるという新しい局面を迎えています。もしかしたら、年末から来年にかけて、何らかの合意に達するかもしれないのです。アジア女性基金の仕事が終わって、その評価は難しい問題ですが、実態的には未解決の問題が残り続け、何らかの措置が必要とされていたわけです。ところが、それから8年間、民主党政権も自民党政権も何らの合意もつくれなかった。それを安倍政権と朴政権がつくったわけですから、本当は画期的なことなのです。
ところが、メディアも世論も、その画期性にふさわしい動きをしていないと思うのです。理由は簡単で、報道される合意内容というのが、すでに議論されてきた問題の範囲内にしかないからです。韓国側は「当事者が納得する解決策を」といい、日本側は「日韓条約で解決済みという考え方の範囲内で」といい、目新しさがないわけですね。ニュース価値がないという判断なのでしょう。
実際、目新しさはない。だけど、それがないのに、妥結に向けた首脳合意ができるという、そこに画期性があるのだと気づいてほしいのです。おそらく、内容的に画期性がないのに、何らかの合意が公表されていくのだと思います。
そして、すでに40人台に突入した生き残っている慰安婦のことを考えると、生ある内に解決するためには、今回が最後の機会でしょう。メディアは、そういう局面を前にして、どうすれば合意を達成できるのか、よくよく考えてほしいと思います。いまの局面にふさわしい報道とは何かを考え抜いてほしいと思います。
私の考えは、昨日しゃべりまして、近く、何らかのメディアに公表されるはずです。公表されたら、ここでもお知らせしますね。
2015年11月18日
昨日の夜、福島から戻り、本日と明日は東京。イスラムに関する学校図書館向けの本の打ち合わせとか、野党の連携に向けた政治状況の調査とか、その他その他。
ということで、出張する前に、大阪府知事選挙の投票を済ませてきた。自民党に投票することには何の戸惑いもなかったけれど、感慨はあったかな。こんな時代になったのだという感慨。
聞くところによると、大阪の共産党支持者のうち、自民党候補に入れると答えているのは6割程度だそうだ。これを多いと見るか少ないと見るか。
「自共対決」が強調されていた時期のことを考えると、6割もが自民党に投票するなんてあり得ない、ということになるだろう。一方、政党が決定すればそれに従うのが共産党だというイメージをもつ人々にとっては、4割もが反旗をひるがえすのは予想外ということになろう。維新候補の優勢が伝えられる中で、この4割はどう動くだろうか。「反自民」を貫くのか、妥協をよしとするのか。
これに続く参議院選挙では、もっといろいろな組み合わせが出てくるのだろうと思う。それについていくには、政権のための選挙協力というものを、もっとドライに考える習慣が身につかないとダメだと感じる。
いま民主党などのなかから、「基本政策が違うのに選挙協力はできない」という声が聞こえてくる。一方、その同じ言葉を、これまでずっと共産党が使ってきた。「基本政策が違うのに選挙協力はできない」というのが、政治の世界での常識だったわけだ。そこを崩していくのは容易ではない。何十年もかけて常識となってきたものだから、本当なら、1回の選挙で克服することの方が無理があるのだと思う。
選挙というのは、基本政策の異なる政党が、違いを脇において、どう一致点で協力しあうのかだということが常識になる時代というのは、本当にドライさが必要である。沖縄の新基地建設とか、再来年春の消費税引き上げとか、いろいろ要求はあるけれど、一致するのは戦争法関連だけというのは、少なくない有権者にとっては苦渋の決断を強いられるということでもある。辺野古移設を掲げている候補しか選択肢がないということだって考えられるのだから。
でも、そこに慣れていかないと、これからの時代は乗り越えられないのだろうね。それはどんな時代なのだろうか。
2015年11月17日
福島に来ています。本日は、生業訴訟の公判の日。限定された傍聴席に入れない原告を対象とした講演会をやっており、私が講師選定係。この春から、浜矩子さん、白井聡さん、藻谷浩介さん、大友良英さんとやってきて、本日は内田樹さんです。講演会はまだまだ続きますが、本日までのものをまとめて、来年の3.11に本を出す予定。タイトルは『福島が日本を超える日』かな。
さて、三浦耕喜さんが書いている『兵士を守る 自衛隊にオンブズマンを』は、そのタイトルが示すように、ドイツが導入している軍事オンブズマンを自衛隊にもというのが、本来の趣旨です。ドイツには、議会が指名する軍事オンブズマンがいて、スタッフは50名で半分は法律家。25万兵士から苦情を受け付け、「兵士の保護者」として全軍事施設に立ち入りでき、国防大臣をはじめ全軍関係者とコンタクトをとれるそうです。兵士は上官の了解や検閲を経ずに直接オンブズマンと連絡をとれます(毎年6000件)。
オンブズマンはアフガニスタンにも調査に行きました。兵士が何十人も死亡しているわけで、軍からは「危険だからお勧めできない」と言われたそうですが、「兵士が危険にさらされているからこそ調査に行く」と宣言したとか。オンブズマンが行くと言えば、軍は拒否できる立場にありません。そして現地調査の結果、ロケット攻撃が基地内におよんでいるのに塹壕(バンカー)がないので、設置を要求し、設置されたそうです。3500人では任務が過重になっているとして増員を提案し、5350人になりました。オンブズマンは、アフガニスタン派兵そのものにはというか、軍の運用には口を挟まないで、あくまでそれを前提にどうやったら兵士を守れるのかを考え、提言するものです。
ドイツではなぜこんな制度ができたのか。これまで書いたように、兵士の人権が守られないことがナチスの横暴を生んだという考え方が背景にあるでしょう。同時に、ドイツ軍の存在が国民的コンセンサスになっていることも大きいと思います。
戦後のドイツが再軍備することについて国内で大論争があり、社会民主党などは猛反対しました。90年代になってNATO域外に派兵されることになったときも、同様の論争がありました。しかし、それが決着したあとは、社会民主党を含めて、実際に存在する兵士をどう守っていくかということが、国民的な関心事になっていったということです。
一方の日本では、自衛隊は憲法違反で認められないという人々が、戦後かなり長い間にわたって協力に存在し、自衛隊は廃止すればいいのだということで、自衛隊員の人権を守るという発想がありませんでした。他方、自衛隊を認める側は、政治問題化を避けるため、自衛隊員には危険なことをさせないのだとして、非戦闘地域という概念をつくったり、今回の安保法制でもリスクは増えないという立場をとりました。どちらの側も兵士を守ることに積極的でなかったわけです。
そこをどう転換させるのかが問われていると思います。自衛隊員が直面する現実への想像力が大事です。ドイツの内面指導センターの教官が、この本の筆者にこう尋ねたそうですが、それにどう答えるのか。戦場に自衛隊が派遣されることになる日本人一人ひとりにとって、重たい問いだと感じます。
「たとえば、あなたがひとりの兵士だとする。あなたはどこかの外国に派遣され、自軍の宿営地で入り口の警護に当たっているとしましょう。すると、あなたは道の遠くの方に乗用車を見つけた。どこでも、近くの町で走っていそうなタイプの乗用車です。その車はだんだん近づいてきた。宿営地の入り口には「止まれ」の表示があるが、その手前に来てもスピードをゆるめる気配はない。運転手の顔さえ見える距離になったのに、車はまっすぐこちらに向かってくる。あなたの脳裏には、今までに同じパターンで自爆攻撃が行われたことが思い浮かぶでしょう。もしかしたら、犠牲になった戦友のことを思い出すかも知れない。あなたは銃を構えて引き金に指を当て、「止まれ!」と叫ぶ。それでも車は近づいてくる。自爆テロか、それとも何かを勘違いした民間人に過ぎないのか。引き金を引くべきか、それとも踏みとどまるのか。あなたならどうしますか?」(了)
2015年11月16日
フランスのテロ事件、書くべきことが多すぎて、何を書いていいか分からない。テロへの対応というものを自分のこととして考える人が増えるであろうことだけが、事件の肯定していい結末ということになるのかなあ。悲しいけれど。
ところで、自分のこととして考えるという点で、安倍首相のそのなかに入るのだろうと思った。というのは、直後の談話が、これまでとはかなり違う風合いのものだったからだ。
これまで安倍さんは、この種の事件が起きると、ただ強い言葉だけを発していた印象がある。人命にかかわるようなテロ事件だったら、「裁きを受けさせる」とか等々。後藤さんが拘束された事件での安倍さんの言葉をめぐり、賛否両論が巻き起こったこともある。
今回の安倍さんの談話は、「テロの未然防止のための国際協力」というものだった。強い言葉もないではなかったが、中心はこれだった。
おそらく、安倍さんの頭をよぎるものがあったのだろう。フランスがシリアにおける空爆をしていることを口実にしたテロ事件なのだから、ISが倒すべき相手であることは変わらないにしても、あまりに強い言葉は日本を標的にする口実を与えることになるから、避けなければならないというような感じだろうか。
言葉が出てきた動機は別にして、言葉自体は大変理性的であり、大事なものだ。どうやったら「テロの未然防止のための国際協力」ができるのかどうか、真剣に考えなければならない。
そこには、よく言われるような、短期的課題としての情報交換とか、資金の厳格な管理とかがある。さらに、中長期的課題としてのイスラム社会の民生の安定とかがあるのだろう。
同時に、イスラムの若者の中に、「こうすれば社会は変わる、世界も変わる」という展望をどう持てるようにするかという問題が大きいと感じる。いろいろな不満があっても、国内に希望を託せる勢力があって、選挙で勝つことができるとか、デモで世論を喚起することができるとか、そういう可能性があれば、若者がテロに走る危険はずいぶんと減るはずである。
そういうことを追求すると、現在の政権と対立する勢力を育てることになり、弾圧の対象になるかもしれない。実際、昔はイスラム諸国のなかには大きな共産党があって、そういう闘争を担っていたわけだけど、みんな弾圧されて壊滅状態だ。
けれど、社会を平和的手段で変えるというのは(テロには訴えずに)、そういうことなのだろうと思う。まあ、古い言葉を使わせてもらうとすると、やはり階級闘争なんだと思う。
これを、誰が、どうやって進めるのか。さすがに安倍首相には頼れないわけだが、イスラム教の指導者にそういうことを教えよと言って通用するのか。イスラムの教義って、社会を変革することをどう捉えているのだろう。考えるべきことが多いよね。
2015年11月13日
前回の最後に、命令と良心が両立しない場合、命令に従わなくていいという研修がされていることを紹介しました。驚く方もいたようですが、その原点は、ドイツの軍人法にあります。
日本の自衛隊法は、「隊員は、その職務の遂行に当たっては、上官の職務上の命令に従わなければならない」(57条)と規定していますが、命令に従いたくない場合のことは書いていません。一方、ドイツの軍人法は、「兵士は上官に従わなければならない。最大限の力で、命令を完全に良心的に、かつ遅滞なく実行しなければならない」としつつ、「命令によって犯罪が行われるであろう場合には、兵士は命令に従ってはならない」という有名な規定(「抗命権」)をもち、さらに、「人間の尊厳」を犯す命令には従わなくてよいとされているとのことです。ナチス時代の教訓をふまえているわけですね。
そういう考え方が、研修にも反映されているということでしょう。しかし、にもかかわらず、派兵された先で問題は起きます。必ず起きるから研修すると言った方がいいかもしれない。この本では、次のような事例が紹介されています。
2007年3月、ドイツがアフガニスタンに偵察機を追加派遣した際、国外活動の後方支援を担当していた中佐が任務を拒否し、軍当局との間で争いになったたそうです。中佐が拒否した理由は以下のようなもの。
「ドイツ軍はあくまでアフガニスタン国民のために復興を助けるために派遣されているのであって、決してブッシュ大統領による戦争に荷担しているわけではない。にもかかわらず、偵察機を派遣すれば、それによって得られる情報は米軍による攻撃にも用いられることになる。いくら命令でも、ブッシュ大統領による「十字軍」を手助けする命令には従えない」
これと同じ事例かどうか確定できませんが、命令に逆らって降格処分にあった兵士がいたそうです。しかし、その兵士が裁判に訴えて勝利し、もとの地位を回復したそうです。
一方、命令に従ったが故に、それが民間人の殺害につながり、裁判にかけられる事例もあります。2008年8月、アフガン北部の検問所で、ドイツ軍の兵士が、民間人の乗った車に発砲し、女性一人と子ども二人を殺害しました。警告発砲でも停止しなかったため車体を撃ち抜いたのだそうで、この兵士はドイツに戻され、刑事裁判の被告人となりました(その結果は、この本では不明)。
さらに、2009年9月4日、アフガン北部のクンドゥス州でタンクローリー車が武装勢力に襲撃され、強奪された際のことです。過去、タンクローリー車が自爆テロに使われた事例もあり、ドイツ軍司令官クライン大佐は、これを攻撃するよう要請し、NATO軍が攻撃機で破壊しました。ところが、そのタンクローリー車が盗まれたのは、燃料不足の住民に燃料を分け与える目的であって、NATO軍が攻撃したときに周辺に住民がいて、爆発により約30人が死亡したそうです。これが大スキャンダルとなり、クライン大佐の責任が問われることになります。
これら裁判の際、兵士の側に立って活動するのが、兵士の労働組合にあたる「連邦軍協会」(兵士の8割ほどが加入)で、弁護費用を払ったり、世論を喚起したりするそうです。労働条件改善のためには、制服を着てデモをすることも認められているとか(政治活動を制服でするのは不可)。クンドゥス州の誤爆事件について、「協会」の会長が、以下のように発言しているのが印象的でした。
「タンクローリー車を武器として使わせることで、多大な犠牲者が出る可能性を放置するのか、それとも、それを防ぐために空爆を要請するのか。その判断のどちらが当たっているのかということだ。瞬間の判断の可否を誰があげつらうことができるのか」
「民間人を犠牲にした責任の存在そのものを否定しているのではない。その責任は明白だ。だが、それを兵士に求めることが不当だと主張しているのだ。なぜならば、兵士がそのような権限の判断に迫られる場に置かれているのは、兵士を「戦場」に送り出した政治家の決断によるものであるからだ」「責任は政治家が負うべきものであった」
兵士ではなく、派兵を決めた政治に責任を求めるって、いまの日本でも議論されねばならないことです。上中下で終わりのはずですが、まだ自分の評価が書けていません。それを次回に。(続)