2015年10月7日
戦争法を廃止する政権とか、あるいは発動を阻止する力関係ということを考えた場合、柔軟な対応が不可欠である。ある提案をして、「この方式しかない」として仲間を集めるだけでなく、別の方式を批判するようになると、そういう考えをもつ人が「敵」に見えてきて、とても協力関係を希望しているようには見えなくなってくる。
たとえば、志位さんから申し出を受けた民主党の岡田さんが、引き続き協議することを約束しつつ、「基本政策が異なるのに政権をともにするのは難しい」と発言したことが報道されている。それに対する批判もネット上では見られるが、「基本政策が異なるのに政権をともにするのは難しい」というのは、これまでずっと共産党がいってきたことであって、常識的な考え方なのである。
もちろん、戦争法の成立はこれまでとは違う段階だという捉え方も可能だし、私もそれを否定するものではない。しかし、基本政策が似通ったものが連立するという考え方に慣れきった世界では、新しい決断をするのは簡単ではないのも現実だ。
昨日書いたように、二本立ての政権構想、つまり基本政策での連合政権と、当面の一致する課題でのよりましな政権というものが政界において不断に追及され、日常的なものになっていれば、政党の間の関係というのは、現在とは異なっていただろう。理想としての連合政権と、現実としてのよりましな政権の両方を追い求める、政党間のドライな離合集散の関係があっただろう。だけど、そういう関係は、現在のところ存在しない。
もう17年前になるが、共産党の不破委員長(当時)が、「日本共産党の政権論について」というインタビュー記事に登場した。これは、安保廃棄を掲げるのが共産党だけになり、野党といっても基本政策の異なる政党だけになる一方、自民党の過半数割れが現実になり得る状況が生まれたもとで、それにどう対応するかを提起したものだった。
このインタビューの大事なところは、最後の方で、「政策共闘の積み重ね」を強調していることである。基本政策が違うけれども、当面の大事な課題では一致することがあるのだけれど、なかなか政権をともにするような関係になりにくい。そこを打開するには、日常的な政策共闘が必要だと強調したものである。
ところが、それ以来20年近く、そういう積み重ねはされてこなかった。今回が、いわばはじめてのことになるのだろう。
だから、志位さんが岡田さんと会った後にいったように、「相手のあることですから」という謙虚さが必要なのだと思う。戦争法廃止を「国民連合政府」として決める場合もあるし、基本政策が似通ったもの同士の政権に閣外で協力して決める場合もあるし、政権がとれなくても参議院の多数で発動を阻止する(自衛隊派遣の国会承認をしない)場合もあるし、もしかしたらその他の可能性もあるかもしれない。
結果が重要なのだから、それに至る選択肢はいろいろあっていいのだ。一つの考え方に凝り固まって他の考え方を否定するのは、そういう協力関係を進める立場にふさわしくないと思う。(続)
2015年10月6日
共産党が戦争法を廃止するための「国民連合政府」を提唱していて、少し評判になっている。この問題を少し書いておきたい。というか、すでに書いたように、私は戦争法を廃止する政権や道筋について、複数の選択肢があると考えており、共産党の提案はその選択肢の一つとして十分に評価できるというのが、まず前提である。
私がびっくりしたのは、今回の共産党の提案を受けて、「すごい大胆な方針転換だ」という受け止めが多かったことである。中央委員会で決められるようなことでない、大会で決めるべきだ、みたいな論調もあった。まあ、志位さん自身、「すごく踏み込んだ」みたいなことを言っているから、周りがそう感じるのも仕方ないのかもしれない。
だけど、私にとっての共産党の政権論というのは、76年に体験したことがベースになっていて、その体験からすると不思議でも何でもなかった。どういう体験だったか。
76年といえばロッキード事件である。私が大学に入って、政治的に覚醒した時期だけれど、はじめて自民党が追い詰められたという自覚を持てた事件だった。
その76年の選挙を前にして、共産党の宮本委員長(当時)が、小選挙区制粉砕、ロッキード事件の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で「よりましな政権」をつくろうと提唱したのである。これにはびっくりした。おそらく、いま現在、共産党の「国民連合政府」提案にびっくりした人が感じたようなことを、このときに感じたのだと思う。
だって、共産党の基本方針は「民主連合政府」だと思い込んでいた。その政府は、安保条約廃棄、大企業本位の経済政策の転換、議会制民主主義の擁護という課題にもとづく政府のはずだった。「70年代後半の遅くない時期に民主連合政府を」というスローガンがあって、ポスターなども張り出されていて、国政選挙で共産党は前進を続けていた時期だったので、そこに現実味があると思っていたのだ。
ところが、76年の提案は、その安保条約の廃棄をめざさないというのである。いまだったら、安保廃棄を唱える政党は共産党しかいないので、安保廃棄を一致点にしないと言っても、「何をぼけたことを言っているのか」と一蹴されるだろうけれど、当時は、まだ社会党が多くの議席をもっていて、安保条約廃棄の方針を掲げていて、その点でも民主連合政府に現実味があったのだ。
それなのに安保廃棄を一致点にしないということは、社会党とだけでなくもっと幅広い政権共闘をめざすということである。政権をとろうとすると、そういう柔軟性は不可欠だろうけれど、大学に入りたてで、安保条約に諸悪の根源があるのだと教え込まれていた身には、安保を容認する政党とも手をつなぐというその方針は驚愕と言えるものだった。
その時、宮本さんが記者会見をして、それを聞いて納得した。宮本さんは、この方針について、「二本立て政権構想だ」と説明したのだ。安保廃棄の民主連合政府の方針を捨てたわけではなく、三つの課題での政府と民主連合政府の「二本立て」で政権を追及するというものであった。そして、そういう考え方は、共産党の基本文書である「綱領」に書いてあるし、実践もしてきたという説明だったのである。
それ以来、共産党の政権問題への接近方法は、つねに「二本立て」であるべきだというのが、私の考え方になった。というか、それこそが政党だろうと思うようになったのである。(続)
2015年10月5日
その前に、私の『歴史認識をめぐる40章 「安倍談話」の裏表」ですが、ようやくアマゾンで安定的に供給されるようになりました。よろしければ、どうぞ。
戦争法のその後を考えた場合、いろいろな可能性を生みだしたのが、今回の闘争だったと思う。政権をどうするかを考えても、今後の展望として導かれる結論は一つではない。
その前提として、世論の動向がある。戦争法に反対する圧倒的世論が存在しているが、一方、内閣支持率を見ると、安倍政権を支持する人と支持しない人の割合は拮抗している。これをどう見るべきだろうか。
これまでも同様の傾向はあった。特定秘密保護法なども、世論は圧倒的に反対だったけど、それが通過したあとの選挙では、安倍政権が勝利している。今回の反対世論は、それとは比べものにならないものだったとは思うけれど、安倍内閣の支持率が大きく低下するようには見えない。
これは仮説であるけれど、安倍内閣を支持する側も、それに支持しない側も、きわめて強固な意志をもって態度を決めているように思える。安倍さんを批判する側は、もう顔を見るのもイヤというほど嫌っているけれど、支持する側もかなり強固である。支持する側だって、戦争法など個別政策に不安を感じるわけだが、それにもかかわらず政権選択は自民党なわけだ。安倍政権をめぐって、世論は深刻な分裂状態にある。
とはいえ、戦争法に反対する勢力が一つにまとまることを願う世論が強固になったのが今回の特徴であって、どの政党もその願いに対して何らかの回答が必要になった。誰もが指摘するように、与党と野党の支持率が拮抗しているわけだから、野党が基本政策での違いを脇におき、戦争法廃止の一点で協力しあい、候補者を一人に絞ることができれば勝利できる可能性があるわけである。
一致点が戦争法廃止というだけで政権共闘や選挙協力ができるのかという指摘がある。そこは、戦争法廃止ということの重みをどう捉えるかで違ってくる部分はある。おそらく、そういう道筋は、戦争法に反対だけど政権選択では安倍さんを支持するという層までを惹きつけることはできないだろうけど、自公支持層40%に対し、野党支持層40%がまとまればいい勝負になるのだから、「この問題で野党がまとまれ」という世論の盛り上がり次第では、不可能とまではいえないと思う。
ただし、戦争法廃止だけを一致点に統一候補を擁立し、廃止を実現した後、これ以外の課題での国の針路をめぐり、再び信を問うための総選挙をするのかどうかは微妙な問題だ。戦争法廃止を掲げる全野党が政権入りするという選択肢とともに、野党のうち基本政策で似通った政党だけで政権をつくるが、戦争法反対の課題においてだけは閣外からの協力を仰ぐという選択肢もあるからだ。後者の場合、選挙は一回で済む。
また、「一点共闘と政権共闘の間」という記事で指摘したことだが、戦争法の発動阻止という課題なら、政権をともにしないでも実現しうる。次の参議院選挙で野党が多数になれば、国会承認ができなくなるからだ。政権をともにする決断というのはハードルが高いけれど、これなら候補者を絞るといっても一点共闘の延長線上なので、そう難しくない。
要するに、選択肢はいろいろあるのであって、一つに決めず、国民世論を背景に野党間で真摯に話し合ってほしい。ただし、安倍政権の強固な支持層が4割程度いるということは、戦争法反対という課題だけで攻めても、4割の層を崩すのは簡単でないことを示している。歴史認識とか経済政策で安倍さんを支持する層を味方にしていくという戦略が必要であって、そういうところでバラバラな野党がどれほどの攻勢をかけられるのか、課題も大きい。(続)
2015年10月3日
最後です。国や東京電力は、「年間20ミリシーベルト被ばく相当の健康リスクは、喫煙、肥満、野菜不足などの他の発ガン要因によるリスクと比べても非常に低い」と主張しています。そして、20ミリシーベルト以下の地域への帰還政策を進めています。そういう状況下で、中谷内先生の証言は、いろいろと考えさせるものがありました。以下、引用。
非常に低いという論理は分析的システムによって理解はできるかもしれません。しかし、より優先する経験的システムや、それに基づくリスク認知2因子の特徴を考えると、容易に受け入れて、安心できるとは考えにくいです。
(2因子のうち「恐ろしさ」について)
今回の事故は、……炉心を制御できなかったという点が、制御可能性という点にあてはまります。 原子炉建屋が爆発する映像や防護服を着た人の映像などがくり返し報道されましたから、一般の人はどうしたって恐ろしいという感情を抱くことになります。
また、今回の事故で放出された放射性物質は、海外でも観測されており、世界的な惨事になる可能性もイメージできました。
……
(2因子のうち「未知性」について)
放射線や放射性物質は、目に見えませんし、音も出しませんし、匂いもしませんから、直接観察ができません。
放射線に被ばくしても、すぐに被ばくしたことや被曝量が分かるものでもありませんから、リスクにさらされていることを正確に理解することは困難です。……
過去に、放射性物質をめぐる事件としては、ビキニ事件やチェルノブイリなどの経験はありますが、日本では、一般市民が水や食品などの放射性物質を気にしなければならない事態ははじめてであり、市民にとっては、新しいリスクということができます。
放射線被ばくの健康影響については、……客観的に見れば、科学的研究は進んでいるということもできますが、とくに低線量被ばくについては、専門家の評価も分かれていると言われており、論争も続いていますから、一般の人から見れば、科学的理解が必ずしも進んでいるとは評価できにくいと思います。
(医学的な情報を提供すれば恐怖感は不安感は解消するか?)
必ずしもそうではありません。
まず、提供される情報は放射線被ばくというネガティブなもので、……そういった事について考えることそのものが心地よいものではありません。ガンや白血病の可能性について考えるのですから、そのこと自体が不安のもとになるでしょう。……情報を提供することで住民が不安になることがあるとしても、それはそれで進めるべきだと考えます。情報が隠ぺいされたり、何の情報もなく不安になるよりはよほど良い状況だと思います。ただ、よほど良いと言っても不安は不安でしょう。
……これは私の専門外なので、詳しく述べることは控えますが、低線量被爆のリスクについては、安全と考える見解や、逆に危険と考える見解など、さまざまな見解があります。そのような中で、一般人は、情報を判断することは困難です。むしろ、さまざまな情報があり、見解が分かれていること自体が、一般人の不安を増大させるとも言えます。
……情報の提供(リスクコミュニケーション)には、情報発信者に対する信頼が重要ですが、そのような信頼は得られていません。信頼には、「非対称原理」というものがあり、信頼を構築することは難しいが、一方で信頼が崩壊することは容易いとされています。原発事故後の政府や東電の対応を見れば、崩壊した信頼が回復することは、とても難しいと思います。
(欠如モデル)
欠如モデルとは、科学的知識について、一般人の側は欠けており、専門家の側は足りているということを暗黙の前提として、一般人は問題となっている科学的事象について、知識や理解がないために、非合理的な恐れや不安を抱くが、知識や理解があれば、そのような非合理的な恐れや不安を抱かなくなる、という考え方です。
しかし、アメリカでの研究などから、(前回指摘した二重過程理論などにより)欠如モデルは簡単に機能しないことが分かっています。
分析的システムを備えていても、経験的システムの判断を批判的にチェックするというよりも、むしろ、その判断を正当化する形で機能しやすい。……分析的システムを働かせる中で、これらたくさんの情報に接することになるので、その中から、自分の態度や行動を正当化するような情報をより選ぶ、ということです。
(その他)
(1次バイアスとは)人がある物事が起こる頻度の想定をする場合、実際には低頻度の事柄を過大視し、逆に、実際には高頻度の事柄を過小視するという、一般的な傾向です。
低線量被爆の発ガンリスクというのは、低頻度と考えられますので、1次バイアスによって、過大視するという傾向は、当てはまります。
(認知的一貫性とは)人間は自分のとった行動・態度に矛盾が生じないように動機づけられるというものです。避難した人は、自分劣った行動に矛盾が生じないように、放射線に対する不安を持ちつづけようとする心の動きがあります。一方、避難しなかった人は、自分のとった行動に矛盾が生じないように、放射線に対する不安を感じないようにしようという心の動きがあります。(了)
2015年10月2日
中谷内先生のお話は、続いて、一般人のリスク認知がどのようにして生まれるのか、その仕組みと背景に移っていく。その後、福島の問題に入っていくのだが、本日は、その前まで。(以下、引用)
二重過程理論は、最近の真価心理学や人間行動研究のシンポにより提唱されてきたものですが、人間の認知の仕組みの発達を合理的に説明できる仮説です。
二重過程理論によれば、人間の思考には二つのシステムがあるとされます。
一つは、経験的システムです。これは、①素早く無意識的に働き、おおざっぱな方向性を判断、②感情を伴い、直感的な評価をする、③イメージやストーリー、比喩による把握という特徴があります。
もう一つは、分析的システムです。これは、①時間をかけて意識的に働き、精密に判断、②理性的で論理に基づいた評価、③抽象的な言語、数字などによる把握という特徴があります。
経験的システムも分析的システムも働くのですが、日常生活の中でのリスクについては、どちらかと言えば、経験的システムが優越的に機能すると考えられます。
人間の進化の歴史を見てみると、狩猟生活の歴史が長かったのです。狩猟生活の中では、たくさんのデータを集めて時間をかけて判断しているヒマはありません。例えば、野生動物が接近しているのが分かった時、それを狩るか逃げるか、仲間が襲われたときに助けるか逃げるかなど、即座に判断しなければなりまあえん。そういった生活の中で、少ない情報で時間をかけずに適切な判断ができるように進化してきたのが、経験的システムなのです。経験的システムをうまく使って生き延びてきた結果の末裔が、私たち、すなわちいま生きている人間と言えます。
データを集めて、論理的に仮説を立てて検証していくという分析的システムは、人間が農耕や定住生活をはじめ、いわゆる古代文明を築いてから本格的に有効機能が始まったもので、せいぜい数千年くらいの歴史しかありません。
ある分野で専門家と呼ばれる人たちでも、自分の専門領域外では、分析的システムを用いて判断しているわけではありません。経済学者が、自分の配偶者を選ぶときに、冷静に効用を計算して選んでいるとは思えませんが、それは日常生活の中の判断では、経験的システムが優勢に働いているからだと考えられます。……
喫煙の健康リスクはかなり高いのですが、喫煙して平気でいる人でも、大気汚染については健康リスクを深刻に懸念するということが見られます。喫煙は、みずから選択していることであるのに対して、大気汚染は、受動的にさらされるという違いがあるため、自発的に接するリスクよりも受け入れにくいからです。……
(リスク認知の2因子モデル)
まず、第1因子として、「恐ろしさ」因子というものがあります。自分で容易に制御──たとえばリスクへの暴露を避けるなどができる──場合には、恐ろしさを感じにくくなりますし、自分では制御できない場合には、恐ろしさを感じやすくなるということがあります……。
次に、第2因子として「未知性」因子というものがあります。要するに、人間は、よくわからない、目で見てその場で確かめられないものは恐く感じるということです。……
この2因子モデルは、世界的なリスク認知研究の第一人者であるポール・スローヴィックによって80年代に提唱されたモデルですが、その後、日本を含む各国で研究調査がなされた結果、ほぼ同様の2つの因子がリスク認知の枠組みとしてあることがわかっています。
自転車の事故によって、日本では、年に700人もの死者が出ていると言われます。ですから、客観的には、自転車事故のリスクというのは、軽視できないものです。しかし、……自転車は、誰でも簡単に運転でき、世界的な惨事を引き起こす可能性もありませんから、恐ろしさを感じることも非常に少ないです。しかも、皆が日常的に利用しており、よく知っている乗り物ですから、未知数因子も低くなります。ですから、自転車事故に関しては、客観的なリスクよりも、一般の人はリスクを低く感じる傾向があるということです。
このようなことを理解することによって、例えば、自転車に関する安全意識を高める教育のあり方などの参考になり、社会的なリスク回避の取り組みに役立つと考えられます。専門家側が自転車のリスクは高いのは自明だと思っているところに、じつは、一般市民は自転車のリスクを軽視していること、そして、その理由はなぜかを教えてくれるので、コミュニケーションの方向性も出てくると思います。(続)