2013年8月6日
今年も原水禁世界大会に参加する。今晩は福岡に泊まって仕事をして、明日、長崎入りである。
国会の予算委員会を朝から晩まで傍聴してみると、それなりに勉強になる。とにかく日本で問題になっている論点が、あれもこれも出てきて、野党は野党なりの論理で突いてくるし、与党はそれに防戦する。
それで、何が勉強になるかというと、いわゆる真理が探究できるというようなものではない。だって、お互い真理の追求のために議論しているわけではなく、「俺たちの方が正しいだろう」ということを誇示してくるわけだ。どちらが正しいかは、テレビの向こうの有権者が判断する。
ただ、「ああ、与党というのは、こういう論理によって多数を占めているのだな」ということが実感できる。そのことが勉強になる。
この連載の主題とかかわっていうと、自民党政府の弱点のひとつは、戦前、侵略戦争を進める側にあった人びととその子孫が主流を占めているということである。ドイツやイタリアでは、戦前の支配層が復活できなかったのに、日本では、アメリカ占領軍の方針転換があって、そうならなかったのである。その問題をどうクリアーするかは、自民党が政権政党であり続けるために、きわめてナイーブで大事なことなのだ。
自民党がずっと重視してきたのは、ひとつは、日本はそれほどひどいことをやっていないという立場をまもることだった。だって、それをやってきた人たちで構成された党だから、そんなことになったら自己否定になるし、ひどいことをやった政党が政権を担うなんて、有権者に対しても説明できない。
ナチスの問題は、そういう立場をとる自民党にとって、重要な補強材料だった。だって、たしかに、ひとつの民族を抹殺するという計画をたて、それを実際に推進するということは、かなり特殊なことである。だからこそ、ジェノサイドというのは、それを禁止する特別の条約がつくられることにもなったし、国際刑事裁判所規程にある4つの罪の中でも、独自の位置を占めることにもなった。
どんなに解釈の幅を広げるとしても、戦前の日本が、このジェノサイドの罪に問われることはない。だから、自民党は、日本とドイツが犯した罪は違うのだということを堂々と表明してきたわけである。そういう立場を国会でも表明した。日本はドイツほどひどくなかったということは、ある意味で、日本人にも安堵をもたらし、自民党の長期政権を支えることになったかもしれない。
麻生さんは議員歴が長い。だから、国会の予算委員会とか、その他の委員会とか、それなりに出席していると思う。おそらく麻生さんは、そういうやりとりを何回も聞いていて、「こうやれば追及はかわせる」と思ったこともあるのだろう。だから、やはり、麻生さんがナチスを賛美する本音をもっているとは考えられない。
だけど、その程度のことだともいえる。麻生さんとかのナチスに対する認識は、どうやったら野党の(だから国民の)追及をかわせるかという程度のものであって、ナチスがどんな罪を犯したかという真摯な探究とかをふまえたものではない。
だから、本当にナチスが深刻な犯罪を犯したのだという、きびしい認識は、麻生さんなどには存在していないだろう。そんな程度だから、身内の集会だという安心感があると、あまり重大だと思わないまま、あんな重大な発言をしてしまうのではないだろうか。(続)
2013年8月5日
この問題はいろいろ考えさせるところがある。本筋のことはすでにいろいろ議論されているので、別の角度で論じてみたい。
麻生さんの言葉というのは、もともと論理的ではないので、長ければ長くなるほど意味が通じなくなってくる。いつものことだ。
今回の発言も、いろいろな要素があって、何が言いたいのか、伝わりにくい。ところがどういうわけか、今回の発言では、ナチスの手口に学んで日本でも改憲をしようという論理の筋が一貫しているので、そこを申し開きするのが難しい。論理的でない人が、そこだけ論理的なのだ。
そして、その論理的な部分は、身内の会合で気が緩んでいたからとはいえ、どうやっても弁解できない内容である。これでは、「撤回」しても納得してもらえるわけもなく、いくら自民党が多数を背景に押し切ろうとしても、簡単には決着しないだろう。
いや、それこそ前回の記事に書いた慰安婦像前での「おわびと反省」のように、安倍首相本人が別の歴史観に立っているのだと身をもって示さない限り、安倍政権そのものの問題になる。麻生さんだけの問題として決着させるのか、政権全体の問題にしてしまうのか、岐路に立たされた安倍さんの判断と行動が試されていると思う。
とはいえ、今度の麻生発言が、麻生さんを含む自民党の右派、タカ派の方々の本音かというと、私はそうは思わない。だって、誰もが「これは間違いなくナチスの手法を賛美した発言だ」と受け取れるような、そんな論理的な発言を、麻生さんにできるわけがない。論理的だからこそ、どこかおかしいのだ。
ま、それは半分だけ冗談だが、実際、これまで長年国会での議論などを聞いてきたが、どんなに右派の方であっても、ナチスを肯定する議論を口にするのは耳にしたことがない。というか、かれらも、ナチスを否定するということで、それなりに一貫してきたというのが私の実感である。
ただ、その否定の仕方は、自民党流ではある。私の記憶では、ナチスに対する認識が単独で問題になったことはない。いつも日本の戦前の過去との比較においてであった。
どういうことかというと、第二次大戦の敗戦国である日本、ドイツ、イタリアのことが持ち出され、国連憲章でそれら「旧敵国」が「侵略政策」をとったことが明記されていることが指摘されたりするわけだ。革新派の議員が、日本のやったことは過去を反省したドイツなどと同じだと指摘し、日本政府に反省を求めるのである。
その際、右派・タカ派の議員は、ナチスがひどいことをやったことを大いに強調しつつ、日本はそれほどまでにひどくないことを主張し、同列に置くなと反論するのである。そういう文脈でナチスの評価は何回も出てきた。ナチスも日本もひどくないと発言した人はいない。
しかし、そういう場で実際に議論されるのは、「侵略」問題ではない。ホロコーストである。ひとつの民族を抹殺するなどということは、日本は考えてもいなかったし、やってもいなかったというわけである。
この問題をどう考えるべきか。まずそのことだ。(続)
2013年8月2日
昨日、橋本元首相らの言葉を紹介した。この言葉をどういう内容にするかについて、政府や「アジア女性基金」のなかでいろいろな議論があったことは、よく知られている。
その評価は難しい。「人道的謝罪ではダメだ」という人は多い。しかし、少なくとも、慰安婦問題にかかわる市民運動が擁護している「河野談話」の線に沿ったものだとはいえる。
だから、市民運動としても、安倍首相に対して、「この内容を口にしてはダメだ」というのではなく、「せめてこの線で言葉を発するべきだ」と要求することは、道理に適ったことだと考える。それによって、慰安婦の方々の気持ちが少しでも癒やされるなら、市民運動としても喜ぶべきことではないか。
同時に、この線で謝罪を表明することは、何よりも安倍さんにとって大事だと考える。だから安倍さんには真剣に考えてほしいのだ。
日本政府とか大使館は、慰安婦像を設置するなと要求する際、政府としての取り組みを説明しているそうだ。おそらく、先の総理大臣の言葉とか女性基金について話して、努力しているのだからと強調するのだろう。
だけど、そういう説明をするなら、「だから慰安婦像は設置するな」ということにならないはずだ。何人もの総理大臣が、「おわびと反省」を慰安婦に対して表明しているのであって、慰安婦像の設置はその趣旨に沿ったものであるので当然歓迎している、除幕式には招待してほしいという論理になるべきものである。
それなのに、「設置するな」というから、慰安婦の事実を認めたくないのだとか、「おわびと反省」などしていないではないかとか、そう思われるのである。完全に筋を読み違えている。
「河野談話」とか「村山談話」とか言われれば、ハト派や社会党を嫌ってきた安倍さんの沽券に関わるかもしれない。しかし、歴代の自民党の総理大臣と同じ言葉で語れということだったら、安倍さん、何とかならないのだろうか。
昨日の産経新聞の報道では、引き続き、慰安婦像の設置がアメリカで計画されており、20箇所ぐらいに達する見込みのようである。その全てで今回と同じようなことになったら、アメリカの世論は安倍さんを追い詰めることになるだろう。それって、長期政権をねらう安倍さんにとって、歓迎したくない事態のはずである。
しかも、麻生さんのナチス発言もある。これを挽回しようと思えば、並大抵の言葉と行動では無理だ。安倍さんが次の慰安婦像の除幕式に出て、像に跪いて、この言葉を述べるならば、世論に大きな変化をもたらすだろう。
だから、私は引き続き、安倍さんには除幕式への出席を求めていきたい。市民運動にも、問題点を批判するのだけではなく、安倍さんに具体的に何を求めるのか、具体化してほしいと思う。
2013年8月1日
つい最近、このブログで「安倍さんは慰安婦像の除幕式に出たらどうか」と警告記事を書いたのだけれど、受け止めてもらえなかったようだ。残念である。
アメリカのカリフォルニア州・グレンデール市のことである。日本政府は結局、これまでと同じ対応をした。慰安婦問題を政治・外交問題にしてはならないという立場から、像の設置そのものに反対し続けたのである。
私は、ブログ記事のなかで、まずは橋本龍太郎から小泉純一郎までの首相が表明した慰安婦へのお詫びの言葉を、安倍さんが除幕式に出てくり返すべきだと書いた。どんなお詫びだったか知らない方もいるだろうから、以下、引用しておく。これは、オランダ首相への書簡の形式だが、ほぼ同内容のものを慰安婦個人に対してお渡ししたわけである。
我が国政府は、いわゆる従軍慰安婦問題に関して、道義的な責任を痛感しており、国民的な償いの気持ちを表すための事業を行っている「女性のためのアジア平和国民基金」と協力しつつ、この問題に対し誠実に対応してきております。
私は、いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題と認識しており、数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての元慰安婦の方々に対し心からのおわびと反省の気持ちを抱いていることを貴首相にお伝えしたいと思います。
そのような気持ちを具体化するため、貴国の関係者と話し合った結果、貴国においては、貴国に設立された事業実施委員会が、いわゆる従軍慰安婦問題に関し、先の大戦において困難を経験された方々に医療・福祉分野の財・サービスを提供する事業に対し、「女性のためのアジア平和国民基金」が支援を行っていくこととなりました。
日本国民の真摯な気持ちの表れである「女性のためのアジア平和国民基金」のこのような事業に対し、貴政府の御理解と御協力を頂ければ幸甚です。
我が国政府は、1995年の内閣総理大臣談話によって、我が国が過去の一時期に、貴国を含む多くの国々の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことに対し、あらためて痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明いたしました。現内閣においてもこの立場に変更はなく、私自身、昨年6月に貴国を訪問した際に、このような気持ちを込めて旧蘭領東インド記念碑に献花を行いました。
そして貴国との相互理解を一層増進することにより、ともに未来に向けた関係を構築していくことを目的とした「平和友好交流計画」の下で、歴史研究支援事業と交流事業を二本柱とした取り組みを進めてきております。
我々は、過去の重みからも未来への責任からも逃げるわけにはまいりません。我が国としては、過去の歴史を直視し、正しくこれを後世に伝えながら、2000年には交流400周年を迎える貴国との友好関係を更に増進することに全力を傾けてまいりたいと思います。
以上がお詫びの言葉である。多くの方は、これをどう受け止めるだろうか。(続)
2013年7月31日
離島の防衛というのは、そう簡単なことではない。本土から離れているわけで(だから離島なのだが)、部隊を投入するのも後方支援するのも、本土と同じようにはいかない。
もちろん、それは相手にとっても同じである。だから、離島の争奪戦というのは、お互いが本気を出すと、死にものぐるいの戦いになる。第二次大戦の末期、太平洋上の諸島を次々とアメリカに奪われていった経過を思い出せば、双方に耐え難いほどの犠牲を生みだすものであることが理解できると思う。
だから、本格的に相手が尖閣を奪取するつもりで大軍を派遣してきたとき、真剣に防衛しようと思うと、日本側のダメージも深刻なものとなるわけだ。昨日の記事で、政府・自民党の考えていることは、いったんは尖閣が奪われることが前提になっていると書いたけれども、被害を最小限に食い止めようとすれば、そういう判断も合理的なのかもしれない。人が住んでいる島なら、いくら合理的でもそういう決断を下すのは難しいだろうけど、そうではないのだから。
問題はその先である。奪い返し方である。防衛省のなかでは、ふたつの考え方があるらしい。
ひとつは、自衛隊に海兵隊機能をもたせて、上陸作戦を敢行して奪取するというものである。もうひとつは、制空権・制海権の優位を生かして、相手国による後方支援を断ち切り、上陸部隊を孤立させていくというものである。
政府・自民党で採用されようとしているのは、そのひとつめであり、昨日も紹介したものだ。だけどこれは、本日の記事の冒頭で書いたように、まさに総力戦を攻守ところを変えてやるものであり、犠牲の大きさは計り知れない。
ふたつめは、奪取するのに時間がかかるだろうが、犠牲の少ない選択肢である。尖閣のような島を奪ったとしても、自給自足はできないわけで、どうしても本土からの支援なしに上陸部隊は生きていくことはできない(だから、そんな島を本格的に奪いに来るのかということが、まず前提的に疑われなければならないのだが、軍事っていろいろな可能性を検討しないとダメなので)。その支援を断ち切ることは、現在の航空戦力、海上戦力の比較とかからして、日本にとって可能である。相手側の戦力が飛躍的に向上したり、尖閣に近い台湾を基地として使えるようになれば、事態は変わっていく可能性はあるが、しばらくそういうことはないと思われる。
時間がかかるという弱点も、その期間を、国際的な宣伝に費やすことでプラスに変えることもできる。いくら言い分があっても、領土を戦争によって奪うなど、現代の世界では絶対に許されないわけであって、国連その他の場でふつうに訴えれば、国際世論が味方につくことは間違いない。この選択肢は、外交力と結んで事態を解決するという点でも、ベターなものだと感じる。
ということで、やはり、自衛隊に海兵隊機能をというのは、勇ましく聞こえるが、犠牲だけが大きくて、周辺国の懸念だけをかきたてるもので、防衛下手・外交下手の国のやることだと感じる。どうでしょうか。