2013年6月4日
アフリカ開発会議はもう10年も前からやっていて、今年の開催も、別に安倍さんが決めたわけではない。だから、会議自体に政治的意図があるわけでないのは確かだ。
だけど、安倍さんの発言を聞いていると、どうもうさんくささがつきまという。何というか、中国に負けるなとか、中国を包囲しろとか、そんな思惑でやっているみたい。
だって、本来の目的は、あくまでアフリカ支援でしょ。アフリカ支援のためには何が大事で、どんなやり方がいいのかってことを、何よりも基準にしなくちゃならない。
そういう角度でみると、中国が支援することについて、あまり否定的に見てはいけないと思うのだ。他の国から援助を受けている国が別の国には援助してどうよ、という見方も存在するが、それもアフリカの立場に立って考えるとそう単純ではない。
だって、たとえば、空港などのインフラをつくる事業を日本と中国のどちからが請け負うとする。そのために両国が技術者を派遣しなければならないとする。その技術者の給与の額を考えてほしい。日本の方が圧倒的に高い。技術者の給与だけでなく、あらゆるものにそれは当てはまる。
ということで、同じ空港をつくるのに、中国からの援助を受けた方が、圧倒的に安くつくれるわけだ。あるいは、同じ額の支援なら、中国から受けた方がお得だということだ。アフリカが中国を選択するのは自然の流れである。
結局、大事なことは、日本が何をやったらアフリカ支援に効果的なのかということだろう。それを抜きに中国と競争しても仕方ないでしょ。
これ、先進国が開発途上国に援助するのではなく、開発途上国のうちの上位にある国が下位の開発途上国を援助するということで、よくやられている。この世界では、「南南援助」というヤツだ。
これからはアフリカの成長の時代だから支援するという安倍さんのものの言い方も、どうも気にかかる。結局、支援の最大の基準は日本経済のことかよと(それも大事だけど)、ついつい思ってしまうのだ。
でも、アフリカは、まだまだ紛争の地でもある。スーダンのことは、自衛隊も行っていて少しは報道されるが、他にもたとえばコンゴ民主共和国(昔のザイール)のこともある。
90年代末からの紛争で500万人以上、いまでも毎月4万5千人が亡くなっているという報道もある。毎年40万人がレイプされているという話もある。そういう事態に目をつむって、経済成長が見込まれるから日本企業が進出するという発言もどうかと思う。
このコンゴ、実は、紛争が開始された1999年、国連安保理が決議を採択し、集団的自衛権の発動をオーソライズしたことがある。安保理が集団的自衛権を認めるって、覚えているかなあ、その2年後の9.11の際の安保理決議のさきがけとなったものだ。
安倍さん、アフリカに本当に関心があるなら、まずコンゴで発動された集団的自衛権はどんなものだったか、それを視察に行ったらどうだろうか。集団的自衛権にもかかわらず何百万人もが亡くなったのはなぜかを究明することが、この秋以降の解釈改憲論議にとっても欠かせないだろう。どうでしょ。
2013年6月3日
全部書き終わって、出版社に送りました。この秋、安倍首相の懇談会が、解釈改憲で集団的自衛権を認めるようにしようという報告書を出す予定ですが、それと同時期に出版される予定です。
それにしても、書きながら、いろいろなことを思いました。たとえば、何があっても、安倍さんが総理の座にあるあいだだけは、集団的自衛権の行使を認めてはいけないことです。
だって、安倍さんは、何が侵略か分からないという人なのです。何が侵略か分からないというのは、その逆である「自衛」のことだって分からないということです。
集団的自衛権というのは、国連憲章の建前では、侵略(武力攻撃)が発生したとき、それへの反撃として発動される権利です。一応は、侵略というものの、対概念なのです。
その区別がつかないということは、自衛だといって軍事行動するけれども、実際は侵略するのかもしれないということです。侵略といっても国によって見方が違うとか、客観的な侵略の基準がないとかいっている人が、戦争するかしないかの判断をすると、そうならざるをえない。
実際、集団的自衛権をめぐっては、そういうことが起きてきたわけです。ソ連のアフガン介入だって、ソ連は、アフガニスタンに対して武力攻撃が発生しているといって、アフガンを攻めていったんです。アメリカの艦船に対して武力攻撃が発生しているといって、安倍さんが自衛隊に出動命令を出すことを考えると、同じようなことにならない保障がないでしょ。だって、何が侵略で、何が自衛なのか、かれには判断できないのだから。
しかもアメリカは、この連載ですでに書きましたが、自国の艦船が武力攻撃されたという状況をでっち上げ、ベトナムへの北爆を開始した国です(64年)。米艦船が本当に武力攻撃されたのかどうか、アメリカをはじめちゃんとした調査をして態度を決める国ならともかく、アメリカのいうことなら何でも信じるという日本政府、とくに安倍さんには、そんな判断を任せることはできません。
だけど、もっと難しいのは、さっき書いたように、集団的自衛権というのは、じつは侵略への対概念だということです。形式的には「正義」の概念なのです。だって、侵略された国を助けようということですから。
ということで、集団的自衛権を全否定してしまうと、論理がおかしくなるのです。ところが、日本の平和運動では、集団的自衛権って、ただただ忌み嫌うべきものになっている。そこをどう解きほぐして、安倍さんの野望を阻止する力にするか、その辺が一番力を入れたところです。
2013年5月31日
戦後の世界政治というのは、「自衛」をかかげた侵略の歴史でもあった。一方、だからこそなのであるが、自衛と侵略をどう区別するかという議論の歴史でもあった。
自衛権というのは、国際法上、三つの要件が必要とされる。第一は違法性の要件であって、武力攻撃をうけたということだ。第二は必要性の要件であって、武力で反撃する必要があるというか、外交手段では解決しないというものだ。第三は均衡性の要件であって、相手の侵略の規模に均衡する程度の反撃にとどめなければならないというものだ。
続きはこちら »
2013年5月30日
「戦争は自衛の名の下に始まった。自衛と侵略を区別することなどできない。だから、自衛権は当然という考え方は誤りだ」という見方がある。平和運動の側にたつ方からよく出される。
これは、物事の一側面をあらわす考え方ではある。日本の侵略も「自存自衛」で始まったのは事実だ。最近、集団的自衛権を論じたところで書いたが、戦後、集団的「自衛権」が行使された実例は、ほとんどが無法な侵略の代名詞であった。個別的「自衛権」の発動にも、同様の問題があった例は少なくない。
続きはこちら »
2013年5月29日
慰安婦問題での記者会見が話題になっているが、そのなかで河野談話の問題点を突いた箇所は、よくよく考えるべきところである。河野談話が強制連行の有無という核心的な論点を逃げているという批判である。
いや、河野談話は強制性を認めているよ、という立場の方もいるだろう。だけど、もし本当にそうなら、そのときに問題は解決していたのだ。国家が慰安婦になることを強制するなんて、当時も明白な違法行為だったから、違法性を認めた上で謝罪し、賠償するという話になったはずなのだ。
続きはこちら »