2015年11月27日

 この問題ではいろんな人が、いろんなことを言っている。納得できるものも、できないものもある。

 私は、大阪府の住民というだけで、ただ投票したにすぎなくて、この問題の全般を論じるほど考えてもいない。だけど、日本全体の問題に通じそうな部分については、一点だけ言っておきたいことがある。

 それは何かというと、大阪の自民党は、沖縄の自民党のようになるのかならないのか、そこを分析と行動の焦点にすることが必要なのではないかということだ。もっと直裁に言えば、大阪の自民党は、沖縄の自民党のように分裂するのかということになる。

 現在の安倍自民党がかつてとかなり異質になってきていることでは、多くの指摘がある。本当にそうだったら、もう自民党なんてイヤだという人が出てきそうだが、それほどでもない。安保法制をめぐって、一部の地方議員の離反のようなことはあったけれども、国会議員は「結束」していたし、地方議員の大半も反旗を翻すような感じではない。そこには、現在の安倍自民党の路線で国政選挙では3連勝しているという現実があって、議員の大半が自分の当選のためにも安倍さんを支えるという構図が横たわっているわけである。

 だから、根本的にはそこをくつがえすだけのものを身につけなければ勝てないわけだが、沖縄では、安倍さんの路線があまりにも行きすぎてしまったわけだ。そのために、自民党のなかに大量の離反があり、悪魔とみなしていた共産党とも手を組むことになったのである。保守と革新が手を組むことについて、お互いの陣営に戸惑いはあったし、最後まで克服できない部分もあったけれども、自民党と正面対決して勝利するだけの力をもつこととなった。

 大阪はどうなのだろうか。安倍さんは本音を口にはしないが、橋下維新と手を組みたくて仕方がないのだろう。これから安保法制の具体化、そして改憲へと進んでいくうえで、橋下維新の強大化と協力は不可欠である。

 大阪の自民党は、大阪都をめぐっては橋下維新と対決したわけだが、国政で安倍さんと橋下維新がめざす方向をめぐっては、どういう道を進んでいくのか。大阪都だけのことだったのか、改憲などでは橋下維新と協力する方向に進むのか。あるいは、沖縄のように、そういう路線は許せないといって、自覚的に行動する人たちが出てくるのか。

 自共が共闘したことについて、いろいろ否定的な論評も目に付く。しかし、沖縄においても、自共共闘ができあがり、新基地建設反対を貫く自民党が除名され、保革の共闘で巨大与党に全勝したのである。

 安倍自民党の変質のもとで、そういう方向性が求められているし、客観的には可能性も熟成している。というか、そうでないと巨大与党に勝つことはできない。そんな自覚をもって大阪の自民党を分析し、それにそって行動すべきではないかと考える。

2015年11月26日

 先日、東京で、子ども向けにイスラム問題をどう本にするかということを議論してきた。研究者とか編集者とか、イスラム教徒もいた。

 まあ、これを取り上げようとすると、当然これは不可欠、というものがあるよね。歴史はどうだとか、どんな教えなのかとか、政治社会はどうなっているかとか、等々。

 それを議論している最中、私にとっては衝撃的な発言が、ある研究者から出された。そういう論じ方が正しいのだろうかという問題提起だった。

 どういうことかというと、我々は何のちゅうちょもなく、何の前提もつけずに、「イスラム社会」と言うけれど、そんな社会があるのかということだった。それはこんな社会だと、あなたは言えるのかということだった。

 たとえば、欧州やアメリカや南米は、キリスト教が主流でキリスト教徒が多くて、歴史的にもキリスト教が歴史の形成と関わってきた。だからといって、そういう社会のことを「キリスト社会」とは言わない。それなのにイスラムだけを「イスラム社会」と呼んでしまうのは、それだけで正しい理解を妨げるのではないだろうかということだった。

 なんだか、深く考えさせられた。もちろん、その先生だって、イスラムの名を冠する研究機構に属していて、イスラムという言葉自体を全否定しているわけではない。57カ国13億人が参加する「イスラム協力機構」が存在するように、政治社会のなかでイスラムはキリスト教とは異なる位置づけを持つ。

 しかし、その「イスラム協力機構」だって、ムスリムがマイノリティである国でも参加しているというし、逆に1億5千万のムスリムのいるインドは加盟していない。何がイスラムかという定義は、そう簡単なことではないのだ。

 また、その日も議論になったのが、食事制限としてのハラールだが、世界的な統一基準があるわけでもなく、国その他でバラバラなのだそうだ。そして、ムスリムが少ない社会では、食べてはいけないものを明確にするため、ハラールが問題になるわけだが、ムスリムの多い中東では、その言葉さえ聞くことはあまりないという。ハラールを強調した本があるとして、ムスリムの多い社会では理解されないということになるのだろうか。

 ということで、その研究者の問題提起のなかには、イスラムをまっとうに理解するための要素があるように思えたのである。イスラムとは何かを定義する4冊セットの本の最後の巻は、「イスラムをどう定義してはならないか」というようなテーマが望ましいのかもしれない。

2015年11月25日

 私が関わっている「「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟」(生業訴訟)では、支援者のネットワークとして「なりわいネット」をつくっています。私はその呼びかけ人です。最近講演していただいた内田樹先生にも呼びかけ人になってもらいました。そこがニュースを刊行するので、短い記事を書きました。以下、その記事です。

 生業訴訟との直接の関わりは二つあります。原告団・弁護団の本を3冊出していることと、公判の度ごとに実施される講演会の講師をお呼びしていることです。

 3.11のあと、原発事故に関わる本を出し続け、20冊程度にはなっているでしょうか。初期に出した『福島は訴える』の著者の一人が、後に生業訴訟の原告団長となる中島孝さんで、事故から半年ほどたって浜通りを訪ねたとき知り合いになりました。

 本を出すのは出版社ですから当然です。1年目の3.11の日、弊社の著者である蓮池透さん、伊勢崎賢治さんに呼びかけ、相馬市で講演会とジャズコンサートを開き、旅行社に協力してもらって200名のツアーも実施しました。それ以来、2年目(相馬市)、3年目(福島市)もイベントをやり、4年目は生業訴訟の連続講演に関わりました。来年、5年目の3.11は、いわき市でイベント(寺尾紗穂さんのピアノコンサートと池田香代子さんのお話)をして、浜通りを北上するツアーに取り組みます。

 こんなことを書いていると、「福島のためにがんばっている人」と言われそうですが、実感は違います。1年目の3.11を前にして、「その日は福島にいなければならない」という強い思いが湧いてきたのです。そうでないと自分の人生ではないというか、納得できないというか。だから、言葉は悪いですけれど、自分自身のためなんです。

 けれども、今年の連続講演に取り組んでみて、そう考えるのが自分だけではないことに気づきました。浜矩子さん、白井聡さん、藻谷浩介さん、大友良英さん、内田樹さん、そして来年1月の想田和弘さんと、みなさん著名で忙しい方ばかりで、普通に本の執筆を頼むということなら、引き受けていただくのはそう簡単ではありません。しかし、福島に来て、原告を前にお話ししていただきたいと依頼したら、「非常に光栄です」「福島を訪れて何かやりたかった」「呼びかけてくれてありがとう」「これだけは断れない」と、みなさん自分のこととして受けとめ、引き受けてくださったのです。実際にお話しされた内容も、この方は被害者を前にするとこんなお話しをするのだと伝わってくるもので、闘う原告と心を通わせるような、その場でしか聞けないものでした。

 これら講演をまとめて、来年の3.11までに本のしたいと考えています。タイトルは『福島が日本を超える日』(仮)。原告の闘いが新しい日本をつくることにつながっていることを世に問いたいと思います。

2015年11月24日

 一昨日は、絶不調のなか、神戸でこのタイトルで講演してきました。しゃべりたいことがたくさんあったので、予期できたことですが、1時間半の予定が2時間しゃべりっぱなし。懇親会を質疑の場にしてもらいました。これだけ話せたので、もう大丈夫かな。以下、お話ししたレジメ。

 はじめに

一、60年安保闘争は何を導いたか
 1、掲げた課題がその後の政治の対立軸に
 2、闘った主体がその後の政治の対抗軸に
 3、80年代以降、軸の見えにくい時代へ

二、護憲の対立軸が大きく変化した
 1、専守防衛VS非武装中立が過去の対立軸
 2、専守防衛+非武装中立VS集団的自衛権へ
 3、変化の開始はイラク派兵・九条の会設立
 4、今回、自衛隊関係者が自覚的に参加した

三、手をつなぐべき改憲派が表れた
 1、改憲派の反対が運動を後押しした
 2、小林よしのり氏との対話を通じて
 3、改憲を口にする人にも味方はいる

四、過去への反省が共闘をつくった
 1、シールズ、学者の会等の参加の背景
 2、民主党系平和フォーラム福山氏の言葉
 3、共産党の転換と自衛隊問題への態度

五、現在の政治対立の状況をどう見るか
 1、来年の参議院選挙をめぐる状況
 2、反安倍勢力結集の展望は見えている
 3、反安倍勢力結集だけでは確実ではない

六、護憲と安倍政治退場のために
 1、保守勢力をどう結集するのか
 2、歴史認識をめぐる対立軸の転換
 3、経済政策の分野での保守の協力

 おわりに

2015年11月21日

 昨日の記事を書いたのは、出勤前の午前中でした。午後、少しの時間だけ仕事に出て、その際、各紙に目を通したのですが、「びっくりぽん!」でした。

 その前日の夜、テレビでニュースが流れました。『帝国の慰安婦』を書いた韓国の朴裕河さんが、その著書が名誉毀損にあたるとして起訴されたというニュースでした。これだけでもびっくりです。学問の自由、言論出版の自由への挑戦ですからね。

 それで、この重大問題が、各紙でどう扱われているのだろうと思って、昨日の昼間に各紙を見たわけですよ。そうしたら、取り上げているといえるのは読売だけで(日経も1段5行のベタ記事)、朝日、毎日、産経、京都、赤旗は沈黙していました。朝日はネット版読者なので検索してみたら、東京本社版だけは第3社会面で短く客観報道(賛否はあきらかにせず)してました。ネット版では産経も取り上げていました(他紙のネット版は確かめず)。

 読売は2面で事実報道をした上で、9面では上段の半分を3分の2くらい使って大きな論評をしています。読売でできたのですから、各紙ともこの程度の論評を書く時間は十分にあったと推察されます。それなのに、政治的立場の違いを超えて、読売以外は書かなかった(書けなかった?)。

 これ、深刻だと思いました(だから、休みの日にはブログを書かないという定めを破って書いてます)。慰安婦問題という重要な問題で、異なる立場が対立していて、だからこそ自由な議論を通じて、何らかの合意に向かわなければならない局面です。その程度のことは市民運動なら分かっていて、だから日韓首脳会談で妥結に向けて作業するという合意ができたという局面で、だけどどうしていいか分からずに戸惑っているわけです。その戸惑いを超えて本格的な議論を起こさなければならないときに、司法が一方の側の議論を封殺するというのですから、これほどの驚きはありません。

 最近の韓国の司法当局は、いま流行の言葉でいえば、立憲主義を踏み外していると言わざるをえません。まじめに国際法を学んでいれば、日韓条約と請求権協定で決着済みという解釈に異論が生まれつつはあっても、いまだにそれが主流であることくらいは分かるはずです。韓国の司法機関だから異論の側に立つという場合であっても、司法機関だという自負があるなら、主流の議論に対する目配りもない一方的な判決が下せるわけがありません。独裁政権が続いた長期間、独裁を助ける役割しか果たせず、そこから解放されて舞い上がった気持ちになっていることは理解します。しかし、この間、慰安婦や徴用工の問題などでの判決が世論の圧倒的支持を得たことで、司法機関というより、世論を扇動する機関に成り下がっていると言われても仕方がありません。

 それも韓国のこと。日本の言論機関はどうしたのでしょうか。朴裕河さんの今回の本は、私がこの春に出した『慰安婦問題をこれで終わらせる。』でふれたように、私の本の「生みの親」といえるもので、共感できるものです。もちろん、それに共感できない人がいることも知ってはいますが、著者が名誉毀損で起訴されるということについて批判もできないようでは、言論の自由の担い手として恥ずかしいのではないでしょうか。

 と思っていたら、本日、朝日は「社説」を出しましたね。「歴史観の訴追 韓国の自由の危機だ」という見出しが示すように、基本的なスタンスは読売とそうは変わらないものでした。

 昨日に記事で書いたように、慰安婦問題は、いまが最後の局面です。今回、解決しないとしたら、慰安婦が生きておられる間の解決はありません。朝日も産経も、それから他のメディアも、どうしたら解決するのか知恵を絞って、協力できるところはするのだという立場でがんばってほしい。

 今回のような韓国の判決の立場では慰安婦問題は解決しないという程度のことは日本の世論が一致しないと、本当にこの問題は解決しません。朴裕河さんが起訴されたことは許されませんが、それをきっかけとして、日本と韓国の世論が再び盛り上がってほしいと強く願いします。