2014年3月27日
昨日と同じく、来月に執筆する予定の本の準備稿。この一週間、風邪で悩まされていて、クリエイティブな仕事ができないので、書いたものをアップするだけです。
(論点)
グアムに飛んでいくミサイルなら、日本周辺を通過するので、迎撃可能では?
(解説)
「安保法制懇」は、アメリカ本土に向かうミサイルを迎撃できないことを各方面から指摘され、方向転換をはかりました。それがグアムに向かうミサイルの迎撃なら可能だというものです。これは「報告」が、集団的自衛権を容認する条件として、「日本の安全に重要な影響がある場合」に「限定」したこととも関わっています。米本土防衛のためということでは日本の安全と関係なさそうに見えるが、グアムなら日本に近いし、「放置していたら日本も危うくなる」と思わせられるので、国民の理解が得られやすいと考えたのでしょう。
しかし、国民の理解を得ようと「日本の安全」を持ち出したばかりに、かえって道理のなさがうきぼりになっています。どういうことでしょうか。
なぜかといえば、「日本の安全に重要な影響を与える」ような事態が発生しているとすれば、日本もいつミサイル攻撃を受けるのかということを心配しなければならないからです。そんなときに、日本のミサイル防衛システムをグアム方面に移動してしまえば、日本防衛がおろそかになるではありませんか。
現在、ミサイル防衛が可能なイージス艦は、合計で三隻しかありません。それが日本海に配備されています。ペトリオットシステムも入間、春日、岐阜、浜松の四箇所だけです。イージス艦の場合、日本海より北にある基地からミサイルが発射されるなら、日本海にいながらグアムに向かうミサイル対処射することも可能でしょうが、南にある基地から発射されることを想定すれば、三隻すべてを日本周辺に配置することはできません。ペトリオットの場合、そもそもグアムの陸地に配備しなければ役に立ちません。そして、いったんグアムまで移動させてしまえば、日本がミサイル攻撃される可能性があると判断しても、もどすのに何日もかかってしまいます。ミサイルは、発射台に装着して燃料を注入してから数時間後には発射でき、日本まで飛来するのに数分しかかからないのですから、そんな危ういことはできないはずです。
しかも、誰よりも当事者であるアメリカが、そんなことは望んでいないということです。一九九〇年代後半、新ガイドライン(日米防衛協力の指針)がつくられ、周辺事態法が策定される過程で、アメリカ側からは日本に対して、空港や港湾の仕様をはじめ千項目以上の要求が出されました。アメリカは、軍事作戦上必要だと思えば、日本国民がどう考えようが、強引に要求を押し通す国です。
けれども、グアム防衛のために日本のミサイル防衛システムを使えなどということは、これまで一度もアメリカ側から要求が出ていません。そもそもアメリカは、自国の防衛を他国に依存するというような考えはありません。NATO諸国にたいしてもそのようなことを求めたことはないし、だからこそNATO諸国の基地はアメリカの領土のなかに存在していないのです。
(要点)
日本防衛をないがしろにし、アメリカも望んでいない理由を持ちだして、集団的自衛権を国民に認めさせようなどという「安保法制懇」には、日本の防衛論議を任せられません。
2014年3月26日
毎日、何かしら話題になっているよね。「安保法制懇」の報告書が出るのが来月だから、当然かもしれない。以前予告したように、報告書が出たらすぐ、本を書くつもり(5月末発売予定)。タイトルとしては、少し長いけど、『集団的自衛権に関する「安保法制懇」報告書の論点』という感じだろうか。報告が出てから書くのだが、準備はしておかねばということで、少しだけ書いてみた。何十項目かの「論点」をとりあげ、1000字程度で解説し、最後に要点を書くという形式である。こんな感じなのだが、いかがでしょうか。
(論点)
アメリカ本土に向かうミサイルを自衛隊が撃ち落とすのは当然ではないか
(解説)
ロケットエンジンを利用して大気圏外に打ちあげられ、放物線を描いて目標に高速で落下するミサイルのことを、弾道ミサイルといいます。長いものでは一万キロメートル以上を飛ぶことが可能で、日本周辺から米本土まで到達することが可能です。
日本は、弾道ミサイルを撃ち落とすため、ふたつのシステムを持っています。ひとつは、大気圏外にまで到達したミサイルを、イージス艦が発射する迎撃ミサイルで撃ち落とすものです。もうひとつは、大気圏内に突入し目標に向かって落ちてくるものを、ペトリオットと呼ばれる地上に配備されたミサイルで撃ち落とすものです。
「旧報告書」は、「米国が弾道ミサイル攻撃によって甚大な被害を被るようになれば、我が国自身の防衛に深刻な影響を及ぼす」と主張しています。そして、「我が国が撃ち落とす能力を有するにもかかわらず撃ち落とさないことは、我が国の安全保障の基盤たる日米同盟を根幹から揺るがすことになるので、絶対に避けなければならない」と強調しています。
アメリカの国土が破壊され、国民の命が失われるかもしれないと言われれば、誰もが「何とかしてあげないと」と思うことでしょう。しかも、日本にはその能力があるとなれば、保有する能力を使って助けるべきだと考えるのは、自然な感情です。
しかし、この「旧報告書」の記述は、国民感情を利用したまったくのデタラメです。なぜならば、そのようなミサイルを撃つ落とす能力は、日本にはないからです。日本にないというだけでなく、在日米軍にもありません。
日本が保有する迎撃システムは、あくまで日本に向かって落ちてくることを想定して、日本周辺の海と日本の陸上に配備されます。落ちてくる軌道をコンピューターで推定し、迎撃ミサイルを打ちあげるのです。本当に迎撃できるかどうかは、実戦で試されていないので分かりませんが、近づいてくるから撃ち落とせるというのが前提です。
一方、アメリカ本土に向かうミサイルの場合、最短距離である北極圏を経由して飛んでいきます。日本からどんどん離れていくのです。遠ざかっていくミサイルを、後から打ちあげたミサイルで追いかけ、追いついて破壊するなどということは、現在の技術では不可能です。日本の技術であってもアメリカの技術であってもできません。
実際、自民党の石破幹事長も、近著(『日本人のための「集団的自衛権」入門』)で「確かにアメリカ本土に飛んでいくミサイルを日本から撃ち落とすことは現状できません」と、あっさりと認めています。「旧報告書」では、「能力を有するにもかかわらず撃ち落とさない」のは問題だ、だから解釈改憲だと大騒ぎしたのに、実際にはその前提がウソだったことを当事者が告白したのです。改憲勢力の側は、アメリカ防衛のことさえ真剣には考えていないということです。
(要点)
技術的に不可能だと分かっていながら、集団的自衛権を国民に認めさせるためにウソをつくような「報告書」には、国民の命にかかわる防衛問題を真剣に語る資格がありません。
2014年3月25日
クリミア問題がどう動くか、まだ分からない。大国が力尽くで領土を奪ったとき、それを奪い返すのは、そう簡単ではない。
ロシアにクリミアを放棄させるまで効果的に経済制裁を続けるには、制裁することで経済的に打撃を受ける国々を仲間に引きとどめるため、打撃に匹敵する利益を与えなければならないが、アメリカにはそこまでやる気持ちはないだろう。アメリカが他国をそれだけの規模で経済援助すれば、国内経済にはねかえってくるので、アメリカ政府がそう考えても、国民は拒否すると思われる。
多くの国民は、今回のことを、中国が尖閣を奪ってくることに引き寄せて考えているだろうと思う。私自身は、ロシアにとってのクリミアと、中国にとっての尖閣は全く異なるものだと考えている。中国は尖閣を奪うより、西太平洋全域でアメリカに匹敵する軍事能力の構築をめざしており、尖閣を奪取してそこに釘付けになるような戦略はとらないはずである。しかし、いまのような緊張状態のなかでは、不測の事態は起こりうるので、国民が心配する気持ちは理解する。
ただ、そういうことを想定しても、今回のクリミアが私たちに教えていることは、同じようなことが日本を舞台にして起きた時、アメリカが集団的自衛権を発動して、援助してくれるわけではないということだ。クリミアのように戦略上の要衝で、多くの人が居住するところでも軍事力を発動しないのだから、尖閣のために軍事行動するわけがない(一部の人は、そうならないよう、さらにアメリカの関心を惹くべきだと主張するだろうが)。
だから、尖閣のことを考えても、いま日本人が考えるべきは、集団的自衛権の憲法解釈を変えることではない。そうではなくて、個別的自衛権で何をやるのか、それを豊富化させることだと感じる。
数日前の朝日新聞に、元陸上幕僚長の冨澤さんが登場していた。そこで、「米軍から集団的自衛権行使を求められたこと」も、「日米共同訓練で話題になったことも」なかったとし、安倍さんの真意が軍事的な必要性から出たものでないことを指摘している。そして、安倍さんや安保法制懇の議論(4類型などの)について、「国民にとっても自衛官にとっても理解しづらい」と言っておられることは、本当にそうだと感じる。
だからやっぱり、「自衛隊を活かす会」の出番だ。先週の朝日新聞文化欄に載った記事を見て、NHKが取材要請をしてきた。国民にも自衛官にも理解できる提言が求められているものね。
4月以降年内の政治の世界は、安倍さんの路線VS自衛隊を活かす会の路線、という対決軸になっていくのだと思う(希望する?)。どうでしょ。
2014年3月24日
と言っても、なんのことか分からないだろうね。本日付「読売新聞」の1面トップ記事のことである。
安保法制懇が来月、集団的自衛権の解釈改憲についての報告書を出そうとしている。これまで、どういう場合に日本が集団的自衛権を行使するのか、それにどう制限をかけるのか、いろいろ議論されてきた。
そのなかで出てきた議論のひとつが、いわゆる四類型というものだ。たとえば、米本土に向かうミサイルを撃ち落とさないでいいのか、というようなもの。
これについては、以前書いたように、石破さんが「実際にはできない」ことを認めてしまった。ということで最近は、「グアムに向かうミサイル」という言い方になっている。だけど、グアムに日本のパトリオットを配備するんですか? パトリオットがぜんぶグアムにいって、日本にミサイルが落ちてきたら、どうするんですか。非現実的なところは、何も変わらない。
もうひとつが、日本近海で米艦船が攻撃を受けたときというものがあった。これについても、現実味を問題にする議論が多い。
だけど私は、昨年書いた『集団的自衛権の深層』(平凡社新書)のなかで、周辺事態で米中が交戦するという事態ならば、十分にあり得ることを指摘した。本日の読売の報道は、それを裏付けたものだといえる。
周辺事態法というのは、たとえば台湾海峡をめぐる緊張のなかで米中が交戦したとき、日本が米軍を後方支援するという枠組みである。日本が武力攻撃を受けたわけでもないのに、日本が事実上戦争にふみだすわけだから、大きな批判があった。
しかし、現実味ということでは、それなりのものがある。アメリカは、それを現実的なものだと考えたから、日本に対して千項目をこえる要求事項を提出し、日本側は、何ができるかを真剣に検討し、この法律の策定にいたったわけである。
けれども、それは、安倍さんの好きな言葉で表現すると、「狭義」の現実性である。「広義」の現実性はない。
どういうことかといえば、こういうことだ。そういう事態は起きる可能性はあるだろう。だけど、そういう事態に際して、日本が後方支援にとどまらず、米軍と肩を並べて中国に対する武力攻撃に踏み切るなど、誰も(安倍さん以外)望んでいないということだ。
いまの枠組みは、賛成する人にとっても、最良のものだ。武力攻撃しないということで憲法九条違反という批判を回避できる。
それだけではない。アメリカが戦争に負けるリスクを最小化するのである。
もし日本が最前線に出て、中国軍を攻撃することを想定すればいい。そんなことになれば、日本の侵略をうらみに思っている中国の人々は、絶対に屈服しない。勝利するまであきらめない。
アメリカは、そういうことが想定されるから、日本を後方支援にとどめようとしたわけだ。それが周辺事態法なのだ。
さあ、本当に、そういうことをするために、解釈改憲をするのか。安倍さんのお手並み拝見だね。
2014年3月20日
この間、こういう種類の本をつくってきた。『もしマルクスがドラッカーを読んだら、資本主義をどうマネジメントするだろう』とか、『右脳戦略論』とか。
こういう方向を、もっと本格的に進めたい。いま、池井戸潤の『ルーズヴェルト・ゲーム』を読み終えて、ほんとにそう思う。
これまで、ずいぶんと長い間、なんとなく企業というものを積極的に肯定しない世界に住んできた。株なんて、買ったこともなかったし。
だけど、それでは通用しないとも感じてきた。株価が下がっているのを喜ぶ左翼をみると、国民感情からかけ離れているなとも思ってきた。
それに、もともとマルクスは、株式会社というものを、社会主義に向かう要素と位置づけてきたわけだ。所有と経営が分離することを積極的に捉える立場である。
そして、数年前、生まれて初めて、株式会社というものに入社した。いまでは、その代表取締役である(形だけだけど)。
私が住んできたかつての世界からすると、株式会社というのは、利潤第一で、労働者とか消費者の利益を考えない組織である。しかし、実際に体験する企業経営というのは、そういうステレオタイプのものとは異なる。
だって、代表委取締役として見る書類では、そもそも利潤なんてほとんどない。そして、もし利潤をあげられるなら、もちろん銀行からの借金も返したいけれど、社員の薄給をなんとかしたいと思う。
池井戸の『空飛ぶタイヤ』とか『下町ロケット』などは、中小企業にもすばらしい面があることを、リアルに描いたものである。そして、『ルーズヴェルト・ゲーム』は、それを中堅企業にまで広げている。「大企業=悪」、「中小企業=善」というような単純な見方は、やはり通用しないわけである。
もちろん、資本と労働者の利害というのは、対立するわけである。しかし同時に、労働者は、会社での仕事にやり甲斐を感じているはずでもある。仕事に意味があると感じるから、そこに働くわけだと思う。
そういうものを、もっと肯定的に捉える立場でないと、労働者の共感を得ることも難しいのではないか。自分が搾取されていることへの怒りという問題と、しかしそれにもかかわらず自分の労働が社会を支えている誇りという問題を、統一的に捉える視点が必要だと感じる。
さて、そんな本が、はたしてできるのか。悩まなければならない。