2018年1月20日

 金曜日にブログ記事をアップしませんでした。実は、いつもの産経新聞デジタルiRonnaに記事を頼まれて、金曜日の朝に送ったので、それが掲載されたらブログに転載しようと思っていたんです。ところがなしのつぶて。他の記事を考えていなかったので、何もアップできなかったんです。なかなか難しいお題が与えられたので、他の人の記事が遅れているのかもしれません。ということで、お休みにもかかわらず、書いておきます。

 このタイトル、なんだと思いますか。先日、ある県の九条の会の定例の会合があって、そこで配布された資料のなかにチラシがありました。そのメインのタイトルなんです。

 チラシを発行しているのは「美しい日本の憲法をつくる国民の会」。そうです、あの日本会議系の改憲団体です。共同代表が櫻井よしこさん、田久保忠衛さん、三好達さん。

 裏側のメインタイトルは、「憲法に自衛隊を明記しよう!」です。安倍さんの加憲案を応援するためのチラシみたいですね。

 先ほどの田久保さんが日本会議の会長で、最近まで安倍さんの加憲案をののしっていました。安倍さんの加憲案を批判するため、「日本会議が主導でつくられた」と言う人がいますが、違っていたんですよ。でも、日本会議もようやく、加憲案でやっていくことで合意したみたいですね。目的を達成するため、「大異を捨てて大同につく」姿勢は見習わなければなりません。

 ところでこのチラシ、右上に判子が押されていて、「2017.12.16 常幹資料 議題2の30」とあります。何の資料なんでしょうね。

 それはともかく、このチラシ、心に響きます。自衛隊が「365日24時間、日本の守りに専念」していること、「国際平和協力活動に、世界各国で貢献」していること、「年間500回の災害救助へ」出動していることなどを列挙し、災害で子どもを助けている自衛官の姿が写真で映っています。これって、国民の実感に合っていて、それをふまえて「憲法に自衛隊を明記しよう!」と言われるわけですから、ほとんどの人は「納得!」という感じじゃないでしょうか。

 このチラシ、どういう意図で配布されたんでしょうね。それを見た人は、何を感じたんでしょうね。もしかして、改憲の根拠として「自衛隊にありがとう」とされているわけだから、護憲のために必要なのは「自衛隊はありがたくない」と宣伝することだとでも意思統一したんでしょうか。

 もしそうだったら、正反対だと思います。このチラシ、本当だったら、護憲派が率先してつくるべきものでした。

 オモテは、このチラシとまったく同じでいいと思います。「ありがとう自衛隊」をタイトルにもってきて、先ほどの文章と写真を持ってくるんです。

 でも、ウラは違っていて、タイトルは「憲法に自衛隊を明記しよう!」ではなく、「愛する自衛官を海外の戦場に送るな。だから加憲に反対しよう!」とするわけです。どうでしょうか。

2018年1月18日

 官邸と自民党の間で議論になっているようだが、これは疑問の余地がない。オリンピックに参加するとすぐに明確にすべきである。

 国会日程が不明で決められないと官邸は言っているようだ。しかし、その本意が、慰安婦問題での韓国政府の対応への不満にあることは、誰が見ても明らかである。それは良くない。

 いや、政治とスポーツは切り離すべきだなどと、書生論を言うつもりはない。慰安婦問題で攻勢に出るために参加すべきだと思うのだ。

 だって、安倍首相は、日韓政府合意が最善のものだと考えているわけである。最善のものということは、いまはどうかは別にして、韓国国民からもやがては受け入れられるという信念があるということだろう。

 それならば、韓国政府に問題があるからといって、コソコソしていてはいけない。自分は韓国国民にとっても恥ずかしいことはしていないという気持ちが伝わるよう、韓国国民の前に堂々と出て行くべきだ。

 オリンピックを観戦し、日本選手団を応援するのは当然である。それに加え、機会があれば、慰安婦問題での見解を韓国国民の前でも、あるいは慰安婦のところに出かけていってでも伝えるべきである。日韓政府合意にあるみずからの以下の言明をくり返し語るべきだ。

 「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」

 韓国政府は日和ったけれど、日本政府は堂々と説得した、それによって事態が動いた。そう言えるくらいの大きな構えで望むべきである。

2018年1月17日

 文在寅大統領が「日本政府に対して心からの謝罪を求める」と述べた。他方、日本と再交渉するわけではないというわけだから支離滅裂なのだが、私は、自分の心持ちというだけの角度で言うと、「心からの謝罪」を求める気持ちは理解できるのである。実際、日韓政府合意で表明された安倍首相の言葉が「心からの謝罪」だとは思えないからだ。

 だって、改めて論じるまでもなく、安倍首相をはじめ歴代自民党政権というのは、侵略と植民地支配を推し進めた勢力とその後継である。非自民の細川政権までは侵略戦争への反省表明はなかったし、社会党の村山首相までは植民地支配への謝罪もなかった。そういう流れにおされて、イヤイヤ対処してきたのが自民党政権であって、「心からの謝罪」などあり得ないわけだ。

 しかし、別の角度から言うと、そういう自民党政権を支持してきたのが戦後の日本国民であって、自民党に政権をまかせながら、「心からの謝罪をせよ」というのは二律背反である。実現不可能な要求なのだ。

 そこをしかしうまくやらないと隣国との関係がうまくいなかいので、河野談話や日韓政府合意が生まれたわけだ。「心から謝罪する」という言葉をその中に入れたわけだ。

 まあ、自民党のなかにもいろんなバリエーションはあって、河野さんが言うと「心からの謝罪」に聞こえるが、同じことを安倍さんが言ってもそうは聞こえないということはあるだろう。でも、発している言葉は、同じ自民党政権だから、同じ中身なのである。

 だから、「心からの謝罪」を求める文大統領の気持ちは分かるが、「こうすれば心からの謝罪になる」というものは存在しない。ましてや、日韓政府合意で「心からの謝罪」と言っているのに、「それは心からの謝罪ではないから、心からの謝罪を求める」と言っても意味不明なのだ。

 救いは、「法的謝罪」ということを、大統領も外相も言っていないことである。挺対協は求めているが、そこに依拠していたら台無しになる程度のことは、韓国政府は理解していることである。

 「謝罪のための新たな措置」(首相が慰安婦に手紙を出すとか)となると、日韓政府合意は間違っていたということになって、日本政府は受け入れられないと思う。だから、最近の別記事でも書いたように、日韓政府合意で盛られた「心からの謝罪」は将来にわたって堅持されるべきものだとして、それを日本政府に確認することが大事だと思う。「心からの謝罪」という気持ちは、2年前は持っていたが、いまは持っていないなどとは、日本政府といえでも言えないだろう。そこが大事だと思うのだが、どうだろうか。

2018年1月16日

 慰安婦問題はどうなるのだろうね。NHKや読売の世論調査では、韓国側の態度に理解を示す日本人は1割にも満たず、8割以上が日本政府を支持している。

 先日、その1割に属する人と飲んでいて、「なぜ、こんな世論になるのか、理解不能だ」と言っていた。「日本側は実質的に何もしていない。ドイツと大違いだ」と。

 それで、日本とドイツのことを、簡単に説明したのだ。戦争が終わったら敗戦国がどう償うかについて、いろいろな歴史的経過があるということを。

 ずっと長い間、それを国家と国家の間の条約で決着させるというのが、通常のやり方だった。日本もまた、サンフランシスコ条約や、それに続く各国との条約によって、それらを決着させてきた。性格は異なるが、韓国との間でも、それを日韓条約と請求権協定で決着させた。だから、決着済みというのは、国際法的に動かしがたいことなのである。

 一方のドイツは、戦後に国家が分断され、条約を結ぶ主体として問題があった。しかし、ナチスが犯した犯罪はあまりに重大で、統一されるまで待ってくださいとは言えなかった。だから、条約を結ぶことなく、被害者個々人に対して補償するという、新しい方式をとることになった。

 やり方が違うとはいえ、どちらも責任は果たしたのである。しかし、実際にやってみると、個々人に支払うドイツ方式が良いやり方のように思えた。

 第一次大戦後のベルサイユ条約でも、国家間の条約で賠償を取り立てる方式が継続していたが、総力戦の時代にふさわしく国民が動員され、国民が被害を被ったので、その賠償は国民の被害に対して支払われるという考え方が導入されていた。実際には個々人に支払われることはなかったが、そういう建前でもないと、被害者は納得しなかったということだ。

 ドイツ方式は、国民が戦争に巻き込まれる時代にふさわしかった。人権が大事にされる時代にもふさわしかった。

 しかし、法的な観点から見れば、日本も責任を果たしたことに変わりはない。謝罪する気持ちがどれだけあったかどうかとは別にして、法的責任は果たしたということだ。

 そうはいっても、人権問題、人道問題である。慰安婦の方々の訴えに心をかき乱される人びとの多かったわけで、何らかの人道的な措置が求められた。

 だから、河野談話以来、一昨年の日韓政府合意も含め、いろいろな努力がされてきたのだ。しかし、「まだ法的責任を果たしていない」という牢固な思い込みが、日韓の双方に存在してきた。

 それが、日本側に限って見ると、かなり減ってきたというのが現状だろう。あとは韓国側をどうするのかということが問われている。

 法的責任は条約を結べば果たされるが、それは形式的に責任を果たしたということで、心から悪いと思ってされた行為かどうかは別なのだ。そこをどう見るのか。明日も続きかな。

2018年1月15日

 朝鮮半島の南北協議は、早くもこのテーマに直面することになった。文在寅大統領がどこかの演説で北朝鮮の非核化にふれたところ、そういうことを求めるならオリンピックに代表団を派遣しないことを、金正恩が示唆したということだ。予想通りの展開だね。

 北朝鮮は、核・ミサイルの「完成」を宣言することによって(実際は完成にはほど遠いのに)、強気の態度をとれることとなった。すでに完成したものを放棄させるのと、未完成のものを完成させないのとでは、天と地ほどの差がある。政治の世界では(国際政治ではそれ以上に)、既得権に類するもの(領土の実効支配なども含め)の力は抜群なのである。

 これに屈して、非核化を直接に外交交渉で求めなくなる場合も当然だが、どこか無関係な別の場所の演説などでも非核化への言及がタブーになるような状態を、北朝鮮は望んでいるわけである。その積み重ねによって核保有国として事実上認められることになるからだ。インド、パキスタン、イスラエルが核兵器を保有しているが、だからといってどの国も国交を断絶することを問題にしないし、別に非核化を求めもしないわけで、北朝鮮にとってはその再現にしかすぎない。

 これは他人事ではない。日本との関係においても、北朝鮮はどこかで、「非核化を求めるなら拉致問題には取り組まない」と宣言するかもしれない。

 全然別のことだとか、日朝平壌宣言はそれらの包括的な解決をうたっているとか、もちろん反論はいくらでもできる。けれども、現実問題として北朝鮮がそう主張するのに日本が非核化を求め、「それなら非核化要求を取り下げるまで拉致の再調査もしない」と宣言されたら、被害者や家族の苦痛を放置することになるわけだから、対応はそう簡単ではなかろう。

 どう考えればいいのだろうか。これは難しい問題だ。
 これまでは、米朝枠組み合意においても6か国協議においても、北朝鮮が非核化(核・ミサイル開発の放棄)を達成すべきことは、議論のそもそもの前提だったわけである。どういう条件のもとでならそれが現実のものになるか、その条件をめぐっての交渉だったのである。

 しかし、今後は、それを前提にすると、北朝鮮は協議の場を設定すること自体に抵抗し、協議そのものが開始されないということだ。前提の見直しが求められるかもしれない。

 可能性があるのは、入口と出口を区別することだろう。入り口で合意できるのは、せいぜい「朝鮮半島における核問題の最終的な解決」みたいなところにする。それが出口としては非核化を意味するという解釈を各国がするからといって、北朝鮮は批判はしても席を蹴らないという程度は担保しておかないと、日本の世論は持たないと思うけれども。その上で、実質協議で何を求め、何を譲歩できるのかが勝負になるのかな。

 いずれにせよ、対話と交渉でこの問題を解決するって、気の遠くなるようなことである。誰のものでもいいから、少しは説得力ある主張を聞きたいものだ。いまから東京。