2018年1月12日

 昨日、某大新聞社のインタビューを受けていた。掲載されるのは2月になってからかな。

 答えながら感じて、インタビュアーにも伝えたことだけれど、改憲的護憲論は歯切れが良くない。改憲は絶対悪で護憲は絶対善(こんな言葉は聞いたことがないが)、あるいはその逆という立場ではないから、いきおい「絶対に護憲だ」という議論はしないわけである。そして、憲法論争で幅を利かしているのは、どちら側であれそういう絶対的な立場に立つ議論だから、私の論など、すきま産業のような議論に聞こえるだろう。

 しかし、そういう絶対的な立場というのは、改憲であれ護憲であれ、人数からするとそう多くないのではないかと感じる。ただ、これまで長い間、憲法論争はそういうものだったから、「これぞ憲法論争」というふうに見られているのだろう。

 けれども、目の前にいる多くの人びとは、そこには付いていけないのではないか。だって、人びとが期待しているのは、少しでも日本の安全保障環境が改善されるにはどんな憲法だったらいいのだろうということだろうから。

 九条が維持されたからといって、新安保法制もそのままだし、アメリカの戦争に協力させられるかどうかを迫られる日本の現状も変わらないし、「九条があれば平和国家」という議論に付いていける人は少ない。それにそれって、究極的にいえば、九条を変えないできた戦後の自民党政治を持ち上げる議論になってしまう。

 逆に、九条が変わったからといって、改憲論でもアメリカの戦争に協力することは前提になっているわけだから、「改憲されれば平和国家」というのも通用しない。アメリカに守ってもらう日本の平和という構図があることは否定しないが、アメリカと一緒だから戦争に協力することも否定できないわけである。

 憲法論議を通じて、そこをどうすればいいのかを突き詰めないと、せっかく戦後でも一番の国民的な議論がされるというのに、生産的な結果は生まれない。もしかしたら短期的に見れば、そして立憲的に考えれば、憲法の条文に手を入れることが、日本の平和を守るためにふさわしい場合だってあるだろう。だから、九条を維持するという場合、そこを肯定しつつ、「でも……」という説得的な提起が必要になるのだと思う。もっと考えなくちゃ。
 

2018年1月11日

 本日、3時間ほどにわたって、ある自衛官のお話を伺っていた。最後は陸将で、中央即応集団の司令官を務めた方である。安倍さんの加憲案で「自衛隊」が明記されるわけだから、その自衛隊の内部にいた方が発言するのは当然だと考え、昨年から何人かにインタビューを重ねている。

 生年は私と同じ。昭和30年。お父さんも自衛官であり、自分もそこを志すことに違和感はなかったが、小学校の提出書類などに父親の職業を「国家公務員」を書いて提出することには、何か割り切れない気持ちを抱えていた。ご自身は最後まで直接に体験したことはなかったが、「税金泥棒」と批判され、石を投げられることもある時代だったから、自分を納得させていたという。

 防衛大学に入り、1年のとき、担当教官が、「自衛官を志す人は好戦的とみなされることが多いが、一番先に命を差し出さなければならない自衛官が戦争を望むはずはなく、自衛官こそ平和主義者だ。そこに自信を持て」と言ったことが、ずっと記憶に残っている。

 自衛官としての歩みは、前半はまさにソ連との戦いにどう勝つのかがテーマだった。実際にソ連が北海道を占領した時、どう戦えばそれを既成事実とさせず、戦争を終わらせられるかを必死に考えた。

 一方、それを真剣に考えれば考えるほど、自衛隊に与えられている法的権限とのギャップに悩む。とはいえ、その権限を政治が与えないなら、その範囲でやるのが自衛官だとの思いもある。

 自衛隊が海外に派遣されるようになったソ連崩壊後は、そのギャップを身を以て体験する仕事に携わることになる。悩みながらの自衛官人生だったと思う。

 そういう自衛官にとって、「自衛隊」が憲法に明記され、違憲の存在だという見方が一掃されることは、本当にうれしいことだと感じる。しかし、世論調査を見ると、それに反対する国民も半数いて、世論が分かれている。

 そのことを考えると、九条を変えずに、法的な整備を積み重ねるやり方を否定するまでには至らない。自衛隊違憲という見方が残るのは悔しいけれど、日本の平和と安全のための環境が整備されることが一番大事だから。

 まあ、無理矢理ざっと要約すると、こんなお話だった。正確にはテープ起こしをし、他の方のお話とまとめて本にするけれど。

 こういう自衛官の使命感、苦悩に何の思いも馳せない改憲反対論は、やはり説得力を欠くだろうなあ。それが主流なだけに、なんとかしたいなと思う日々である。

2018年1月10日

 今回の新方針、韓国政府が何を問題だと捉えているのか、さっぱり分からない。河野外相は「まったく受け入れられない」と述べたそうだが、河野さんだって、何が受け入れられないのか、その中身が言えないのではないだろうか。

 この問題ではもともと、「法的責任を認め国家賠償を」という韓国側と、「人道的責任を認め何らかの措置を」という日本側が争ってきた。河野談話の段階で日本側はそれを「アジア女性基金」という形で具体化したが、「法的責任」という概念を使わず、「基金」にも民間が関わっていて「国家賠償」でなかったため、韓国側が反発し、問題がこじれてきたわけである。

 2年前の日韓政府合意は、そこをなんとかして乗り越えようとしたものだ。「法的責任か人道的責任か」では決着がつかないため、ただ「責任」を認めるとした。日本側が出すお金はすべて税金を使うことで、名目は国家賠償ではないが、実態は限りなく近づけるようにした。ゴマカシと言えばそうだろうが、ギリギリの決着だったと思う。だからこそ、韓国側の慰安婦も7割以上が受け取ることになったのだ。

 新方針で「法的責任」も「国家賠償」も求めることをしないというのは、韓国側の見識をあらわしたものだと感じる。そこを追及すると、はてしない泥沼に陥り、慰安婦の生あるうちに問題を終わらせられないという自覚があるということだ。

 ただ、それに変わって、まず韓国側がお金を払う意味が不明である。全額を日本の税金でというのが韓国側のこれまでの態度だったわけだが、それを韓国の税金に変えたところで、何が変わるのか。日本の税金をすでに受け取っている人は、それを戻して韓国の税金に変えると言われても困るだろうし、日本のカネは受け取れないと思っている人は、韓国からもらったといっても、日本との問題を解決したことにならない。

 それよりももっと意味不明なのは、日本側の「心からの謝罪が必要」ということである。いや、それ自体は当然であろう。しかし、河野談話に盛られた内容も、それを引き継いだ日韓政府合意での安倍首相の言明も、そういうものだったはずである。新方針だと、日本はこれまで「心からの謝罪」をしたことがないということになってしまう。それだと問題は再燃し、ずっと解決しない。

 韓国側が求めるべきは、河野談話と日韓政府合意に盛られた日本側の謝罪の水準を、これからも「最終的かつ不可逆的」なものとして堅持してほしいというものであるべきだ。それなら、新しいレベルのことを求めるものではないので、日本側としても受け入れられるはずである。一部には、日韓政府合意が最後の謝罪という見方もあるのだろうけれど、「日本国の首相として、改めて慰安婦としてあまたの苦痛を経験され心身にわたり癒やしがたい傷を負われた全ての方々に心からおわびと反省の気持ちを表明する」という安倍さんの言葉は、それが心からのものならば、内容的には将来にわたって堅持されるものであるはずなのだ。「最終的かつ不可逆的」なものとして。

 韓国側は、攻め方を大きく間違えているように思える。私が言っても仕方がないけれど。
 

2018年1月9日

 長い間お休みしました。仕事始めは5日でしたし、6日は『泥憲和全集』の打合せで姫路に行ったりして、仕事はしていたんですけど、中途半端に記事を書いても何だかなあと思って、ブログはお休みしていました。今年もよろしくお願いします。

 仕事始めの日に会社で何か挨拶しろと言われ、「今年は勝負の年ですね。お互いに支え合って進みましょう」と述べました。憲法自体というより、その議論を通じて戦後はじめて、地に足のついた安全保障の議論ができるかどうか。その勝負の年だと思います。今年もそのテーマでたくさん書いていきます。

 さて、論じるべきことはたくさんありますね。本日は朝鮮半島の南北会談の話題にしましょうか。

 昨年末にも書いたことですが、北朝鮮が対話に乗り出してくることは、「核・ミサイルの完成」を声明した時に予想されていました。完成もしてないのに「完成」と言い張るわけですから、完成がほど遠いことを宣言したようなものです。あと少しで完成するなら、こんなことは言いませんよ。

 それでも、「完成」と称したのは、1つは内向けのもので、誇りをかき立てて結束を固めるということでしょう。よくある手口です。
 
もう1つは、「完成」に時間がかかるなら、現状で外向けには核保有国と宣言し、それを認めさせることです。核保有国と宣言しているのに、外交の場で核放棄を求められても認めないという実績が積み重なると、それだけで現状の容認ということにつながっていくわけで、それをねらっているんでしょうね。

 それでも対話がされるのは良いことです。韓国は外交力を試されます。

 まあ、今回の南北会談は、議題が平昌オリンピックに収斂されるようで、核の現状を容認させるためのフェイントはないかもしれません。それならそんなに難しくならない可能性もあります。

 心配なのは、韓国が北朝鮮の核・ミサイル問題を本音でどう思っているかです。北朝鮮のミサイルが、アメリカ本土を脅かすにはほど遠いけれど、日本と韓国にとってそうでないことは共通なんです。

 だけど、北朝鮮が本気でミサイル実験を開始した10年以上前、『軍事研究』で軍事評論家の石川厳さん(元朝日新聞論説委員)が書いていましたが、韓国国民のなかには「南北が統一したらミサイル技術が韓国のものになるのでうれしい」と考える人もいるそうです。その辺りは、ただミサイルの標的としか自分を考えられない日本国民とは、かなり違っています。

 そして、韓国をそういう気持ちにさせないためには、日本政府は核兵器を絶対悪だと位置づけ世論を形成しないとダメなのに、核抑止力に頼る日本にはそれができない。困ったことですが、それが現実です。

 今後、対話が加速していけば、どんな対話なら意味があり、どんな対話は核・ミサイルの固定化につながるのかが、するどく問われていくでしょう。誰もが試されるような気がします。明日から東京です。来週も東京ですが。

2017年12月29日

 今年最後の記事でして、会社のメルマガに書いたものをアップします。その前に、『改憲的護憲論』で2題。
 集英社の「青春と読書」誌に書いた「『改憲的護憲論』に至った理由」がアップされています。ご覧いただけると幸いです。
 東浩紀さんに献本したんですけど、こんなことをつぶやいていただきました。「ゲンロン」に呼んでいただけるとうれしいです。
 来年1月は、某大新聞社のインタビューとか、某ネットメディアでの「バトル」とか、いろいろ予定されています。ご期待下さい。

(以下、メルマガの記事)

 2017年が終わろうとしています。この年は、みなさんにとって、どういう年だったでしょうか。来年は、どんな年にしたいでしょうか。

 メルマガの読者のみなさんにとって、今年の最大のイベントは、総選挙だったかもしれません。政治が変わるかもしれないという期待が生まれ、でもそれが裏切られる局面があり、しかしそれでも逆転に向かう動きもあって、波瀾万丈でしたよね。

 結局、安倍政権は衆参ともに3分の2を占めたままなので、がっかりしている人も多いでしょう。でも、私にとっては、政治が変わる可能性というか、そのための課題がようやく見えてきた年だったと思います。そして、そのカギとなるのは、弊社が10年前に出版した『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』以来ずっと取り組んでいるものですが、どうやって安全保障の新しい考え方を打ち出せるかにあると感じます。

 総選挙で躍進し、現在、安倍政治に替わる新しい政治の担い手の1つとみなされるのが、いわずとしれた立憲民主党です。政党の離合集散には目もくれず、頑張っていると思います。しかし一方、共産党を含む野党の共闘で政権をとるということには、きわめて消極的です。枝野さんは志位さんと同席する場になかなか出てこようとしません。

 その根源にあるのは、やはり安全保障政策の決定的な違いでしょう。日米安保も自衛隊もOKという立憲と、日米安保も自衛隊も廃止するという共産では、政策が違うどころか正反対を向いているわけですから、実際に政権をともにしたとして、どうやって政権を運営できるのか、有権者だって心配していると感じます。

 「一致点で運営すればいい」という立場もあるでしょうが、例えば5年に1回は訪れる「思いやり予算」のための協定締結だけでもいいから考えてもみてください。賛成の立憲と反対の共産がぶつかれば、それだけで政権は持たないでしょう。

 そこを回避するため、共産党は、野党連合政権では戦争法以前の自衛隊、日米安保条約は認めると述べています。法律も条約も認めるというのです。ということは、「思いやり予算」も認めるのかもしれません。

 そこまで共産党が譲歩しているのだから、他の他党も歩み寄ってほしいと願う人もいるでしょう。しかし一方で、安保も自衛隊も認めるという共産党中央委員会の方針を、現場の共産党員や支持者が受け入れられるのかという問題もあると思います。何十年も反対し続けてきたことに賛成するわけですから、簡単に受け入れられるとすると、そのほうが不自然でしょう。

 一方で、他の野党の立場に立ってみると、安保も自衛隊も解消すべきだというのが共産党の基本政策なのですから、本当に安保と自衛隊を共産党が認めてくれるのかという心配は消えないでしょう。最後の民進党代表だった前原さんは、共産党と組めなかった理由として安全保障政策での不一致をあげていましたが、そこでの不安は他の野党に共通して存在しているものです。

 ここをどうやって乗り越えられるかが、安倍政治に替わる政治をうちたてる上で決定的だと思います。具体的に言えば、野党が共通して「これだ」と言えるような、新しい安全保障の考え方を打ち出せるかどうかです。自衛隊と日米安保で正反対の方向を向いているが、その新しい考え方では同じ方向を向いていると言えるような、そんな共通の考え方です。

 そのキーワードになると思われるのは、「抑止力から自衛力へ」です。日米安保のどこがダメかと言ったら、その核心は「抑止力」です。抑止力とは、核兵器によって相手国を壊滅させることを宣言することであり、相手国を屈服させるやり方です。これは、相手国からの攻撃があって初めて反撃するという、日本の伝統的な「専守防衛」の考え方に反しています。現在の安倍政権は、専守防衛から反する道をどんどん進んでいます。

 鳩山由起夫さんが「抑止力を学べば学ぶほど」と言って普天間基地の辺野古移設に回帰して以来、民主党は「抑止力」を安全保障政策の中心に据えました。後継の民進党も同じでした。立憲民主党が年末に決めた綱領を見ると、「健全な日米同盟を軸」にするとしています。綱領では「核廃絶」もうたっていますが、核兵器禁止条約に対する態度は曖昧で、抑止力を否定するようなことはしていません。一方、「専守防衛」の立場も明確にしており、今後、核兵器禁止条約に対する態度が迫られるなかで、抑止力を再考する可能性が生まれ、新しい安全保障政策の確立に向かうことも考えられます。

 だからこそ、この局面で、抑止力に替わる新しい安全保障政策を提示していければ、それが野党共通の旗印となるのではないでしょうか。変化の可能性を現実のものとしていけるのではないでしょうか。

 10年前、弊社が出した『我、自衛隊を愛す 故に、憲法九条を守る』の本で、元自民党議員で防衛政務次官だった箕輪登さんが、「専守防衛を守れ」と声をあげました。7年前、防衛官僚トップだった柳澤協二さんが、弊社から『抑止力を問う』を出版し、専門の行政官の立場から抑止力に疑義を呈しました。

 憲法九条改正の国民投票が問題となる来年、これまでの出版をさらにパワーアップさせたいと思います。安倍政権に替わる受け皿となるような安全保障、自衛隊論に関わる本を次々と出して、そこを模索していきます。読者のみなさんの叱咤激励をお願いします。