2017年7月20日
このブログで、「信頼されない防衛大臣の進退」という4回連載の記事を書いたことがあるけれど、その開始日は3月31日だった。もう4か月も前なんだね。
その記事の冒頭で、某メディアに頼まれて寄稿したものだと書いている。どのメディアかというと、産経新聞デジタルのiRONNAだった。そこが「稲田朋美はもう限界かもしれない」という特集を組んだのだが、そのうちの一つだった。
私の記事のタイトルは、「自衛官の「矛盾」を放置し信頼を失った稲田氏は潔く身を引くべきだ」というもの。その最後は次のようなことばで締めくくっている。
「憲法9条の下での防衛大臣の仕事には特有の難しさがつきまとう。だからこそ苦労のしがいがあるポストでもある。防衛大臣たるもの、自分の身を捨ててでも、職務に邁進(まいしん)してほしい。それができないなら、潔く身を引くべきではないか。」
産経から依頼があったとき、この記事を寄稿するかどうか、ちょっと迷った。なぜなら、稲田さんが大臣にとどまることはもうガマンできないという声が高まっているので、左派の私にも書いてほしいという依頼だったからだ。産経新聞による稲田さん追い落としに利用されるかもしれないと躊躇したのだ。「自衛隊として投票をお願いしたい」という発言を受け、産経新聞が公然と稲田やめろの論調を明確にしているけれど、その素地はいまから4か月前にあったんだよね。実際、私は「信頼されない防衛大臣の進退」というタイトルで寄稿したのに、実際に掲載されたときは「自衛官の「矛盾」を放置し信頼を失った稲田氏は潔く身を引くべきだ」と、過激なものになっていた。
まあ、しかし、ここ数日の報道を見ると、稲田さんが辞任すべきことはますます明確だ。産経に利用されてもいいから、再度言っておく。
南スーダンの日報のデータが残っていたことについて、稲田さんは国会で3月、「報告を受けていない」と明言したのだ。ところが、報告を受けていたことが報道されはじめると昨日、「報告を受けたという認識はない」と答えたそうだ。
これって、自分の「認識」の問題にすり替えていこうということだよね。報告があったということが事実認定されても、自分の「認識」にはなっていないということにしておこうということだ。
だけど、これって、自衛隊が自分の暴走だと言われないよう、大臣に一生懸命報告しているのに、防衛大臣は「報告を受けたという認識はない」ということなんだよね。認識に残るような報告を自衛隊はしなかったということにして逃げようとするわけだ。その結果、「暴走する自衛隊」という印象操作をすることになるんだけれど、自分を守るためにはそれでやろうということだ。まあ、会議をやってもボヤッとしているだけで、ホントに何の認識もないのかもしれないけど、
そんな大臣のもとで自衛隊がちゃんと仕事できるわけないでしょ。アタマに来るなあ!
2017年7月19日
本日から、またまた東京です。昨日、『核兵器禁止条約の意義と課題』(表紙画像をご覧ください)を東京の印刷所に入稿したのですが、それを出力したものを宅急便でやり取りしていると、2日間余計な日が増えて、原水禁大会に間に合わない可能性があります。それで高い交通費を払って行くわけです。まあ、それに併せて、商売に関係する仕事もセットしますから、損するわけではありませんので。
ところで、全国のみなさん。これ以降、原水爆禁止運動は、これまでと違ってきますよ。核兵器禁止条約を日本でも批准させようという運動になってきます。自民党と公明党の政府がそれを拒否しているもとでは、批准する政府をつくろうという運動になるということでもあります。
そういう運動をするためには、この本の著者である冨田宏二さん(関西学院大学教授・政治思想、原水禁世界大会起草委員長)をお招きし、条約の意義と課題を勉強することが不可欠になります。冨田さんは、この条約とそれに至る長い長い議論に直接関わってこられた方であり、他に替わる人はいません。
すでにいくつかの県で、原水協や保険医協会やその他、冨田さんをお呼びした講演会が企画されていますが、もし直接につながりがないなら、私にご連絡ください。仲介します。
条約を批准する政府ということでは、それなりに真剣な議論が必要だと思います。アメリカの「核の傘」の下にある国が一つも賛成しなかったわけですから、同盟関係にあると批准できないという流れもできてくると思います。そうなってくると、民進党は及び腰になるでしょう。
この条約を批准する上では、核抑止力なり核の傘は否定することが不可欠だと思われます。しかしそれは、核に頼らない防衛政策を考える絶好の機会にもなります。核兵器も否定するが、通常兵器による防衛も否定するというのでは、国民も安心して条約の批准に賛成するということにはならないでしょう。
それをどう打ち出していくのか。野党共闘に臨む政策担当者の覚悟と力量が問われることになると思われます。
2017年7月18日
劉暁波さんの死が大きな問題になっている。外国での治療を望んでいたのに中国が邪魔をしたと報道されていて、当初、少し違和感があったのだ。天安門事件のあとに出国した活動家と異なり、劉さんはあくまで中国にとどまることによって、自分は苦しむけれど中国への愛を貫きとおすものだと思っていたからだ。
だけど、昨日の朝日新聞を見て、納得した。劉さんを支えて国内で一緒にがんばってきた奥さんの精神状態が深刻となり、その奥さんの希望を叶えるため海外行きを望んだらしい。自分の信念を変えるとしたら、そういう場合だということだよね。偉いなあ。
中国政府は、ネットを自由に操ったり、お墓に埋葬させないことで、劉さんの影響力を断ちきりたいと考えているのだろう。でも、劉さんの振る舞いは、中国のやり方の非道さをもっとも目に見えるかたちで示すためには、最善のものだったと考える。その思いはいつか結実するだろう。
てなことを週末に考えていたら、ちょっとした事件が起きた。現在、中国のある出版社との間で、弊社が出しているマルクスに関係した本を中国語で翻訳・出版する話が進んでいて、契約書のやり取りが進んでいた。ところが、何日経っても、何週間経っても、それが相手に届かないのだ。
そうしたら、相手の担当者が言うには、マルクスに関係する本だから当局が警戒して、没収されたかもしれないだって。そうか、中国でマルクスは警戒の対象なのか。少なくとも出版社が当局のことをそうみなしているということだ。
その話を週末、某大新聞社の編集幹部に伝えたら、大受け。「中国共産党が一番警戒しているのはプロレタリア革命が起きることかもしれない」だって。
そうだよね。客観的に見ると、中国って、政治的には封建制で、経済的には資本主義だ(イデオロギー的には共産主義と言いたいところだが、そんなことを言うと独裁も共産主義と言うのと同じなので言わない)。普通だったら、政治的に次に来るのは自由を求めるブルジョア革命だが、それを担うブルジョアジーは封建政治に庇護されることで、経済面での資本主義によってばく大な利益をあげている。
だから、中国で起きるとすると、政治的には自由を、経済的には資本主義の規制を求める革命である。それを担うのは、やはり抑圧されているプロレタリアートということになるんだろうな。
2017年7月14日
昨日の仕事の最後の2つでは、共通して安倍さんの加憲論のことが話題になった。私としても議論を通じて認識を深めることができた。
そのなかから1つだけあげるとすると、憲法改正国民投票に臨むに当たっては、現行9条を55点、加憲案を45点と位置づけるくらいがふさわしいのではということである。どういうことか。
加憲案に○か×かをというような形式で問うわけだから、えてして白か黒、善か悪、100点と0点みたいに位置づけやすい。しかし、今度問われるのは、そういうものではないように感じる。
現行9条は何世紀もの先の理想としては100点かもしれない。しかし、現実の目の前の世界では矛盾が深すぎて、通用しないところが多すぎる。
一方、加憲案は、たしかに護憲派が指摘するように、9条のいいところを崩す可能性はある。しかし、推進する側の人が、「現行9条の解釈を一ミリとも変えない」と言っていることも事実であり、たとえ可決されることがあっても、護憲派は「変えないと言っただろう」という立場で追及し、相手も(当面は)それを認めざるを得ない立場になる。
そういう点で、55点と45点程度の対立ではないかと感じる。もちろん9条が維持されればうれしいとは思うだろうが、残される矛盾の大きさを思うと、手放しで喜ぶようなものにはならない。一方、加憲案が通っても、どうやって政府の手を縛っていくかということに気を遣うだろうけれど、はげしく落胆するようなものにもならないと感じる。
この闘いでは、すでに安倍さんの側の論理は、解釈は変わらないのだから、安全保障を改善するという点についても変わらないことになる。他方、護憲の側も、現状を変えてはならないという立場である。すなわち、何も変えないことを主張する同士の闘いということになる。
それならば、文面を変えるか変えないかで争うことに集中するのではなく、この議論を通じて実質的に何を獲得していくのかが大事だと思う。例えば、日本の安全保障をどうしていくのか、核抑止力に替わる防衛政策という選択肢を提示していくとか、その防衛政策の観点から言うと沖縄から米軍基地は撤退させるべきだとか、そういう議論をして、国民のなかで少しでも合意を高めていくことが大事なような気がする。
加憲案が通るのであれ、現行9条が維持されるのであれ、そういう議論を通じて国民の認識が高まったかどうかが、国民投票が良かったかどうかのメルクマールになる。そんな位置づけで国民投票に臨みたいと考える。
2017年7月13日
本日、午前中は会議。東京と京都の間でテレビ会議である。
午後、3人の方とお会いするが、その最初は内藤功弁護士。自衛隊違憲判決の出た長沼訴訟をはじめ、自衛隊関連の訴訟では、常に内藤さんの名前が中心にある。弊社からも『憲法九条裁判闘争史』という名著を出しておられる。
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ka/0575.html
その本をつくったとき、不勉強を反省させられた。例えば長沼訴訟で自衛隊は憲法九条が保持しないとした「戦力」にあたるとされたわけであるが、内藤さんが弁護人として追及したのは、自衛隊がただの「戦力」だということではなかった。そうではなくて、自衛隊が米軍の事実上指揮下にあって、その作戦も米軍を補完するものであるということだった。
つまり政府は、日本防衛のために必要最小限度の実力組織は「戦力」とはいえないという論理を組み立てていたわけだが、内藤さんは日本防衛のためであっても実力組織は違憲という論理で闘ったわけではなかったということだ。日本防衛のためのものになっていないことを追及したのだ。そのため、そういう発言をしていた空自の源田実氏などを法廷に呼び、証言してもらったというわけだ。
イラク訴訟の名古屋高裁判決でも違憲とされたのは武装した米兵の輸送である。ということは、自衛隊の合憲論、違憲論さまざまあるが、日本防衛のための実力組織が違憲だということは、少なくとも裁判では焦点になってこなかった。実際、日本防衛もというか、日本国民の命や財産を守る行為を憲法違反だと認定するのって、いくら九条があってもそう簡単なことではないだろう。だから、みんないろいろ苦しんできたわけだし。
それを知ったのが5年前で、それ以降、長沼裁判のことをもっと知りたいと思っていたけど、忙しくてなかなか時間がとれなかった。だけどいま書いている本のなかで、私としてはじめて自衛隊の憲法問題に踏み込むことにしたので、勉強することにした。
そのため、すいれん舎から出ている「憲法9条事件資料集成 1」を読もうと思った。長沼訴訟の全記録である。これ以上の資料はないけれど、何と言っても値段が高い。15万円+税。とても買えない。これを置いている図書館を探して、関西にもいくつかあったのだけれど、図書館での利用はいろいろ制約もあるから、自宅でしばらく読み漁れるようにしたいと思ったわけ。それで内藤さんにお電話したら、予想通り、すいれん舎から贈呈を受けておられて、お借りできることになった。
どれほどの分量なのか、予想もつかない。段ボール箱一つで足りるんだろうか。