2015年11月18日

 昨日の夜、福島から戻り、本日と明日は東京。イスラムに関する学校図書館向けの本の打ち合わせとか、野党の連携に向けた政治状況の調査とか、その他その他。

 ということで、出張する前に、大阪府知事選挙の投票を済ませてきた。自民党に投票することには何の戸惑いもなかったけれど、感慨はあったかな。こんな時代になったのだという感慨。

 聞くところによると、大阪の共産党支持者のうち、自民党候補に入れると答えているのは6割程度だそうだ。これを多いと見るか少ないと見るか。

 「自共対決」が強調されていた時期のことを考えると、6割もが自民党に投票するなんてあり得ない、ということになるだろう。一方、政党が決定すればそれに従うのが共産党だというイメージをもつ人々にとっては、4割もが反旗をひるがえすのは予想外ということになろう。維新候補の優勢が伝えられる中で、この4割はどう動くだろうか。「反自民」を貫くのか、妥協をよしとするのか。

 これに続く参議院選挙では、もっといろいろな組み合わせが出てくるのだろうと思う。それについていくには、政権のための選挙協力というものを、もっとドライに考える習慣が身につかないとダメだと感じる。

 いま民主党などのなかから、「基本政策が違うのに選挙協力はできない」という声が聞こえてくる。一方、その同じ言葉を、これまでずっと共産党が使ってきた。「基本政策が違うのに選挙協力はできない」というのが、政治の世界での常識だったわけだ。そこを崩していくのは容易ではない。何十年もかけて常識となってきたものだから、本当なら、1回の選挙で克服することの方が無理があるのだと思う。

 選挙というのは、基本政策の異なる政党が、違いを脇において、どう一致点で協力しあうのかだということが常識になる時代というのは、本当にドライさが必要である。沖縄の新基地建設とか、再来年春の消費税引き上げとか、いろいろ要求はあるけれど、一致するのは戦争法関連だけというのは、少なくない有権者にとっては苦渋の決断を強いられるということでもある。辺野古移設を掲げている候補しか選択肢がないということだって考えられるのだから。

 でも、そこに慣れていかないと、これからの時代は乗り越えられないのだろうね。それはどんな時代なのだろうか。