2018年9月5日

 昨日は台風で大わらわ。当然、福知山で行われる予定だった講演会は中止。テレビを見ていたら、講演開始予定の午後二時半、福知山も大雨暴風警報が出ましたしね。私は、自宅に籠もって、風で飛んできたものが窓を破る可能性があるので、カーテンを閉め、窓から離れたところで書き物をして過ごしました。本日も忙しいので、『北朝鮮というジレンマ』の第三章「ジレンマの核心」の冒頭部分をご紹介。

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 ○○年○月○日
 兄は一九六〇年に北朝鮮に帰国した。「共和国で立派な学者になり、社会主義建設に役立つ働き手になる」が口癖だった。翌年には姉も帰国する。
 父や朝鮮総連の少しは名の知れた活動家。母も女性同盟の活動家だ。そして自身もかつて在日本朝鮮青年同盟の専従者であった。いわば活動家家族なのである。
 兄は出発の時、「落ち着いたらすぐお前を呼ぶから。そうしたら家族みんなで一緒に帰ってこい」と言葉をかけてくれた。
 それから二十数年。兄と姉から届く手紙は、ありとあらゆるものを送ってほしいというものだけ。帰国を促す手紙は来ない。どうしても会わずにおれないと思い、朝鮮総連の訪問団の一行として万景峰(まんぎょんぼん)号に乗り、ようやくたどり着いた北朝鮮の清津港であった。船から見える山の中腹には、「偉大な首領金日成元帥万歳!」の白い文字が見える。
 しかし、出迎えの人の中に、兄も姉もいない。歓迎式典は金主席の巨大な肖像画に頭を下げるところから開始されるが、式典が終わってもやってこない。その後も、バスや汽車に乗せられていろいろなところを訪れ、金日成の像に「歓迎」され、金日成の「天才的指導」の成果である工場や農場を見せられ、人びとがいかに「ほかにうらやむものがないほど幸福な生活」を送っているかを説明されるが、兄と姉には会えない。いや、兄と姉に会えないどころか、公式用語しか話さない人とは出会えるが、そこで暮らす生身の人間にも接触できない。バスから汽車に乗り換えるにも、一般の人の通れない「特別の裏口」が用意されているのだ。ただ、遠くから眺めることはできるので、北朝鮮の人びとの身体が、自分たち在日より一回り小さいことは分かる。
 数日後、ようやく汽車は平壌駅に到着する。しかし、やなり兄も姉もいない。平壌での日課は「学習、学習、また学習」である。日本のようにいろんなことを伝えてくれる新聞や電波もないので、金日成の生家や工場、博物館などを次々と訪ね、ただただ共和国の偉大な成果とそれを生んだ金日成の指導を学ぶのだ。ただし、一人で散歩することは許されない。一般の人と会わないよう隔離するのだ。なお、あとで分かったことだが、平壌には「思想性の低い」ものは住めない。人の衣装も家屋もこれまで見てきたよりも良さそうだ。到着日は一日に四回、金日成像におじぎを強要された。その金日成が住んでいるという「宮殿」も遠くから見える。日本の皇居に勝るとも劣らない。二千数百人の使用人がいるそうで(中に入れないので確かめられないが)、主人は、特別農場や牧場でつくられた野菜や牛肉しか食べない。いや、海外のものなら、松阪牛も食べるそうだが。
 十数日を経て、平壌を出て、地方学習の旅になる。兄と姉に会えるかもしれない。日本から同行した一人は、ただちに帰国した自分の息子に会うことができた。しかし、なかなか息子だと分からなかった。なぜなら、親である自分より老けていて、やせ細っていたからだ。
 日本を出発して一九日目、ようやく姉と会うことができた。ただただ胸を抱き、泣くだけだった。けれども、なぜ兄が来ないのかの問いには、寂しそうな顔で、「家族訪問の時に分かる」と答えるだけ。納得できずに問い詰めると、「社会主義建設に忙しくて」。日本にある朝鮮高校の同窓生から、帰国した弟に会ってきてほしいと依頼されていて、会えることができた。その弟は、「この部屋は盗聴器があるから」と別の部屋に行き、「二つも盗聴器をつける予算はないから」と、驚くべき体験を語ってくれる。帰国前は「地上の楽園」と思っていたが、その日から衣食住に事欠く生活で、わずか二日で、奈落の底に突き落とされる。逃亡を企てた帰国同胞は後を絶たなかったが、政府は公開銃殺でそれに応えた。国全体が刑務所のようなものだ。
 そして日本を出てから二七日目。ようやく「家庭訪問」である。兄の家庭を訪ねるのだ。しかし家庭に着くまえに、まず金日成像へのお参りである。そして家の前へ。しかし兄の姿は見えない。姉と会ったときに抱いた不吉な予感は当たった。姉から案内されたのは兄のお墓だったのだ。お墓の前で誓った。
 「兄さん、奴らでしょう。〝首領さまの国にダマされて連れてこられた十万もの純粋無垢な在日同胞をいじめ、痛めつけているのは。この恨みはいつの日か、きっと晴らしてやる」
(金元祚『凍土の共和国──北朝鮮幻滅紀行』(一九八四年刊行)より筆者による要約)