2017年5月23日

 今回は安彦さんの本とはあまり関係がない。自分自身の反省、自己批判である。

 昨日の主題に取り上げた「トロツキスト暴力集団」。これって、私が大学に入学した当時、共産党やその系列の学生運動の常用熟語のようなものだった。その言葉を使うのを、周りの誰もおかしいと思っていなかった。

 共産党だけが使うのなら、まだ分かる。昨日書いたように、スターリンがトロツキーを批判していて、共産党もその延長線上で思考していたからだ。56年のスターリン批判の際に、当時のブントと同様「ソ連は社会主義ではない」という見地に達していたら、トロツキーに対して別の評価もあっただろうが、そうではなかったからだ。

 しかし、全学連が使っていたのは、かなり違和感のあることだった。説明するまでもなく、全学連というのは学生全員が加盟している自治会の連合体であって、特定の思想集団ではない。その全学連が、学生の一部を「トロツキスト」と共産党と同じ用語で呼び、批判するわけである。しかも、じゃあトロツキーの本を読んでいるかというと、誰も読んでいない(私が最初にトロツキーの本『ロシア革命史』を読んだのは30代になってから)。

 言い訳はあった。57年にみずから「日本トロツキスト連盟」を名乗った潮流があったので、「自分でそう言っているから使っているだけだ」という言い訳だ。それにしても、その名前の連盟は1年も経たずに解散したわけで、一般の学生にとって通用するものではなかっただろう。

 問題はその後である。80年代末、共産党は「トロツキスト暴力集団」に変えて、「ニセ左翼暴力集団」という用語を使い始める。私は当時、全学連の指導部にいたのだが、全学連もまた「ニセ左翼暴力集団」という同じ用語を採用したのである。とくに議論することもなく。

 共産党にとっては、「トロツキスト」という言葉に意味があったように、「ニセ左翼」にも意味があったと思う。暴力集団が過激な行動をくり返していて、しかもメディアや社会から、左翼的な集団だと位置づけられていて、それが左翼ということでは共産党も同じだというイメージにつながっていたので、それを払拭する意味があったのだろうと思う。

 けれども、全学連は違うはずだ。先ほど書いたように全員加盟制自治会の連合体である。その傘下にある学生を左翼と右翼に分けたり、左翼を本物が偽物かに分けたりすること自体が、正常な感覚からすればズレていたと感じる。しかし私自身、何か変だなという気分はあったが、特に異論を唱えるでもなく、決定に従うことになってしまう。

 当時、共産党で全学連を指導していた人は、たいへん立派な人で、私の人生の師のような人である。学生自治会の役員には創価学会員や無党派の人も入れて、共産党の独断専行にならないようにしろなどと、口を酸っぱくして言っていた。それでも、暴力集団をどう位置づけどう闘うかということになると、やはり命がけで闘った経験から来るのだろうか、誰もが同じ思考をして当然と考えるようなところはあった。

 ただそれも、共産党の側の問題であって、全学連は別の思考回路があって当然だったと思う。学生運動に責任を持っている人間として、責任を果たすことと共産党の考え方が矛盾すれば、それを指摘し、解決しなければならなかった。学生運動の現状を見るにつけ、自分の頭で考えないことが何をもたらすかを、後悔の念でいつも振り返ることになる。

 違和感を感じたら、黙ってしまうのではなく、徹底的に考え抜き、納得するまで議論する。それは私のその後の人生にとっての大きな教訓である。(続)