2018年8月8日

 国連人権理事会の報告書は、いろいろ具体的な事例を引いて、それがどんなに問題なのかを論じたあとで、じゃあ全体として北朝鮮の犯している問題の性格はどんなものかに入っていく。そのあとで、さらに、北朝鮮という国家の性格を規定していく。

 この報告書はもともと、北朝鮮の人権問題が、人権侵害にとどまるのか、それとも「人道に対する罪に相当しうる」のかを明らかにすることを目的としていた。結論はいうまでもなく、「人道に対する罪に相当しうる」というものである。

 改めて解説するまでもなく、「人道に対する罪」という規定は重い。そもそもこの概念は、ユダヤ人を虐殺したナチスの犯罪を裁くため、それまでの犯罪概念では該当するような罪がなかったので、新しくつくられた概念なのである。

 それまでだったら、「それは殺人だね」とか「権利の剥奪だね」とか、個別の犯罪概念で対応できた。しかし、ナチスによるユダヤ人虐殺というのは、そういうものとは違っていたわけだ。

 どこが違うかというと、その虐殺が意図され、計画されたものだったということと(つまり何か別の意図でやろうとしたことがあって、その過程で虐殺が付随したものではないということ)、その犯罪の規模が「広範または組織的な攻撃」だったということである。

 体制に批判的な人びとが政治犯収容所に入れられ、これまで何十万人が殺されたという事実は、誰でもその種の犯罪だと理解できるだろう。しかし、それだけではない。

 90年代半ばに問題になった食糧危機でも何十万人もが亡くなっているわけだが、驚くべきことに、これも「人道に対する罪」に該当するとされている。支援してくれていたソ連などの崩壊とか、経済政策が間違っていたとか、国民を死亡させることを意図していない部分もあったわけだが、同時に、「北朝鮮は、政治体制及びその指導部を維持する目的で、故意に飢餓状態を悪化させ、多数の無辜の一般市民の生命を犠牲にすることにより、一般国民に対する組織的かつ広範な攻撃を先導してきた」と認定されているのである。

 拉致問題もそうだ。「北朝鮮の向上のための労働力及び技術力を獲得し、朝鮮半島の覇権闘争において北朝鮮を強化する目的で、組織的かつ広範な方法で多数の外国人の拉致および強制失踪を行った」とされている。

 犯罪を行ったとなれば、ナチスの幹部がニュルンベルク裁判で裁かれたように、北朝鮮の指導部も裁かれなければならないという問題に直面する。それは明日。

2018年8月7日

 ようやく450頁もある北朝鮮人権報告書を読み終えた。人間はやはりつねに勉強しなければならないと痛感した。ブログ記事を書く余裕がないほど頭が疲れているけど、少しだけ書いておく。明日からはもっと書こうかな。

 例えば拉致問題。ただでさえ解決困難だとみられていて、核・ミサイル問題が焦点となるなかで、どうするのかが問われている。

 以前、金正恩が指導者になったことで、解決する可能性が生まれたと思った時期があった。だって、拉致は金正日が指示した犯罪だったわけで、そのもとで解決しようと思っても難しかったわけだ。自分の責任につながっていくわけだから、経過や責任を曖昧にしようとするだろうし、そうなると日本側の感情が許さなくなる。でも、金正恩なら、自分のやったことではないので、責任を明確に出来ると思ったのである。

 けれども、金正恩の最高指導者の地位というのは、金正日が決めたもので、その金正日が神聖であることが金正恩の地位を現在のものにしている。金正日が拉致という犯罪を主導したと認定することは、金正恩の地位を脅かすことになる。だから、難しい。

 しかし、この報告書のなかには拉致問題を解決する基準のようなものが示されている。この報告書って、日本政府が推進した決議にもとづいて作成され、その中身も日本政府が支持しているもので、だからこそ短い核兵器禁止条約の訳文さえつくらない外務省が、これは全文訳しているわけだ。そこにこういう記述がある。以下、本日は紹介するだけに止める。

 「外国人に対して行われてきた強制失踪は遠い過去の犯罪ではない。これは現在も継続している犯罪であり、被害者の消息が完全に明らかにされるまで終結することはない。……強制失踪の場合、犯罪行為の全容が明らかになったときには被害者はすでに亡くなっていた、というのは残念ながら決して珍しいことではない。失踪者が実際に亡くなっていた場合、被害者の家族が気持ちに区切りをつけるためにも、当局者は失踪の状況を解明し、被害者の遺骨を家族のもとに送還することに全力を挙げることによって、継続中の犯罪を終結させるべきである。」

2018年8月6日

 「ジョン・カンギル氏は国家安全保衛部の地下取調所に拘禁された。韓国の国民と取引で会ったことによるスパイ容疑であった。拘禁されていた10か月間、ジョン氏はほとんど食べ物を与えられず、体重は75キロから36キロに落ちた。
 自白を引き出すため、ジョン氏は上下逆さづりにされて棍棒で殴打された。調査委員会が聞き取り調査を行った他の多数の証人と同様、ジョン氏もいわゆる「鳩拷問」にかけられた。「後ろ手にされた両手に手錠をかけられ、立ったり座ったりできないように吊られた」とジョン氏は述べている。……「見張っているものはいない。誰もいない。そして、立つことができない。眠ることもできない。こんな状態で3日、4日も吊られていると大小便を失禁する。不潔きわまりない。……「(鳩拷問は)拷問の中でも一番つらかった。あまりのつらさに死んだほうがましだと思った」」

 「泥さんを偲ぶ会」というタイトルをつけながら、まったく関係ない記事が出てきて、「ああ、こいつ、ついに暑さでやられたか」と思った人もいたでしょう。でも、大いに関係があるんです。

 『北朝鮮というジレンマ』という本を書くと言いましたが、それって、ある優秀な編集者に『泥憲和全集』の編集を丸投げする代償なんです。その人に『全集』の編集に専念してもらう替わりに、専念してもらっている期間、私が『ジレンマ』を書いて、その編集者がやっている出版社の仕事が滞らないようにするっていう仕組みです。

 出版界始まって以来の試みでしょうね。成功するかどうか分かりませんけれど。一番心配なのは、私が売れるような本を書けるかどうかです。頑張ります。

 ということで、昨日来、北朝鮮問題にのめり込んでいます。国連人権理事会の450頁もある北朝鮮の人権状況に関する調査報告を読んでいるんですが、驚くべき記述が続いています。昨日は全体の構造みたいな話だったのですが、本日読んでいる部分は、個別の実例の記述が多くて、上記のようなものが次から次へと続いています。

 「鳩拷問」って、イメージが湧きますか。報告書にはご丁寧に、拷問された人が描いた絵まで付いていますので、どうぞ。こういう国の体制を保障しようというのですから、覚悟が問われます。

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 まあ、とにかく、「泥さんを偲ぶ会」の日程をお知らせしておきますので、とりあえず参加したい方は空けておいてください。場所はもちろん姫路です。正式の招待は別途ということで。私が書くものと違って、『泥憲和全集』はすごいものが出来て、偲ぶ会の前に予約購入者にはお送りするつもりですので。

2018年8月3日

 相変わらず忙しいので、仕事でつくっている本のこと。9月に出すマルクス関連のもう一つです。

 2010年に1冊目が出た『若者よ、マルクスを読もう』ですが、14年に2冊目、16年に番外編と来て、4冊目になるんですね。9年で4冊というのは、まあ上出来ということにしておきます。

若マルⅢチラシ表

 今回、サブタイトルは、「アメリカとマルクス──生誕200年に」としました。いろんな要素が詰まっているのですが、とりわけ「アメリカとマルクス」という主題が徹底的に深められていて、こんな本、他にありません。

 帯のオモテは、「マルクスの見方、読み方が変わる」にしようと思います。帯のウラはこうしようかな。

*テキサスへの移住を夢みて、ドイツの国籍を離脱し、申請書類まで入手したマルクス。
*マルクスの同志であるドイツ系移民30万人は、南北戦争でリンカーンを支持して北軍の兵士に。
*大統領に再選されたリンカーンにマルクスは祝辞を送り、リンカーンからは謝辞が来た。

 昨日、初校ゲラを手に持って、内田樹さん、石川康宏さんのご自宅をまわってきました。酷暑のなかで無理をお願いしているので、ちょっとした手土産付き。

 この初校ゲラをつくるので、今週、無茶苦茶忙しかったんです。9月に発売できれば、1冊目から3冊目まで含めて注文をとって、昨日紹介した『200歳のマルクスなら……」とあわせて、書店の棚をマルクスで埋め尽くせるようにしたいなあ。5月のマルクスの誕生日は盛り上がらなかったけど、挽回しようと思います。

若マルⅢチラシ裏

 これでようやく一息ついたので、明日からは、『北朝鮮というジレンマ』の執筆も開始しないとね。まず、少し休んでからですけど。
 

2018年8月2日

 忙しいので仕事の紹介だけ。5月に続き9月にもマルクスの本を2つ出すけれど、まずその内の一つ。

 タイトルは、『200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか』。著者は聽濤弘さん。

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 この本のめざすところは、帯のコピーが語り尽くしている。「ロシア革命もソ連の崩壊も資本主義の変容も実体験したマルクスなら、目標とする共産主義をどう描くのだろうか!?」。

 書店向けにチラシには次の文章が続く。「ポスト資本主義の行方を問う話題作」。

 このところ、資本主義の終焉という議論は、それなりに広がりを見せている。しかし、じゃあポスト資本主義はどういう社会なのかということでは、混迷があるようだ。

 ソ連の崩壊を実体験し、もう社会主義に未来はないという議論が、まず広範囲に存在している。あれは歪んだ社会主義であって、マルクスの構想したのは違う社会であり、社会主義そのものは堅持すべきだという議論もある。似たような立場だけれど、社会主義とか共産主義とかいう言葉を使うと誤解されるのでとして、未来社会論みたいなくくりで議論する人もいる。

 この本は、社会主義・共産主義という目標を明確にするべきだとする立場から、200年のいろいろな実体験をふまえ、その描き方を提示するものである。プルードン論など個別にも新しい研究、新しい視点があり、著者の知的な意欲がますます高まっていることが分かる。目次で想像してほしい。

第一章 マルクス「未来社会論」の原点を探る
        ──人間論から出発したマルクス
第二章 人間論から階級闘争論へ
        ──『貧困の哲学』か『哲学の貧困』か
第三章 共産主義とは「体制」ではなく「運動」のことか
        ──『ドイツ・イデオロギー』と未来社会
第四章 ロシア革命とマルクス、エンゲルス、レーニン
        ──史的唯物論はどこまで適用できるのか
第五章 マルクスの未来社会論とその多義性
        ──『内乱』と『ゴータ綱領批判』ついての様々な見解
第六章 資本主義の現状と「しのび寄る」未来社会
        ──資本主義の「文明化作用」とその反逆
第七章 「社会主義への疑問」と展望ーーー所有形態をめぐって
        ──ソ連崩壊前のマルクスと崩壊後のマルクス
第八章 「社会主義への疑問」と計画経済の展望
        ──官僚制にならないための新しい生産の組織
第九章 「自由で全面的に発達した人間」
        ──「市民社会」としての未来社会像
補論 マルクス、レーニンとヘーゲル弁証法