若者よ、マルクスを読もう

若者よ、マルクスを読もう

20歳代の模索と情熱

著 者

内田 樹・石川 康宏

ISBN

978-4-7803-0360-5 C0030

判 型

四六判

ページ数

240頁

発行年月日

2010年06月

価 格

定価(本体価格1,500円+税)

ジャンル

政治・社会・労働

マルクスを読むと頭が良くなる!?
マルクシアンを自称する内田樹氏。なぜそれほどまでにマルクスを愛読してきたのか、なぜ若者に勧めるのか。本書ではじめて明らかにされる驚きのその理由。
 
はじめに
みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『若者よ、マルクスを読もう』という本を石川康宏先生といっしょに書くことになりました。この「まえがき」のすぐあとの第一書簡で、石川先生がこの本が書かれるに至った事情を詳しく書かれています。それに対するぼくからの最初の返信にも、この本をどういう本にしたいのかについてのぼくの考えが書いてあります。ですから、「まえがき」では、それとはちょっと違うことを書きたいと思います。
 これは高校生向けに書かれたマルクスの案内書です。もちろん中学生でも、大学生でも、社会人にも読めるように書いてありますけれど、とりあえずのターゲットは高校生です。「マルクスの名前くらいはちょっと知っているけれど、読んだことのない一〇代の少年少女」というのがぼくたちの想定読者です。こういう「初心者のために、むずかしいことをばりばりと噛み砕いてご説明する」という仕事が石川先生もぼくも大好きです。
 もちろん、二人とも教師ですから「教えるのが心底好き」ということがあるのですけれども、それだけではありません。「事情をよく知らない人に、そもそものはじめからことの成り立ちを説明する」という作業はぼくたちにとってもきわめて刺激的な経験であるからです。
 例えば、「野球」というものを見たことのない人に、それがどういうゲームであるかを説明するという状況を想像してみてください。けっこうむずかしいですよ。「ボール」と「ストライク」という基本単語からして意味が二つあるんですから。「ボールだと思ってストライクせずに見逃したボールを球審は『ストライク』とコールした」なんていうセンテンスを野球を知らない人が理解できるはずがありません(嘘だと思ったら、やってみてください)。
 みなさんも経験がおありでしょうけれど、初心者に「あの人、何やってるの?」と訊かれたときに、ぼくたちはそれが基本的なプレーであればあるほど説明に窮して絶句することになります。そして、野球をまるで知らない人にそのゲームを成立させているもっとも根源的なルールを本気で説明しようとしたら、ぼくたちはいつのまにか、「ボールとプレイヤーは『生きている』か『死んでいる』か、どちらかの状態にある」、「ボールは『美しい』(フェア)か『醜い』(ファウル)か、どちらかの状態にある」、「ボールが停止したときにどのプレイヤーの手の中にあるかによって、それまでのプレーの意味が決まる」というような原理的な言葉づかいをせざるを得なくなります。たしかに、このような基本ルールの骨格の上に、それ以外の副次的なルールは肉付けされているのです。
 そして、よくよく考えると、この基本ルールはすべてのボールゲームに(サッカーにも、ラグビーにも、バスケットボールにも)当てはまるのです。それに気づいたとき、ぼくたちはボールゲームというものが実はきわめて古代的な起源を有するある種の「宇宙論」を遊技的に再演しているらしい……という可能性に思い至ります。
 初心者に野球についてゼロから説明することのむずかしさは、継投策の当否とか、次の打順は強攻か犠打かというようなテクニカルな論件のむずかしさとはまったく別次元のものです。それは「野球というもの」の本質をめぐる考察に向けてぼくたちをまっすぐに導いてゆくからこそむずかしいのです。
 「初心者にことの起源から説明する」という作業が刺激的であると書いたことの意味がおわかりになるでしょう。
 ぼくたちはこの本で「マルクスはすごいぞ(だから、ぜひ読んでね)」ということをマルクスの「マの字」も知らない若者たちにご理解いただきたいと思っています。そのためには「へーゲルがすべった」とか「レーニンが転んだ」といった「継投策の当否」や「強攻か犠打か」に類するようなテクニカルな話(している当人はそれこそいちばん緊急かつ重要な論件だと思ってしているのでしょうけれど、知らない人からはまったく意味不明の話)はひとまず脇へ置いて、「マルクスのマの字も知らない人」でもわかる「マルクスのすごさ」というものを明らかにしなければならないと思っています。
 わくわくする仕事だな、これは……とぼくたちが気負うのも当然でしょう。もちろん、気負っただけで、いざやってみたら、ぼくたちにはむずかしすぎて手も足も出ませんでした、ということになるかも知れません。
 とりあえず、みなさんにわかっていただけるように、やるだけのことはやります。そして、大の大人たちが汗だくになって初心者に説明しようと躍起になっているさまを見た若い人たちが「そこまでしても『わかってほしい』くらいにマルクスはこのおじさんたちにとって魅力的であり、そこまでしても『わからせられない』くらいに深遠な思想家なのか」と思ってくれれば、ぼくはそれで満足しようと思っています(石川さんはそれでは物足りないかも知れませんけれど)。
 ここまで立ち読みした人は、ことのついでですから、あと一五分ほど辛抱して、石川先生の第一書簡と、ぼくの返信である第二書簡まで読んでいってください(もうデートの時間に遅れているとかいうなら別ですけど)。そこまで読んでも「自分には関係ないや」と思ったら仕方がないです。黙って書架にお戻しください。でも、そこまで読んで、「自分に何となく関係ありそう」と思えたら、意を決してレジまで行ってください。いや、ご損はさせません。ほんとに。
 では、みなさん、またのちほど。

二〇一〇年四月
内田樹

あとがき

 はい、読み終えていかがでしたか。若いマルクスが考えていたこと、挑んでいたことを、少しはワクワクしながら読んでいただけたでしょうか。えっ? むずかしいところもあったって? 申し訳ありません。しかし、多少はかんべんしてください。だって、相手はマルクスなんですから。できるだけやさしく伝える努力はしてみたつもりですが、そうはいっても、ちょっとながめたくらいで、ほいほい理解できる相手ではないわけです。
 でも、この本を読んで、「マルクスには自分の知性を鍛えてくれる何かがありそうだ」——そういう予感が生まれてくれれば、私としてはたいへんうれしいです。私も学生時代に、そういう直感を入り口にして、マルクスを読み始めたものでした。
「知性を鍛える」というのは、もちろんマルクスを覚えて、正しいと信じることではありません。そうではなく、マルクスはいったい現実世界——それはいま私たちがくらしている資本主義の初期の社会だったわけですが——のどこを見て、何を見い出そうとしていたのか——それを成長・変化していくマルクスの言葉にそってグッと考え、さらにマルクスの到達点が見えてきたら、今度はそれが本当に正しかったのかを、自分のあたまで判定していく。そういう訓練を行うということで、そのための材料としてマルクスを活用するということです。
マルクスはそうした格闘の相手としては格好です。なにせマルクスには、「雷おこし」(知ってますよね)のような、簡単にはかみ砕くことのできない歯ごたえがあり、そして口に入れると今度は、かみつづけるほどに味わいをかえ、しかも、なかなか飲み込むことのできない「するめ」のようなしたたかさがあります。
 相手がマルクスであるかどうかにかかわらず、そこに書いてあることを、受動的に、ただ何でも受け入れるだけでは、自分のあたまを鍛えることはできません。「すべてを疑え」と語ったマルクス自身、つねにそういう姿勢で、その意味で批判的な精神をもって、先輩思想家たちの知的成果に立ち向かおうとする人でした。
他方で、この本をざっとながめてもらっただけでわかると思うのですが、マルクスは、書くほどに、書くことの中身がグイグイかわっていくという人でもありました。
しかも、その変化は、探求の深まりによってものごとをより精緻にとらえるようになるというだけでなく、それとまったく違って、以前の考え方を思い切ってごろりと転換したり、過去の到達をバッサリ投げ捨ててしまうといったことも含みます。マルクスはいつでも、そういう進化の途上にある人でした。そうであれば、マルクスの著作のすべてを「信じる」などは、誰にもできるはずがありません。だって、たとえば四〇歳のマルクスを五〇歳のマルクスが否定していく時、いったいどのマルクスを信じれば、マルクスを信じたことになるのか——やってみればすぐにそういう問題に直面せざるを得ないのですから。
これは「じゃあ、マルクス主義者ってどういう人のことなの?」という問題につながる問題ですね。ふっふっふ。
さて、この本でとりあげたマルクスは、繰り返しふれたように、とても若くて、とても変化のはげしい時期のマルクスです。『共産党宣言』を書き上げた時、マルクスはまだわずか二九歳の若者でした。『宣言』は、歴史に大きな衝撃を与えた煌(きら)めくような本ですが、それにもかかわらず、四〇歳、五〇歳に達したマルクスからすれば、「いい線いってるけれど、未熟なところも多いなあ」——そういう評価にならざるをえない書き物です。ですから、マルクスを読む時には、いつでも、いま読んでいるマルクスがその知的生涯のどのあたりにいるマルクスなのかと、見当をつけておくことが必要です。
参考のために、この本がとりあげてきた、そしてこれからとりあげていく著作を書き上げたマルクスの年齢を示しておきます。
『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』二五歳
『経済学・哲学草稿』二六歳
『ドイツ・イデオロギー』二八歳
『共産党宣言』二九歳
『フランスにおける階級闘争』三二歳
『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』三三歳
『賃金、価格、利潤』四七歳
『資本論』第一巻 四八歳
『フランスにおける内乱』五三歳
(この他にエンゲルスの『空想から科学へ』や『フォイエルバッハ論』をとりあげる予定です。)
つまり、マルクスはこの本に紹介した知的到達点から、今後まだまだ大きく変わっていくのです。その変化のようすについては、第・巻以降で、お楽しみください。えっ? それはいったいいつ頃の出版になるのかって? さあ〜て、それは出たときのお楽しみ。
それまでに、ぜひもう一度この本をながめ返し、マルクスの若々しい時々の思想と、社会の改革に燃える情熱、何者をも恐れぬ挑戦の精神、そして自分が築いた到達点にひとときも安住(固執)することなく前に進んでいくその活力——そういったところを、再び「するめ」をしがむように、味わっていただけたらと思います。それは、あなたの知性を磨くとともに、きっと、あなたの人生に大切な元気を与えるものともなるでしょう。
では、次の巻でお会いしましょう。 

二〇一〇年四月二八日
石川康宏

 
 

まえがき 内田樹 
『共産党宣言』
書簡その1 石川康宏から内田樹へ(2009年1月19日)
『共産党宣言』を書いた当時のマルクスはまだ二九歳で、エンゲルスは二七歳だったのですが、その若さでこれだけ大きな問題に取り組んで、それに自分なりの回答を、骨太く、大胆に与えていく。大学一年生の私は、そういう彼らの精神の巨大さにおののかされ、それまで味わったことのない興奮を感じさせられたように記憶します。なんといえばいいのでしょう。「なんかよくわからんが、ここにはものすごい世界がありそうだ」。
書簡その2 内田樹から石川康宏へ(2009年2月7日)
すばらしい結びの言葉ですね。……「団結せよ」というところがぼくはすばらしいと思います。……隣にいるプロレタリアに手を差し出して「がんばろうね」と言えばいいんですから。……真の革命宣言は「憎しみ」や「破壊」を称揚する言葉ではなく、「友愛」の言葉で終わらなければならない。このきわめて人間的な構えにおいて、マルクスは一九世紀、二〇世紀の無数の凡庸な革命家たちに卓越しているとぼくは思っています。

『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』
書簡その3 石川康宏から内田樹へ(2009年2月23日)
マルクスは論理の飛躍を自覚しながら、それをいわば前向きに活用する技をもっていたという内田先生の議論に刺激されて言えば、私は、マルクスという人は、自分がわからないと自覚する問題の範囲や、わかりたいと渇望しうる問題の範囲が恐ろしく広い人だったように思っています。そしてその範囲の広さが、そこに踏み込んで何事かを「発見」していく喜びの積み重ねにもはげまされ、どこまでも休むことなく突きすすむマルクスの探検家的なバイタリティを生み出したのではないかと思っています。
書簡その4 内田樹から石川康宏へ(2009年4月12日)
ぼくはこの本の中では、「このへんはマルクスもうまく説明できていないと思う」ということもどんどん書くつもりです(「どんどん」というほどにはないと思いますけど)。でも、それは……「マルクスがうまく説明できなかったこと」こそ、マルクスから後続世代への最大の知的贈り物ではないかとぼくが考えているからです。考えてもみてください。「マルクスの天才をもってしてもうまく説明できなかった問題」なんですよ。相当手強い問題だ、ということですよね。……「後知恵」があれば凡人にでも答えが出せる程度の問題でマルクスほどの知性がつまずくはずがないではないですか。

『経済学・哲学草稿』
書簡その5 石川康宏から内田樹へ(2009年7月8日)
この「疎外」という言葉の使用頻度は、私的所有——後の用語でいう資本主義的生産様式——についてのマルクスの知識と分析が豊かになるにつれ、次第に下がってきます。それは、この時期に「疎外」という抽象的・哲学的な言葉で表現せねばならなかった諸問題が、経済社会の具体的な分析の成果によって置き換えられていくからです。裏を返せば、この時期における「疎外」論の援用は、マルクスによる資本主義経済の分析が、いまだ具体性を欠いた初歩的なものであったことを示すものでもあったのです。
書簡その6 内田樹から石川康宏へ(2009年9月11日)
貨幣や地代のことなんか、極端な話、どうだっていいんです(なんて言うと石川先生に怒られちゃうけど)。マルクスの人間的なところは、「疎外された労働者」たちのことを考えるとつい興奮しちゃうところなんです。アンフェアな社会の実状を看過できないところです。一人の青年が「人間的に生きるとはどういうことなのか」を突き詰めて、その当時の思想や学問を渉猟し、採るものは採り、棄てるものは棄てながら、全速力で「自分の言葉、自分の思想」をつくりだしてゆく、その切迫感を若い人にはぜひ感じ取ってほしいと思います。

『ドイツ・イデオロギー』
書簡その7 石川康宏から内田樹へ(2009年11月30日)
共産主義は、理想の国(ユートピア)の手前勝手な設計図から生まれるものではなく、資本主義がもつ問題をひとつひとつ解決していったその先に、結果として形をさだめるものとなる——この斬新な発想は、後々まで、マルクスの革命論や未来社会論の重要な柱となっていくものです。未来は、人間が社会に自由に押しつけることができるものではなく、いまある社会の内から生まれ出てくるものだというわけです。
書簡その8 内田樹から石川康宏へ(2010年3月25日)
ぼくはマルクスのこのフレーズは、高校生たちが読むときは、「分業なき社会」というような大上段に構えた政治的ヴィジョンとしてではなく、「好きなことをどんどんやっていいんだよ」と「一つの職種に居着かない方がいいよ」という職業選択にかかわる「智者の言葉」として素直に読んでも少しも構わないのではないかと思っています。だって、その教えは、ぼく自身の四〇年を超える「仕事」の経験が教える経験則とまったく同じだからです。

書簡の対象となったマルクスの著作について
あとがき 石川康宏

投稿者:女性・67歳・無職
評価:☆☆☆
マルクスは、50年前に何冊か読んだのですが、今、再読するのは根気が続かず、この本はとても楽しくマルクスを思い出させてくれて、わかりやすかったです。
 
投稿者:男性・46歳・教師
評価:☆☆☆☆
とても良い本でした。こんなにいきいきとみずみずしいことばでマルクスが語られる時代が来たんだなと、日本の未来に希望がもてる気がしてきています。内田さん、石川さん、それからこの本を出すのに携わったすべてのみなさんに感謝します。
あえての希望ですが、232、3ページの「著作について」の編集部の文章が硬い。(はっきりいうと偉そうな感じ。)せっかく、著者のお二人が対話精神にあふれたおだやかな文体で書かれているのに、ここを読むと興ざめ。本のすみずみまで作り手の愛情、読者との心の通い合いが感じられる本をつくってくださることを願っております。あと細かい希望ですが、ここのリストにも、出版年を入れておいてもらえるとありがたいです。
 
投稿者:男性・66歳・弁護士
評価:☆☆☆☆☆
若者だけに読ませておくのはもったいない。高齢者の気持ちも高ぶらせてくれる。「人間マルクス」にふれることができました。第二弾が楽しみです。 

内田 樹
1950年生まれ。 東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院博士課程中退。現在、神戸女学院大学文学部教授。 専門は、フランス現代思想、映画論、武道論。『日本辺境論』で2010年日本新書大賞受賞。
ブログ: 内田樹の研究室
 
石川 康宏
1957年生まれ。
立命館大学2部経済学部卒業、京都大学大学院経済学研究科卒業。現在、神戸女学院大学文学部教授。専門は、経済理論。
ブログ:はげしく学び はげしく遊ぶ

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