2014年6月24日

 このタイトルの本を書き始めています。すごく忙しいなかで、自分を叱咤激励しないと書き上げられないと思うので、「はじめに」だけは公表し、年内執筆完了に向けて、自分をしばろうと思います。では。

 いまはネット時代です。この本の主題に関心を持って、本を実際に手にするような読者であるならば、私が何者であるかという情報には、容易にアクセスすることができるでしょう。隠しても仕方がないので、最初にカミングアウトしておきます。

 そう、私は、大学生時代はいわゆる日共系(最近のパソコンの変換ソフトは「日共」が出てこないんですね。日本共産党のことなんです)全学連委員長(「全学連」というのも多くの若者は知らないですよね。全日本学生自治会総連合というんですけど、学生自治会がなくなっていますから、イメージできないでしょう。まあ、いまは風前の灯火となった学生運動の担い手だと思ってください)をやっていました。その後、共産党系の青年組織(名称はほとんどの方が知らないでしょうから書きません)に勤め、そこを卒業した後は、共産党国会議員の秘書も経験しました(ご存じないでしょうけれど、金子満広さんとか松本善明さんとか、いわゆる大幹部の秘書もやりました)。

 ふ〜っ。共産党のことって、いまやこんな複雑で長い括弧書きの注記で説明することなしには伝わらなくなりました。時代の趨勢でなんしょうか。

 私は、秘書を経験した後、東京のJR代々木駅近くにある日本共産党の中央委員会に勤めることになります。政策委員会という部署ですが、他党であれば、政策審議会とか政策調査会という名前のところです。そこの「安保外交部長」という肩書を与えられたこともあったんですが、たいした仕事ができなかったので、そのことを告白するのは恥ずかしい次第です。

 ところで、そこに勤めはじめたのは1994年のことでした。1945年が終戦ですから、それから49年目の年です。なぜそんなことを書くのかというと、当時の日本では、戦後50年を迎えようとする節目にあたって、戦前の日本の行為をどう評価するかが大問題になっていたからです。とりわけ、90年代になり、韓国の慰安婦が名のり出て、謝罪と補償を求める裁判が開始されたりしていたので、政策づくりの仕事にとって、植民地支配と慰安婦問題は避けて通れないテーマだったのです。

 その結果、慰安婦とか植民地支配などの問題は、私にとって最初の仕事のテーマのひとつとなりました。着任したのが5月頃だったと記憶していますが、9月には戦後補償問題で日本共産党としての提言を出そうということになり、その起案を命じられます。

 最初の仕事だから張り切っていて、それらの問題をめぐる本や資料を読み、関係者に会ってお話を伺い、準備を進めます。慰安婦の問題では、その裁判における証言に目を通し、それを支援する市民運動団体の文献は片っ端から読破しました。

 そして実際に書こうとしたとき、宮本顕治議長(当時、現在は故人)から指示がありました。私はペーペーですから、直接にお話を聞くような立場にはなく、当時の政策委員長であった聽濤弘さんから伝えられたのです。

 その時の衝撃は、いまでも忘れられません。私は、共産党の政策というのは、市民団体の要求を全面的に受けとめ、補償が求められるならそれを実現する道筋を示すものだとずっと思っていました。そのことを疑っていませんでした。ところがそうではなかったのです。宮本さんの指示は、一言でいえば、市民団体がいろいろな要求を出しているが、政権をとった時のことを良く考えて対応しなさいということでした。野党だからといって、政治的にも経済的にも、できないことを約束してはならないということでした。(続)