2014年6月27日

 さて、個人的な体験を長々とお聞かせして、大変申し訳ありません。でも、この体験は、私がこの本を書く動機と直結しているのです。

 いま、従軍慰安婦問題をはじめとする韓国との関係の問題について、右翼的立場が圧倒的に幅を利かせており、左翼的立場への共感は薄れています。書店を歩けば「反韓・嫌韓・呆韓」本ばかりが並んでいて、週刊誌も売上を増やしたければ「反韓・嫌韓」の特集を組み、居酒屋談義でも韓国への反感が肴にされているのが現状です。

 おそらく、韓国を忌み嫌い、左翼を批判する人の多くには、左翼というのは韓国の要求を一〇〇%丸呑みする輩だという認識があるのではないでしょうか。しかし、これまで紹介してきたことからもご理解いただけるでしょうが、宮本さんの立場は、それとはかなり異なっていたのです(もちろん共通する部分も多かったでしょうが)。

 先日、ある大新聞者の編集幹部の方と飲む機会があり、「提言」にまつわる宮本さんの話を紹介したところ、彼の感想は、「宮本さんって、常識的な人だったんですね」というものでした。私もそう思うのです。もちろん、宮本さんも、基本的立場は確固とした左翼でしたが(私のような左翼の末席を汚すものが言うのも変ですが)、共産党の場合、市民運動派などに属する他の左翼とはまったく異なるところがあります。政権の獲得をめざす左翼だというところです。そして、政権を獲得するためには、右翼も含む国民多数の支持を得なければならないので、理念とか原理にのみこだわるという態度はとれなくなるのです。

 私は事情があって、短期間で共産党の仕事を退職し、ジャーナリズムの世界に身を置くことになります。だから、その当時のように、政権をとる見地でものを考えるようなことはしなくてもいいのです。ただただ理念を大切にする人生を送ることも可能なのです。しかし、当時のような思考方法が習い性になってしまい、なかなかそこから抜けだすことができません。

 とりわけ、私が在籍した政策委員会という部署は、外部の方には分かりにくいかもしれませんが、特定の考え方をもつ団体との関係がないところに特徴があるのです。労働組合部だったら労働組合との関係があり、平和運動部だったら平和団体との関係があり、それらとの良好な関係を維持することが求められます。しかし、政策委員会にはそんな団体がありません。なぜそうなっているかについて、先輩から、「政党の政策というものは、特定の団体の圧力を受けてつくるのものではなく、国民全体のことを考えながらつくるものだ」と教えられてきました。このときの体験が染みこんでいるからでしょうか、何かあるとすぐ、「どうやったら右から左まで支持が得られるだろう」と考える癖がついてしまいました。もちろん、右から左といっても、原理主義的な考えをもつ方に支持してもらうのは左右ともに無理でしょうから、リベラル保守からリアリスト左翼までということになるかもしれません。

 そういう私の体験をふまえ、従軍慰安婦や植民地支配の問題について、どうやったら右から左まで一致できるのだろうかという見地から、私なりに考察をくわえたのが本書です。私は、植民地支配したのは間違っていたし、慰安婦問題についても謝罪は必要だという立場ですが、韓国側の要求には多くの問題があると思います。たとえば、請求権問題について当事者である慰安婦が声をあげるのは当然でしょうが、外交交渉を通じて何回も「これで決着させよう」と合意した韓国政府までが、「まだ決着していない」と批判の矛先を日本に向けるのは、問題の解決を難しくしています。そして、当初は慰安婦の主張にある程度は共感していた国民が、そういう韓国の姿に接することによって、「何回謝れば済むのだ」「なぜ日本だけが責められるのだ」という気持ちになり、韓国に同調する日本の左翼に対して批判的になる理由も理解できます。

 とはいえ私は、韓国とのこじれた関係を何とかするうえでは、左翼的な立場からのアプローチが不可欠だと思います。たとえば現在、いろいろな問題で韓国政府が理不尽な態度をとっても、日本政府が何か批判すると、すぐに植民地支配の過去と結びつけられ、韓国の世論は硬直化してしまいます。しかし、日本側の批判の主体が、植民地支配と命を賭して闘った実績のある左翼なら、韓国世論も単純な反発はできないはずです。日本の左翼は、韓国世論を宥め、納得させるうえで、大事なポジションにいるのです。この点では、本書のタイトルは、『嫌韓流』をもじったものではなく、『「しつこい韓国」を納得させる』というのがふさわしいかもしれません。

 ということで、この本、これまでの左翼的な本とはかなり趣が違って見えるでしょう。しかしそれは、私が特異な主張をしているからではなく、左翼にしては常識的な主張だからにすぎません。関心のある方は、本論へと読み進めていただけると幸いです。(了)