2017年5月10日

 泥さんが亡くなった日、泥憲和全集をつくることを宣言しました。まずはWEB版というか電子版。そのメドがついたら、販売用の紙版を検討しますが、そちらはまだまだ先のことになりそうです。

 というのは、すでに何人かで泥さんが書いたものをダウンロードして残す作業をしているのですが、無茶苦茶量が多いんです。2007年のmixyからなので10年分なんですが(あとはフェイスブックとツイッターが中心)、予想外の多さ。

 すでに到達したところから推測して、おそらく、全部あわせると500万字くらいになるのではと思われます。紙の本にすると、A5判でぎっちり詰めて、5000ページくらいでしょうか。

 これって、1冊だと厚さ50センチくらいになりますけど、普通の印刷所では5センチ程度までしか製本する技術がないんですよ。池田香代子さん、分厚い本を持ち歩くのが好きだって、最近どこかの新聞の文化欄で書いていたけど、さすがにこれは無理でしょうね。

 ダウンロードするという単純作業自体も、なかなか大変です。フェイスブックはもう追悼モードに入っていて、編集ができなくなっているので、ただただコピペをくり返す作業に時間がかかります。指が疲れる!

 すでに、いろんな方から協力の申し出が届いています。その中で、mixyの初期に、非常に大事な仏教論が展開されていることも分かったりしました。その結果、作業すべきことも増えたりしています。

 そこで、まずこのダウンロード作業を手伝ってくださる方を募集します。無給のボランティアですけれど。

 その先のこともあります。すべての記事に見出しはつけないといけないでしょう。それも半端ではありません。これは編集に慣れている方が向いているかも。

 さらにホームページをつくって公開するとして、そのデザインも必要になります。これをボランティアで引き受けてくれる方、いらっしゃるでしょうか。

 もし、めでたく紙の本ができたときには、ボランティアの方には贈呈します。その程度のことしかできないんですけど、いかがでしょうか?

2017年5月9日

 先月、歴史認識をめぐっていくつか講演したのだが、その参加者からメールで質問があった。慰安婦問題で、日本が植民地支配した韓国と、戦争で占領した中国や東南アジアでは、慰安婦問題も異なる性格を帯びることになると述べたのだが、それに関する質問だった。

 占領地では日本の法律がそのまま適用されないので(占領地の法律を尊重することが義務づけられるので)、現地の人がいやがるようなことをしようとすると、いきおい軍による「強制」という問題が生じる。だから強制連行の証拠もいろいろ出てくる。しかし、朝鮮半島は日本の植民地であって、日本の法律が適用されていた地域だった。抵抗運動を武力で弾圧し、次第に支配が深まっていった。だから、軍が「強制連行」する必要はなくなっていったということをお話ししたのだ。

 これは、占領地と比べて、日本が優しかったということではない。そういうこととは関係がない。日本の植民地支配がそれだけ深かったことのあらわれであって、「強制連行」の証拠が出てこないからといって、喜べるような話ではないのである。

 メールで質問されたのは、じゃあ、朝鮮半島と同じ植民地支配だった台湾はどうなのだということである。台湾にも慰安婦はいたが、韓国と同じようには問題になっていないように見える。その理由は何なのだということだった。確かに、台湾の慰安婦問題は、河野談話とアジア女性基金によって、大きな政治問題になることは終わった。

 私は韓国や北朝鮮と異なり、台湾には行ったこともないし(空港をトランジットで通過したことはあるが)、実証的なことが言えるほど勉強したこともない。だけど、こうじゃないかなと感じることはある。

 それは一言でいえば、日本の支配が絶対的なものか、相対的なものかということだ。支配の中身、やり方は同じだっただろうが(同じ日本がやるのだし)、それを受けとめる側の感じ方にそういう違いがあったのではないかということだ。

 韓国は、他の周辺諸国と同様、中国との関係にいろいろ微妙なところはあったけれども、植民地として支配してきたのは日本が唯一である。いまや植民地支配は絶対悪になっているわけだが、それを嫌う気持ちは日本に向かうしかない。

 一方の台湾は、国際法的には中国の一部ということになっているが、法律というのは形式に過ぎない。実態とは異なる。その実態を見れば、もちろん大陸から移住した漢民族が多数を占めているといっても、少数民族も少なくないし、漢民族だって自分たちが大陸国家の一部であるという国家意識は希薄だった。いま、独立をめざす人々も多いわけで、さらに希薄になっている。

 ということで、台湾の人々には、日本の統治時代と中国の統治時代を比べるという視点があるように思える。相対的に見るということだ。それが韓国の慰安婦問題との違いを生み出しているのではないだろうか。

 これは東南アジアの人々が、イギリス、フランス、オランダに統治された時代と日本に統治された時代を比べるのと、同じような感覚だろうか。どうなんでしょうね。 

2017年5月8日

 この連休、もともと憲法を主題にした次回作の執筆に当てる予定でしたが、安倍さんから具体的な提案が出てきたので、ずっと書いていました。あまり進みませんでしたが、頭のなかはかなりスッキリしたと思っています。

 これだけのものが出てきたのに、あまり議論は活発ではないように見えます。何というか、日本国民が受け入れている現実をそのまま規定した(理想は遠くにかかげておいて自衛隊は認める)もので、受け入れやすいと言えばそうなんでしょうが、悪い言葉で言えば弥縫策のようなものですから、哲学は感じられない。

 だから、小林よしのりさんのような思想家には、到底受け入れられることにならないでしょう。石破さんが言っているように、自民党の大勢も一貫して2項を残していてはダメだという議論をしてきたわけです。まあしかし、森友問題に見られるように、猫も杓子も安倍さんを支えるというのが、現在の日本国家の大きな流れですから、安倍さんの提案が基礎となって議論が進むことは間違いないでしょう。

 私は、公明党が加憲案を出した10年以上前から、もし国民投票にかかるような具体的な改憲案が出て来るとすると、それに沿ったものになると言いふらしてきました。1項2項はそのまま残し、3項で「前項の理想が達成されるまでの間、自衛のために必要最小限度の実力組織を置く」みたいになるのではないかということでした。

 ですから、それをどう評価するかということも、この十数年間、ずっと考えてきたのです。それなりの結論も持っていました。

 でも、実際に出てみると、そう簡単ではないと思い至りました。複雑です。

 ある人は、「自衛隊のことを憲法に書いてしまえば、海外で戦争する国になる」みたいなことを言います。実際、「自衛隊」でも「自衛権」でもいいんですが、それを書くことになると、個別的自衛権だけでなく集団的自衛権も認めるという論理につながっていくとは思います。現行憲法で集団的自衛権が認められないとされてきたのは、あくまで9条では「自衛権」さえ認められないかのような書きぶりになっており、でも明文で否定されているわけではないので、古くから存在する個別的自衛権だけは存在するという理屈でしたからね。

 でも、それにしても、1項と2項が残ることになると、理想はそのままということになります。1項しかない世界中の憲法規定と比べると、たとえ3項が入ったとしても、世界のなかで高い水準の平和条項であることに変わりはありません。実際に平和を確保するのは憲法の規定ではなく、人々の闘いだと思いますが、その闘いの足がかりにもなると思います。もし、この改憲案がヒドいものだとすると、世界中の憲法はもっとヒドい憲法だということになってしまうでしょう。

 一方、現状をそのまま認めるというのは、憲法によって存在を否定されていると感じる自衛官にとって、朗報だと思います。自衛隊のことを書き込むのはどんなものであれけしからんという主張をすることは、自衛隊とその現状を認める多くの国民を敵に回すことになるでしょう。

 しかし他方で、現状が認められるというのは、現状の矛盾もそのまま受け継ぐということです。戦力でもなく交戦権もなく、海外での武力行使も禁止される。だから、個人としての自衛官が矛盾を抱え込むという構造は、まったく解決しない可能性があります。

 これら全体をどう見るのか。この秋に出す本で結論を示したいと思います。

2017年5月3日

 本日早朝、永眠されました。

 1週間ほど前、最後のメールがあったんです。主治医から「すべての治療を断念する」と告げられたという内容でした。5月5日には泥さんがいつも中心にいた播磨(姫路など)の憲法集会が開かれるのですが、それまではオモテに出したくないという、泥さんらしい気遣いのメールでした。

 それで昨夜、泥さんの『安倍首相から「日本」を取り戻せ』の作成(企画、編集、装丁、組版等)に関わった6人が我が家に集まり、今後のことを相談していたところでした。泥さんがどうなるか分かりませんでしたが、10年前にmixyでデビューして以来、ネットに書かれたもの、講演の動画等々を全部アーカイブしておき、何らかのかたちで『泥憲和全集』みたいなものとして残そう、そのエッセンスを紙のかたちでも出そうと話し合っていたんです。必ずやります。

 泥さんには、そういうことを周りがしたいと思わせるものがありましたよね。泥さんの思い出を書き始めると終わりそうにないので、本日はここまで。お通夜に出向いて、最後のお別れをしてきます。

2017年5月2日

 南スーダンでの駆けつけ警護に続き、新安保法制発動の第2弾となったのは「米艦防護」だった。どちらも、余りにも日本的だと言わざるを得ない。

 「安全保障関連法制の肝は米艦防護だ」と政府関係者が言っているそうだ。その通りだろう。アメリカの艦船が攻撃なりに専念すれば、その分、防護が弱くなる。自衛隊に守ってほしいというのはアメリカ側のかねてからの要求だったし、もう何十年もの間、そのための訓練も実施してきて、自衛隊には能力があるわけだ。残すは法律で担保することだけだったので、発動は時間の問題だったと言える。

 ただ、「肝」であるはずの任務なのに、防衛省からは公表されていない。密かに実施されたわけだ。しかも、北朝鮮対応のために日本海に向かう米艦を防護するのに、任務を実施したのは太平洋側。

 「肝」だったら、こんな大事な任務だと言って、自衛官に誇りをもたせるべきだろう。そういう実際の任務遂行のことは脇に置き、国民を少しずつ慣らしていこうというのは、日本的であるゆえんである。

 もともと、任務の中身そのものが日本的ではある。攻撃するのは米艦で、日本はそれを守る役。それ自体が日本的だけれど、それ以上に、日本を守ってくれているから米艦防護をするのだと言いつつ、じゃあアメリカが攻撃するとして、その判断に日本が関与できるかどうか定かではない。日本がまず先制攻撃を受け、それにアメリカが反撃する場合だけでなく、アメリカが先制攻撃するとしても、日本は判断に関わらないのではないか。ただアメリカを守るだけ。「日本防衛」の話なのに。

 南スーダンも日本的だった。現地で住民が求めているのは自分を守ってほしいということで、それほど危機的な状況にあって、そこに日本はどう関わるのか大事だったのに、政府はその議論を回避し続けた。「危なくない」と言い続けることのほうが優先されたわけだ。

 自衛隊は帰国するけれど、じゃあどう総括するのかの議論も、このままではされそうにない。だってこれまでと同様「危なくない」任務をしてきたということになっているのだから。

 野党も、日本防衛のあり方の根本を議論しようとしない。防衛問題を本音で議論できる日って、日本に訪れることはあるんだろうか。