2015年2月19日

 ちょっと仕事の必要があって、厚生労働省が責任をもって編集している『労働基準法』に書かれているもので、「資本主義社会の法的秩序の根幹をなすものは、私有財産性と契約自由の原則である」という文章を引用することが求められた。それって、自分でかつてどこかで引用したよなと思って調べたら、8年前に書いた論文が出てきた。本日は忙しいので、それを紹介するだけです。

青年は社会の主人公になれる、その自覚をもったときに(T君への手紙)

 T君。暑い夏が終わり、秋の気配がただよってきましたが、お変わりありませんか。
 あなたが言っていたように、小泉さん、やはり八月一五日に靖国神社へ参拝しましたね。後継首相も直系の人のようだし、「がんばっても日本の政治は変わらない」と、あきらめ顔でうつむくあなたの姿が目に浮かぶようです。でも、あなたには強がりに聞こえるかもしれませんが、私は、こんなに首相の参拝が大問題になるなんて、時代も変わったんだなという感想をもったのですよ。
 だって、第二次大戦後しばらくのあいだ、歴代首相はほぼ毎年のように靖国に参拝していましたが、マスコミでそのことが問題になることなどなかったのです。それどころか、戦犯の釈放とか赦免(罪を許すこと)を求める国民的な運動があって、四〇〇〇万もの人びとによる請願署名が国会に提出されたのが、五〇年代の日本でした。
 最初に首相参拝が政治的な問題となったのは、ようやく一九七五年です。戦後三〇年もたっていたのですね。

 そのきっかけとなったのは、六五年、ある市議会議員が抱いた疑問です。建物をつくるとき、神主さんを呼んでお祓(はら)いをやることがあるでしょ。地鎮祭(じちんさい)というのですが、見たことはありませんか。その市議さんは、市が体育館をつくるのに地鎮祭をやるのは、憲法の政教分離の原則に反すると考えたのです。
 そこで裁判でたたかおうと決意した。ところが、弁護士さんに相談したけれど、「そんなこと考えたことがない」「勝ち目がない」と誰も助けてくれません。だから、自分一人で準備書面をつくり、誰も支援者がこない法廷でみずから八回の口頭弁論をおこなうという、孤独なたたかいをやったのです。結果は敗訴。憲法違反ではないという判決でした。
 でも市議さんはくじけません。六七年に控訴します。そのころになると、この裁判が注目されてくるんですよ。強力な弁護団も結成されます。なぜかというと、自民党が靖国神社を国営化する法案をつくり、政教分離という憲法原則が国政上の問題になっていたからです。それで、同じことが問われている裁判の行方が、がぜん焦点となるのです。
 高裁の結論は憲法違反だというものでした(七一年)。この結果、靖国法案は葬り去られます。それなら首相の参拝も憲法違反だろう、いや私的なものだったら構わないという争いがあるなかで強行され、大きな問題になったのが、七五年だったのですね。

 当時は、いま紹介したように、憲法の政教分離のことしか話題になりませんでした。その後、A級戦犯が祭られ、戦争を正当化する展示を満載した遊就館がつくられます。いまでは首相の参拝は、過去の侵略を美化するような日本でいいのか、アジアの国々とどう向き合うのかという、日本の国づくりの根本にかかわる問題として論じられています。
 これは、戦犯釈放運動が高揚していた五〇年代と異なり、国民の多数が侵略の過去を正当化しないという立場をつよめてきた、その変化の反映です。だから私は、歴史は動いているのだな、動かしているのは一人ひとりのたたかいなのだなと、つよく感じた次第です。
 「えっ、昔の人はすごいなだって?」。いやいや、私は、いまの若者も捨てたもんじゃないなと思いますよ。そう感じたのは、去年の一一月、『エコノミスト』という雑誌を読んだときでした。
 「たった二〇〇人のフリーター組合がグローバル企業・デルを追い込んだ」。これが記事の見出しでした。フリーターって、あなたと同じ若い人のことだから、興味をもって読んだのです。アメリカのコンピューター・メーカーであるデルの日本法人が出した求人広告を見て、本社で面接を受けて採用された青年の話でした。
 採用後二年近くたち、青年は、残業代の不払いについて、デルに問い合わせをします。そのやりとりのなかで、じつはデルに採用されたのでなく、別の会社の派遣社員だったことがわかりました。デルは、残業代の支払いを拒否するとともに、派遣も終了するとして、事実上の解雇通告をおこなったのです。
 青年は黙っていなかった。首都圏青年ユニオンに加盟し、仲間の支援を受けて団体交渉し、雇用は継続することになります。青年はデルを刑事告発もしました。その結果、デルと採用担当社員は罰金を払うことにもなりました。

 ねっ、いまの若者もすごいでしょ。しかも、がんばっている若者は、日本各地にいるのですよ。
 たとえば、徳島に光洋シーリングテクノという、トヨタの孫会社があるのですが、実際には派遣労働でありながら、長期間雇用すると直接雇用の義務が生じるので、それを回避しようとして請負で働いているように偽装してきました。二年前、ここで働く青年達が労働組合をつくり、JMIU(全日本金属情報機器労働組合)に参加してがんばってきたんです。そしてとうとう、五九人が直接の正規雇用となったんですよ。
 私がさらにすごいなと思うのは、こういう若者たちのたたかいが、違法な雇用を許さないという一つの流れをつくっていることです。今年の七月から八月にかけて、「朝日新聞」紙上で、松下やキャノン、日立などの一流製造業の工場でも、「偽装請負」が横行していると報道されました。
 いま、各地の労働局が、これらの摘発に乗りだしているそうです。その結果、キャノンや松下では、派遣社員を正社員として雇用する動きも生まれています。違法を見過ごさないぞと若者ががんばっているから、おじさんやおばさんも助かるんですね。

 もちろん私は、これで雇用をめぐる深刻な問題が解決に向かっているのだとか、政治はよくなりそうだとか、気休めを言うつもりはありません。壁はたいへん分厚い。なぜかというと、雇用をめぐる問題は、日本社会の成り立ちにかかわるからです。
 厚生労働省が編集している『労働基準法』という本があります。政府の考えがよく出ています。何回も版を重ねていますが、どの版を見ても、冒頭にあるのは次の文章です。
 「資本主義社会の法的秩序の根幹をなすものは、私有財産性と契約自由の原則である」。
 難しい文章ですけど、資本主義社会においては、労働者と使用者の労働関係は「契約自由」が原則なのだということです。雇用契約を法律で規制したり、行政が介入するのは、労使の自由を奪うことであり、資本主義の原理に反するというわけです。
 実際、日本が資本主義に突入した明治時代になって、契約関係を律する民法がつくられましたが、労働契約は自由という原理にたったものでした。つまり、合意すれば契約にいたるけれども、どちらか一方が契約したくないと考えれば、契約を解除するのも自由だということです。したがって戦前、使用者が労働者を解雇するのは自由でした。
 戦後、新しい憲法がつくられました。とはいっても、資本主義はつづきます。ですから民法の規定はそのまま残りました。解雇は自由です。

 でも、それではおかしいと感じる人はいたんですね。だって新しい憲法では生存権がうたわれています。勝手に解雇されたら生存権が脅かされる。憲法に違反するじゃないかと考えたんです。
 そういう人びとが、会社に対して、仲間の支援を受けながら、解雇の無効を訴えるようになります。そのなかのある人びとは裁判にも訴えます。
 最初は敗北の連続です。「解雇は契約当事者の自由に行使できる権利である」という判決がつづきます。だって、民法に「契約は自由」と書かれているのですから、労働者にはなかなか勝ち目がない。
 それでも人びとはあきらめませんでした。たたかいをつづけました。六〇年代になって、ようやく地裁や高裁で勝利する事例も生まれます。契約自由という原理は日本国憲法の原理と矛盾するという理解が、少しずつひろがってきたのです。
 そして七五年、最高裁において、合理的な理由のない解雇は無効だという判決が下されます。あなたには以前お話ししたことがあると思いますが、こういう判決が積み重なって、整理解雇四要件(企業の維持ができないほどの必要性がある、解雇を回避する努力がつくされている、対象の選定が合理的である、当人と労働組合の納得を得る努力がつくされている)という判例が確立していくのです。

 こういう変化は、資本主義の原理に固執する人びとにとっては、あまり面白くないでしょう。日本の財界は、整理解雇四要件をくずそうと画策してきました。しかし、今のところ、裁判所が考えを変える兆候はありません。それどころか、三年前に労働基準法が改正され、合理的な理由のない解雇は無効だと明記されました。
 財界にとっては、いったん正規雇用してしまうと、なかなか解雇しづらくなりました。財界は、それだったらなるべく非正規雇用にとどめよう、できれば法の網をかいくぐり、いつでも解雇できるような雇用形態にしておこうとしているのです。先ほどのデルとか、キャノンや松下の話は、こういう状況で生まれているわけです。むきだしの資本主義とでもいうのでしょうか。
 私たちのたたかいは、このような資本主義社会の基本原理に挑戦し、憲法にもとづく原理で修正しようというものです。「人情味のある資本主義を!」とでも名付ければわかりやすいでしょうか。いずれにせよ、資本主義の原理にメスを入れるものですから、簡単に実現するわけがありません。
 でも、いま紹介してきたように、戦後のたたかいのなかで、憲法を高くかかげることによって、基本原理を少しずつ揺るがしてきたのも事実です。あなたと同じフリーターの青年も、そのたたかいに参加しているのです。

 よく「国民が社会の主人公」だといわれます。確かにそうです。でも、国民が主人公であるのは、一人ひとりが主人公であるという自覚をもち、社会のなかで生きていくときなのです。あなたにも労働組合に入ってほしい。
 いつものように説教くさくなってしまいました。こんどお会いするときは、理屈ぬきで語り明かしましょう、居酒屋で。