2015年2月25日

 昨日は、朝日新聞の慰安婦問題でのあの検証記事(昨年8月5、6日)を書いた記者のお一人の話を聞く集まりが、大阪の梅田で開かれた。私がいま書いている本(『慰安婦問題のおわらせかた』小学館)でちょうど関連部分にさしかかっているところだし、どうしてもお話を伺いたくて参加した。

 大変正直な方で、私が勝手にここで記事にすることはできないが、とても勉強になった。こういう記者の方がたくさんいれば、朝日はなんとか立ち直るのだろうと思え、少し安心した次第である。

 その後の飲み会にも参加した。主にメディアの方々、メディア論に関係する研究者の方々の集まりだったようだ。そこで議論されたことも含め、いくつか感じたことを書いておく。

 結局、慰安婦問題とは何なのか、その本質はどこにあるのか。そこがちゃんと解明されないと、この問題は解決しない。

 一方で、慰安婦問題の本質は「強制性」だという人がいる。他方で、この問題の本質は「戦時下の公娼」だという人がいる。そして、それぞれの立場にあった「証拠」がある。

 「強制性」にしても「戦時下の公娼」にしても、それは問題の表面にあらわれた「現象」である。その現象のなかから、都合のいい部分を捉えて、ある人は本質は「強制性」といい、別の人は本質は「戦時下の公娼」だと言っているのではないか。

 「本質」というのは、そういうものではない。一見、まったく矛盾しているように見えるさまざまな「現象」を貫くもの。それが「本質」なのである。

 その「本質」を捉えられたとき、我々はこの問題を解決するカギを見つけることができるように思う。そう簡単ではないけれど。

 あと、メディア論の研究者が言っておられたのは、この問題を動かすには、既存の枠組みとは別のものが必要だいうことだった。それには私も全面的に賛成。

 この問題では、20数年ほど対立が続くあいだに、論争の相手のことを、一方は「慰安婦のことを理解できない人非人」と批判し、他方は「ウソの証言を事実と捉える人」と批判し合ってきた。まともに議論する相手ではないので、相手の言うことなど、真剣に読みもしないようになってきた。それがまた対立を増幅させる要因になってきたと思う。

 その対立構図を突き崩す枠組みが必要である。私の本がそうなるかどうか分からないけど、少なくとも両派から読まれ、批判が殺到し、議論のたたき台になって行くことを期待したい。4月20日発売。