2015年10月5日

 その前に、私の『歴史認識をめぐる40章 「安倍談話」の裏表」ですが、ようやくアマゾンで安定的に供給されるようになりました。よろしければ、どうぞ。

 戦争法のその後を考えた場合、いろいろな可能性を生みだしたのが、今回の闘争だったと思う。政権をどうするかを考えても、今後の展望として導かれる結論は一つではない。

 その前提として、世論の動向がある。戦争法に反対する圧倒的世論が存在しているが、一方、内閣支持率を見ると、安倍政権を支持する人と支持しない人の割合は拮抗している。これをどう見るべきだろうか。

 これまでも同様の傾向はあった。特定秘密保護法なども、世論は圧倒的に反対だったけど、それが通過したあとの選挙では、安倍政権が勝利している。今回の反対世論は、それとは比べものにならないものだったとは思うけれど、安倍内閣の支持率が大きく低下するようには見えない。

 これは仮説であるけれど、安倍内閣を支持する側も、それに支持しない側も、きわめて強固な意志をもって態度を決めているように思える。安倍さんを批判する側は、もう顔を見るのもイヤというほど嫌っているけれど、支持する側もかなり強固である。支持する側だって、戦争法など個別政策に不安を感じるわけだが、それにもかかわらず政権選択は自民党なわけだ。安倍政権をめぐって、世論は深刻な分裂状態にある。

 とはいえ、戦争法に反対する勢力が一つにまとまることを願う世論が強固になったのが今回の特徴であって、どの政党もその願いに対して何らかの回答が必要になった。誰もが指摘するように、与党と野党の支持率が拮抗しているわけだから、野党が基本政策での違いを脇におき、戦争法廃止の一点で協力しあい、候補者を一人に絞ることができれば勝利できる可能性があるわけである。

 一致点が戦争法廃止というだけで政権共闘や選挙協力ができるのかという指摘がある。そこは、戦争法廃止ということの重みをどう捉えるかで違ってくる部分はある。おそらく、そういう道筋は、戦争法に反対だけど政権選択では安倍さんを支持するという層までを惹きつけることはできないだろうけど、自公支持層40%に対し、野党支持層40%がまとまればいい勝負になるのだから、「この問題で野党がまとまれ」という世論の盛り上がり次第では、不可能とまではいえないと思う。

 ただし、戦争法廃止だけを一致点に統一候補を擁立し、廃止を実現した後、これ以外の課題での国の針路をめぐり、再び信を問うための総選挙をするのかどうかは微妙な問題だ。戦争法廃止を掲げる全野党が政権入りするという選択肢とともに、野党のうち基本政策で似通った政党だけで政権をつくるが、戦争法反対の課題においてだけは閣外からの協力を仰ぐという選択肢もあるからだ。後者の場合、選挙は一回で済む。

 また、「一点共闘と政権共闘の間」という記事で指摘したことだが、戦争法の発動阻止という課題なら、政権をともにしないでも実現しうる。次の参議院選挙で野党が多数になれば、国会承認ができなくなるからだ。政権をともにする決断というのはハードルが高いけれど、これなら候補者を絞るといっても一点共闘の延長線上なので、そう難しくない。

 要するに、選択肢はいろいろあるのであって、一つに決めず、国民世論を背景に野党間で真摯に話し合ってほしい。ただし、安倍政権の強固な支持層が4割程度いるということは、戦争法反対という課題だけで攻めても、4割の層を崩すのは簡単でないことを示している。歴史認識とか経済政策で安倍さんを支持する層を味方にしていくという戦略が必要であって、そういうところでバラバラな野党がどれほどの攻勢をかけられるのか、課題も大きい。(続)

2015年10月3日

 最後です。国や東京電力は、「年間20ミリシーベルト被ばく相当の健康リスクは、喫煙、肥満、野菜不足などの他の発ガン要因によるリスクと比べても非常に低い」と主張しています。そして、20ミリシーベルト以下の地域への帰還政策を進めています。そういう状況下で、中谷内先生の証言は、いろいろと考えさせるものがありました。以下、引用。

 非常に低いという論理は分析的システムによって理解はできるかもしれません。しかし、より優先する経験的システムや、それに基づくリスク認知2因子の特徴を考えると、容易に受け入れて、安心できるとは考えにくいです。

 (2因子のうち「恐ろしさ」について)
 今回の事故は、……炉心を制御できなかったという点が、制御可能性という点にあてはまります。 原子炉建屋が爆発する映像や防護服を着た人の映像などがくり返し報道されましたから、一般の人はどうしたって恐ろしいという感情を抱くことになります。
 また、今回の事故で放出された放射性物質は、海外でも観測されており、世界的な惨事になる可能性もイメージできました。
 ……

 (2因子のうち「未知性」について)
 放射線や放射性物質は、目に見えませんし、音も出しませんし、匂いもしませんから、直接観察ができません。
 放射線に被ばくしても、すぐに被ばくしたことや被曝量が分かるものでもありませんから、リスクにさらされていることを正確に理解することは困難です。……
 過去に、放射性物質をめぐる事件としては、ビキニ事件やチェルノブイリなどの経験はありますが、日本では、一般市民が水や食品などの放射性物質を気にしなければならない事態ははじめてであり、市民にとっては、新しいリスクということができます。
 放射線被ばくの健康影響については、……客観的に見れば、科学的研究は進んでいるということもできますが、とくに低線量被ばくについては、専門家の評価も分かれていると言われており、論争も続いていますから、一般の人から見れば、科学的理解が必ずしも進んでいるとは評価できにくいと思います。

 (医学的な情報を提供すれば恐怖感は不安感は解消するか?)
 必ずしもそうではありません。
 まず、提供される情報は放射線被ばくというネガティブなもので、……そういった事について考えることそのものが心地よいものではありません。ガンや白血病の可能性について考えるのですから、そのこと自体が不安のもとになるでしょう。……情報を提供することで住民が不安になることがあるとしても、それはそれで進めるべきだと考えます。情報が隠ぺいされたり、何の情報もなく不安になるよりはよほど良い状況だと思います。ただ、よほど良いと言っても不安は不安でしょう。
 ……これは私の専門外なので、詳しく述べることは控えますが、低線量被爆のリスクについては、安全と考える見解や、逆に危険と考える見解など、さまざまな見解があります。そのような中で、一般人は、情報を判断することは困難です。むしろ、さまざまな情報があり、見解が分かれていること自体が、一般人の不安を増大させるとも言えます。
 ……情報の提供(リスクコミュニケーション)には、情報発信者に対する信頼が重要ですが、そのような信頼は得られていません。信頼には、「非対称原理」というものがあり、信頼を構築することは難しいが、一方で信頼が崩壊することは容易いとされています。原発事故後の政府や東電の対応を見れば、崩壊した信頼が回復することは、とても難しいと思います。

 (欠如モデル)
 欠如モデルとは、科学的知識について、一般人の側は欠けており、専門家の側は足りているということを暗黙の前提として、一般人は問題となっている科学的事象について、知識や理解がないために、非合理的な恐れや不安を抱くが、知識や理解があれば、そのような非合理的な恐れや不安を抱かなくなる、という考え方です。
 しかし、アメリカでの研究などから、(前回指摘した二重過程理論などにより)欠如モデルは簡単に機能しないことが分かっています。
 分析的システムを備えていても、経験的システムの判断を批判的にチェックするというよりも、むしろ、その判断を正当化する形で機能しやすい。……分析的システムを働かせる中で、これらたくさんの情報に接することになるので、その中から、自分の態度や行動を正当化するような情報をより選ぶ、ということです。

 (その他)
 (1次バイアスとは)人がある物事が起こる頻度の想定をする場合、実際には低頻度の事柄を過大視し、逆に、実際には高頻度の事柄を過小視するという、一般的な傾向です。
 低線量被爆の発ガンリスクというのは、低頻度と考えられますので、1次バイアスによって、過大視するという傾向は、当てはまります。
 (認知的一貫性とは)人間は自分のとった行動・態度に矛盾が生じないように動機づけられるというものです。避難した人は、自分劣った行動に矛盾が生じないように、放射線に対する不安を持ちつづけようとする心の動きがあります。一方、避難しなかった人は、自分のとった行動に矛盾が生じないように、放射線に対する不安を感じないようにしようという心の動きがあります。(了)

2015年10月2日

 中谷内先生のお話は、続いて、一般人のリスク認知がどのようにして生まれるのか、その仕組みと背景に移っていく。その後、福島の問題に入っていくのだが、本日は、その前まで。(以下、引用)

 二重過程理論は、最近の真価心理学や人間行動研究のシンポにより提唱されてきたものですが、人間の認知の仕組みの発達を合理的に説明できる仮説です。
 二重過程理論によれば、人間の思考には二つのシステムがあるとされます。
 一つは、経験的システムです。これは、①素早く無意識的に働き、おおざっぱな方向性を判断、②感情を伴い、直感的な評価をする、③イメージやストーリー、比喩による把握という特徴があります。
 もう一つは、分析的システムです。これは、①時間をかけて意識的に働き、精密に判断、②理性的で論理に基づいた評価、③抽象的な言語、数字などによる把握という特徴があります。

 経験的システムも分析的システムも働くのですが、日常生活の中でのリスクについては、どちらかと言えば、経験的システムが優越的に機能すると考えられます。
 人間の進化の歴史を見てみると、狩猟生活の歴史が長かったのです。狩猟生活の中では、たくさんのデータを集めて時間をかけて判断しているヒマはありません。例えば、野生動物が接近しているのが分かった時、それを狩るか逃げるか、仲間が襲われたときに助けるか逃げるかなど、即座に判断しなければなりまあえん。そういった生活の中で、少ない情報で時間をかけずに適切な判断ができるように進化してきたのが、経験的システムなのです。経験的システムをうまく使って生き延びてきた結果の末裔が、私たち、すなわちいま生きている人間と言えます。
 データを集めて、論理的に仮説を立てて検証していくという分析的システムは、人間が農耕や定住生活をはじめ、いわゆる古代文明を築いてから本格的に有効機能が始まったもので、せいぜい数千年くらいの歴史しかありません。

 ある分野で専門家と呼ばれる人たちでも、自分の専門領域外では、分析的システムを用いて判断しているわけではありません。経済学者が、自分の配偶者を選ぶときに、冷静に効用を計算して選んでいるとは思えませんが、それは日常生活の中の判断では、経験的システムが優勢に働いているからだと考えられます。……
 喫煙の健康リスクはかなり高いのですが、喫煙して平気でいる人でも、大気汚染については健康リスクを深刻に懸念するということが見られます。喫煙は、みずから選択していることであるのに対して、大気汚染は、受動的にさらされるという違いがあるため、自発的に接するリスクよりも受け入れにくいからです。……

 (リスク認知の2因子モデル)
 まず、第1因子として、「恐ろしさ」因子というものがあります。自分で容易に制御──たとえばリスクへの暴露を避けるなどができる──場合には、恐ろしさを感じにくくなりますし、自分では制御できない場合には、恐ろしさを感じやすくなるということがあります……。
 次に、第2因子として「未知性」因子というものがあります。要するに、人間は、よくわからない、目で見てその場で確かめられないものは恐く感じるということです。……
 この2因子モデルは、世界的なリスク認知研究の第一人者であるポール・スローヴィックによって80年代に提唱されたモデルですが、その後、日本を含む各国で研究調査がなされた結果、ほぼ同様の2つの因子がリスク認知の枠組みとしてあることがわかっています。

 自転車の事故によって、日本では、年に700人もの死者が出ていると言われます。ですから、客観的には、自転車事故のリスクというのは、軽視できないものです。しかし、……自転車は、誰でも簡単に運転でき、世界的な惨事を引き起こす可能性もありませんから、恐ろしさを感じることも非常に少ないです。しかも、皆が日常的に利用しており、よく知っている乗り物ですから、未知数因子も低くなります。ですから、自転車事故に関しては、客観的なリスクよりも、一般の人はリスクを低く感じる傾向があるということです。
 このようなことを理解することによって、例えば、自転車に関する安全意識を高める教育のあり方などの参考になり、社会的なリスク回避の取り組みに役立つと考えられます。専門家側が自転車のリスクは高いのは自明だと思っているところに、じつは、一般市民は自転車のリスクを軽視していること、そして、その理由はなぜかを教えてくれるので、コミュニケーションの方向性も出てくると思います。(続)

2015年10月1日

 昨日、福島生業裁判の第14回目の公判があった。私は大友良英さんの講演会が担当なので、裁判を傍聴することはできなかったのだが、そこでの証言が非常に大事なものなので、3回にわけてできるだけ客観的に紹介しておきたい。証言したのは中谷内一也さん。同志社大学の心理学部長で、政府の「低線量被爆のリスク管理に関するワーキンググループ」の第6回会合(2011年11月)で、有識者として参加し、発言している。低線量被爆の影響をどう考えるのか、それに対する人々によって異なる反応をどう捉えるべきかについて、きわめて説得的な説明をしておられる。なお、以下の引用は私が見聞きした範囲のものであり、正確なものは今後出される裁判記録を参照してほしい。「戦争法反対闘争から何を導くか」の連載は、まだまだ続くけれど、再開は来週ね。(以下、引用)

 リスクアセスメントの「アセスメント」とは、評価・査定という意味です。ですので、リスクアセスメントは、先ほど申し上げた専門家による「リスク評価」を指す言葉で、データやモデルに従って、生じるおそれのある害の程度と、その害が生じる可能性の大小に基づいて、リスクをできるだけ客観的に評価しようとします。
 これに対して、リスク認知というのは、このように客観的に評価されたものとは必ずしも合致するわけではありません。一般の人は、データによってリスクの認識・判断をしているわけではなく、さまざまな要因によって影響を受けますし、そのリスク認識・判断は、主観的・直感的という特徴があります。

 専門家のリスク評価というものは、ある望ましくない結果の程度と、その結果が生じる確率(頻度)にもとづくものです。
 例えば、国際放射線防護委員会(ICRP)のリスク管理の考え方がこの典型といえるでしょう。人が放射線被ばくによってガンを発生して死亡するリスク(ガン死亡リスク)について、100ミリシーベルトの被ばくでガン死亡リスクが0.5%上昇する、という表現をしばしば震災後しばしば耳にしました。例えば1000人の人がいて、もともともガン死亡リスクが30%だったとします。そうすると、1000人のうち、300人がガンで亡くなることになるわけですが、この1000人が全て一様に100ミリシーベルトの被ばくをしたと仮定すると、ガン死亡リスクは0.5%上昇し、30.5%になるので、305人がガンで亡くなることになります。……リスク評価の要素となる確率の考え方として、わかりやすいものと思います。これは、確率論では「頻度説」と言っています。

 一般人のリスク解釈は、そもそも確率を要素として判断しているとは限りません。仮に、リスクについて伝えられる中で確率情報に接したとしても、健康・安全・環境リスクについては、自分の命や体は一個しかありません。スペアが100、1000とあるわけではありません。ですから、頻度説に基づいて、ガン死亡リスクが0.5%上昇すると説明されても、それを自分の身に起こりうるリスク(確率)として高いと判断するか低いと判断するかは、人それぞれの事情によるということになります。個人の視点から見た確率解釈は、主観説と呼ばれます。
 例えば、ある人が子どもを連れて動物園に出かけようとするときに、その人が、過去に、動物園でオリからライオンが逃げて大騒ぎになったという事件について、動物園の近所で体験したことがあるとします。あるいは、過去に飼い犬に噛まれて大けがをしたことがあるとします。そのような人は、客観的なデータを示されたとして、それに対するリスク解釈としては、それ以外の人より、不安を強く感じる(リスクを大きく認識する)ことになるでしょう。

 専門家の行うリスクアセスメントと、一般の方のリスク認知は、そもそも基準や構成要素が異なります。ですから、単純に、どちらが正しくてどちらが誤りであるとはいえないのです。とくに、一般の人が不安を感じる基準が専門家のリスク評価と一致しているとか、しなければならないという根拠はありません。
 専門家の行うリスクアセスメントは、特定の個人を対象として行うものではありません。集団を対象とするリスク情報を提供することによって、リスクに対する集団的対処のための政策や行政的基準を作るために行われるものです。これに対して、個人のリスク認知は、他ならない自分や家族をリスクから守るためにはどのように行動するかという観点から判断されるものですし、その判断の背景には、その個人のそれまでの生活経験やそのなかで得てきた知識などを背景に、何を大事と考えるかという価値判断がありますから、人それぞれで異なっていて当然だと言うことです。
 大事なのは、どちらが正しくてどちらが間違っているということを問題にすることではなく、専門家のリスク評価と、一般人のリスク認知には違いがあることを認識することだと思います。(続)