2017年3月7日

 ちょっと間隔が空きましたが、続きです。なぜこんなタイトルの本を書きたいと思ったかという理由です。ある憲法学者が別の憲法学者のことを「危険だ」と批判したというところまで、前回書きました。

 批判された憲法学者は誰かというと、長谷部恭男さんでした。新安保法制反対の世論が盛り上がる一つのきっかけとなったのは、憲法学者三人が国会で「この法案は憲法違反だ」と断じたことでしたが、そのうちのお一人です。どのように批判されたかというと、「長谷部氏は新安保法制は違憲だと発言して脚光を浴びたが、彼は自衛隊も安保も合憲だという立場だ。そんな立場の憲法学者が注目されるのは危険だ」というものだったということです。又聞きですので、多少、不正確かもしれません。

 よく考えてみると、あの三人は、誰もが自衛隊違憲論の立場ではありませんでした。憲法学者といえば、以前なら九九%、現在でも七〇%程度の方は自衛隊違憲論の立場ですから、憲法学会の主流から見ると「異質」の方が呼ばれたわけです。そういう「異質」の考えが大事な役割を果たすことになると、自衛隊は違憲という正統派の主張の影が薄くなっていまうのではないか──長谷部さんを危険視した憲法学者はそう感じたのでしょう。

 しかし、三人が注目されたのは、自衛隊違憲論に立っていなかったが故だったと思います。憲法学会の主流の方が新安保法制違憲論を述べたとして、軍事法制はどんなものであれ違憲だと単純に主張するのでないにしても、国民の目から見ると、自衛隊違憲論なのだから何が出てきても違憲だだという大前提があって、論理はあとからついてきたものだと見えてしまうのではないでしょうか。とりわけ、国民のなかでは自衛隊の縮小(廃止ではない)を求める声は数パーセントしかなく、九割以上が自衛隊を認めるという現状では、自衛隊違憲論に立つ論理には違和感を感じる人のほうが多いでしょう。自衛隊は合憲だという憲法学者が、それでも新安保法制は違憲だと述べたことによって、国民の多くは心が通い合うような気持ちとなり、だから世論が高まったというわけです。

 ですから、長谷部さんたちには感謝することはあれ、危険視するようなことではありません。それ以前に、そもそも論になりますが、自衛隊合憲論の立場の人たちは、護憲派にとって友人としてもっとも手を差し伸べるべき相手ではないでしょうか。だって、自衛隊違憲論ということになると、違憲の自衛隊を合憲にするためには改憲するしかありませんが、自衛隊合憲論であれば、改憲は必要ないという立場に結びつきやすいのです。

 仲間を危険視するのは悲しいことです。気持ちが楽しくなりません。せっかく命がけで護憲運動をしているなら、毎日が楽しくなくてはやっていけません。だからこの本を書きたいと思ったのです。